いよいよ葛城・纒向ツアーも後半戦、纒向編に入ります。
2日目も前日に続いて快晴です。8時に大和八木駅を出発して3つ先の桜井駅で下車。1台1,000円でレンタサイクルを借りて纒向踏査をスタートさせました。
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まず目指したのは大和川が奈良盆地に流れ込むところ。古来、大陸からの船が瀬戸内海、大阪湾を経て難波津から大和川をさかのぼって到着する船着き場があった場所とされています。6世紀半ばの第29代欽明天皇のとき、百済からの使節がここに上陸し、仏教を伝えたと言われています。
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仏教伝来の碑。
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仏教伝来の年代はいくつか説がありますが、有名なのが538年説と552年説です。小学校の時に覚えた「ほっとけほっとけゴミ屋さん」は今でも頭にこびりついています。
538年説は、「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあることが根拠となっています。欽明天皇の治世には戊午年がないので、もっとも近い宣化天皇3年(538年)をもってその年にあてています。
552年説は、「日本書紀」に欽明天皇13年(552年)10月に百済の聖王(聖明王)が使者を遣わして仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されていることを根拠としています。
ここに伝わった仏教の取扱いをめぐって国家を二分する勢力争いが勃発しました。蘇我氏と物部氏の争いです。新進豪族の蘇我氏は、伝統的な祭祀を取り仕切ることによって軍事力を含む強大な権力を誇った物部氏に対抗するために仏教の受入れを主張、かたや物部氏は自身の権力保持のためには仏教受入れは断固拒否。この争いは蘇我氏の勝利に終わり、こののち仏教は日本全国に広まるとともに、物部氏に代わって蘇我氏が絶大な権力を持つに至りました。
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仏教が伝来したときの天皇が第29代欽明天皇。日本書紀によるとその欽明天皇が宮をおいたのが磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)。古事記では「師木島大宮」と記されます。大和川を少しだけ遡ったところです。当初の行程には入れてなかったのですが自転車で5分もかからないので訪ねることにしました。
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次の訪問地は大和川の船着場から自転車ですぐのところにある海石榴市の跡地です。海石榴市は「つばきち」または「つばいち」と読みます。三輪山の南西にあった古代の市場で、「日本書紀」や「万葉集」によると、物品を交換する市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれ、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われました。
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海石榴市の説明板が桜井市金屋の村の中にひっそりと建っていますが、1,500年前はさぞかし賑わっていたのでしょう。すでに山の辺の道に入っています。
次はさらに北上して、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡へ。細い道ですが思っていた以上に急な登り坂です。このあとの長丁場を考えて体力を温存するために自転車を降りて押しました。
磯城瑞籬宮跡は志貴御県坐神社一帯とされ、境内に石碑と説明板が建っています。この地を宮跡とするのは江戸時代中期の史書である大和志に「三輪村東南志紀御県神社西に在り」と記されていることによります。
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志貴御県坐神社は、朝廷に献上する野菜を栽培する神聖な菜園の霊を神として祀る神社とされます。主祭神は大己貴命、あるいは志貴連の祖神である天津饒速日命など諸説あるようです。
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御県(みあがた)とは、天皇の御饌に供える蔬菜を栽培するために設けられた直轄領で、当社が鎮座するここ志貴御県の首長は磯城県主(のちの志貴連)とされています。代々の磯城県主は娘を第2代綏靖天皇から第6代孝安天皇までの各天皇の皇妃に入れたと記紀に記される古豪です。
小さな道の側溝には三輪山から湧き出した清水が溢れんばかりに音を立てて流れていました。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
2日目も前日に続いて快晴です。8時に大和八木駅を出発して3つ先の桜井駅で下車。1台1,000円でレンタサイクルを借りて纒向踏査をスタートさせました。
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まず目指したのは大和川が奈良盆地に流れ込むところ。古来、大陸からの船が瀬戸内海、大阪湾を経て難波津から大和川をさかのぼって到着する船着き場があった場所とされています。6世紀半ばの第29代欽明天皇のとき、百済からの使節がここに上陸し、仏教を伝えたと言われています。
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仏教伝来の碑。
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仏教伝来の年代はいくつか説がありますが、有名なのが538年説と552年説です。小学校の時に覚えた「ほっとけほっとけゴミ屋さん」は今でも頭にこびりついています。
538年説は、「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあることが根拠となっています。欽明天皇の治世には戊午年がないので、もっとも近い宣化天皇3年(538年)をもってその年にあてています。
552年説は、「日本書紀」に欽明天皇13年(552年)10月に百済の聖王(聖明王)が使者を遣わして仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されていることを根拠としています。
ここに伝わった仏教の取扱いをめぐって国家を二分する勢力争いが勃発しました。蘇我氏と物部氏の争いです。新進豪族の蘇我氏は、伝統的な祭祀を取り仕切ることによって軍事力を含む強大な権力を誇った物部氏に対抗するために仏教の受入れを主張、かたや物部氏は自身の権力保持のためには仏教受入れは断固拒否。この争いは蘇我氏の勝利に終わり、こののち仏教は日本全国に広まるとともに、物部氏に代わって蘇我氏が絶大な権力を持つに至りました。
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仏教が伝来したときの天皇が第29代欽明天皇。日本書紀によるとその欽明天皇が宮をおいたのが磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)。古事記では「師木島大宮」と記されます。大和川を少しだけ遡ったところです。当初の行程には入れてなかったのですが自転車で5分もかからないので訪ねることにしました。
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次の訪問地は大和川の船着場から自転車ですぐのところにある海石榴市の跡地です。海石榴市は「つばきち」または「つばいち」と読みます。三輪山の南西にあった古代の市場で、「日本書紀」や「万葉集」によると、物品を交換する市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれ、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われました。
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海石榴市の説明板が桜井市金屋の村の中にひっそりと建っていますが、1,500年前はさぞかし賑わっていたのでしょう。すでに山の辺の道に入っています。
次はさらに北上して、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡へ。細い道ですが思っていた以上に急な登り坂です。このあとの長丁場を考えて体力を温存するために自転車を降りて押しました。
磯城瑞籬宮跡は志貴御県坐神社一帯とされ、境内に石碑と説明板が建っています。この地を宮跡とするのは江戸時代中期の史書である大和志に「三輪村東南志紀御県神社西に在り」と記されていることによります。
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志貴御県坐神社は、朝廷に献上する野菜を栽培する神聖な菜園の霊を神として祀る神社とされます。主祭神は大己貴命、あるいは志貴連の祖神である天津饒速日命など諸説あるようです。
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御県(みあがた)とは、天皇の御饌に供える蔬菜を栽培するために設けられた直轄領で、当社が鎮座するここ志貴御県の首長は磯城県主(のちの志貴連)とされています。代々の磯城県主は娘を第2代綏靖天皇から第6代孝安天皇までの各天皇の皇妃に入れたと記紀に記される古豪です。
小さな道の側溝には三輪山から湧き出した清水が溢れんばかりに音を立てて流れていました。
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![]() | 古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |