古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆妻木晩田と青谷上寺地の盛衰

2016年10月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 妻木晩田遺跡は鳥取県の西側すなわち伯耆国にあり、青谷上寺地遺跡は鳥取県の東側である因幡国にある。鳥取県教育委員会のサイトなどをもとに妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡を確認したが、その発展と衰退を整理すると次のようになる。
 
   

 青谷上寺地遺跡は弥生前期後半に出現し、中期後半に繁栄の時期を迎えるが、後期に入ると倭国大乱に巻き込まれて多数の住民が殺傷され、その後すぐ、古墳時代前期に衰退することとなる。      
 妻木晩田は遅れて弥生中期後半に出現、後期に入って権力者が四隅突出型墳丘墓を築くようになって繁栄を始め、後期後半に青谷上寺地で多数の殺傷があった時期に呼応して最盛期を迎える。しかし集落の最盛期は長く続かず、古墳時代前半には衰退する。
 この2つの遺跡の盛衰の状況は何をあらわしているのだろうか。私は青谷上寺地を滅亡に導いたのが妻木晩田の勢力ではなかったと考えている。出雲(荒神谷や加茂岩倉)や因幡(青谷上寺地)に遅れて弥生時代中期に日本列島へ渡来してきた彼らは両者の勢力が及んでいない伯耆の地(妻木晩田)に勢力基盤を築いた。さらに彼らは渡来当初から戦闘を意識して高台に拠点を築いていったのだ。四隅突出型墳丘墓を築くリーダーは統率力に長けていた。そして弥生時代後期に入り、青谷上寺地は妻木晩田勢力の攻撃を受けて滅亡した。しかし、勝利した妻木晩田の集落がなぜ同時期に衰退することになるのか。これは村が滅亡したのではなく、集団ごと移動したのである。移動した先は出雲であった。



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