鮮やかな木々の緑が風と踊り、辺り一面を染め上げていく。
自然が生を謳歌する今この時。そんな生命に彩られた一画に、不自然と取れる奇妙な形の物があった。
外見は束ねた草に覆われており、さながら木に取りついた繭の様。
その内部は大人2人が寝転がれるほどで、日の光が満足とは言えないほどに薄暗く、決して快適とは言えそうにない。
臭気も独特なものがあり、植物特有の青臭さに火を焚いた臭いが入り混じっている。
それらが鼻を突き、凡そ、人という群れの枠組みの中ではまず感じ様が無いものとなっていた。
その特異な場所は、ある男の手によるものだった。
枯れて他の樹木にもたれた古木を基礎に、以前作り上げた小さな建造物。
枝を蔓で結った骨組みに葉を幾重にもかけ、そこに虫避けの煙を浴びせたもの。
ご丁寧に、その床下には、体が冷えないよう苔を集めて敷いてある。
雨風を凌ぎ、不要な虫も寄せつけない小さな居場所。まさに自然の中だからこそ許された家屋といえる。
だが、そんな野性味溢れる物件も、その性質とはかけ離れた意味が有った。
――――「誰も寄せ付けない隠れ家」
山中の小さな家屋は、何時しかそんな意味合いも持たされていた。
元は山籠もりに使う為の物だが、製作者にとって此処は一人になるには都合がいいらしい。
この自分だけの世界で身を転がす存在。雪切透夜から、ふと声が漏れる。
喜びの安堵と、自身への実感を伴った呼びかけの様に。
だがその瞳は。漆黒の色彩は。鋭いままに焼けた天井を見据えていた。
「攫われた涙花の救出……上手く行くことが出来たか……」
皆で協力したからこそ上手く行ったのだと、改めて思う。
それに、経験が生きた。突発的な話ではあったが、初めてではない。
感情を殺して対処出来たのは、紛れもなくあの時の事件があるからだと自覚する。
「―――もう二度と、繰り返させはしない」
脳裏に浮かぶのは一人の少女。明るい普段とは真逆の、地に顔を伏されて泣くその姿。
忘れようもない遠い昔、まだジルべリアにいた頃の大切な友達……。
だが、有る時彼女は賊に攫われれてしまう。俺は、友達を取り戻そうと動いた。しかしそれは誤りだった。いくら志体持ちとはいえ、実戦経験のない子供が場馴れした賊に勝てる道理など無い。
それを解さず、激情に流され動いた結果がどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。
……感情では誰も救えない。そう思い知らされた。
事件が終わった時、自身の中である事が決定付けられる。
『この世に…御伽話の騎士などいない。自分に都合のいい偶像等、居やしない』
叱咤を含んだ父の言葉を受け、強く思った。ならば自分がなってやると。幻想を現実に変えてやると。
胸に打ち立てた在るべき騎士の姿―――御伽話の騎士。
明確な“そうなった”という在り様は何処にもなく、ただ概念だけが転がるのみ。
だからこそ求め続けなければならない。在り続けなければならない。
故に終生を懸けて果たす。そうでなくば、俺は許さないッ!
刹那、枯れた音が狭い室内に鳴り響く。
その音源である右手を見るや、理由が分かった。どうやら小屋に使った木材を無意識に握りしめていたらしい。
ああ、赤くにじんでいる。駄目だなぁと自嘲が浮かんだ。
気怠く小さなため息をつきながら、上半身を起こして薬はどこだったかと思索していると、外で何やら物音が聞こえる。
周辺にはケモノの類はいないはずだと思いつつも、即座に傍らに置いた刀を手に取り、身構えた。
「あ、いたいた。トウヤくん、み~っけ♪」
だが、警戒は無意味だった。
草で束ねた扉が開かれ、暗い中に陽光が差していく。場違いである明るい声を伴って現れたのは、神威人のミリートだ。ふわりとした犬耳と揺れる尻尾が、彼女を一際幼く見せる。
外向き様なのか、普段の華やかな着物とは違い、厚司織という神威独特の文様の入った装束を纏っていた。
「如何して此処に……」
「だう? 忘れちゃったかな? 一度、私からお願いして、狩りの際に連れてきてくれたじゃない?」
突然の来訪者に驚くこちらに、なんとはなしにそう答える。
ああ、そういえばそんなこともあったっけか。気を払った戦闘後と、些細な事だったのが相俟って思わず忘れていた。
しかし……それだけで本当に今の現状へ結びつくなら、何とも恐ろしい話だ。
「……そういうものかな」
「トウヤくんが随分変わった表情をしてたから、気になったの。だから、ヴァイスちゃんにどこに行ったのか聞いたんだ。
狩り道具を持っていったとのことだけど、此処で当たりだったみたいだね」
軽快に笑顔を向ける彼女に、頭が痛くなる。
気を抜いていた心算は無かったが、それが表に出たのだろうか? 精進不足もいいところだ。
或いは、思っている以上にナーバスになっていたのかもしれない。
しかし、ヴァイスにはこの場所を教えていない。道具の件だけで場所を探り当てたのなら、やはりこの娘は恐ろしいとしか言いようがない。
そんな人の心中を気に出来る訳もなく、何時ものように笑って、彼女は先の件を切り出し始める。
「涙花ちゃんの事は聞いたよ。勿論、上手く行ったこともね。お疲れ様」
「ああ、そうだな。とはいえ、僕一人で為したわけじゃない」
ぶっきらぼうにそう返す透夜に、彼女は子猫の悪戯っぽさを連想する笑みを浮かべ、そっと手を伸ばした。
柔らかい手の平で撫でられ、思わず視線を逸らすと、そこにくすくすと声が聞こえてくる。ああ、もう。
「照れない、照れない。よくしてたでしょ? 頑張ったんだから、褒められちゃおうよ、ね?」
なんだその理屈は。誰かこの素敵なわんこ姫をどうにかしてほしい。
幾分撫でられたのち、彼女は此方の方をじっと見詰める。自身の特徴である耳と尻尾をユラ付かせる、昔と同じ在り様で。
変わらない、変わり様がない、真っ直ぐな瞳。飾り気を一切持たない、ミリート・ティナーファという少女がそこにいた。
「まだ、あのことを気にしてるの?」
「気にしてないと言ったら嘘になる」
「おぉう、きっぱりと」
そう答える透夜。僅かばかりの苦笑いに、それでもミリートは微笑むままだ。
「不器用さんだなぁ、もう。私はね、必死になって助けてくれた事に感謝してるよ。
あのとき、本当に嬉しかったんだから」
その声に首を振る。
助けて等、いない。そう、何故ならば……。
「自分がしっかりしていれば、ミリートは傷つかずにすんだんだ。結局、何も出来てなんかないよ」
自然、向けていた視線が彼女の喉へと移る。あの事件で、ミリートは大事な声を失ってしまったのだ……。
彼女の一族は、ジルべリア中を渡り歩く奏楽一族だった。中でも、ミリートは次代を担う一族の歌い手として期待されていたという。実際に何度か聴かせてもらったが、その果実の様な甘い歌声は、音楽と疎遠の自分でもわかるぐらいに心地のいいものだった。
だが、それが失われた。歌い手としては致命的としかいいようがない。
彼女の一族がジルべリアという国に見切りをつけ、他国に移住した原因がこれだ。元より、あの国にはいなかった神威人として風当たりもあったようだが、この件が決定的なのは紛れもない事実。
苦虫を潰したような感覚が、胸の内で広がっていく。忘れようのない、向き合い続けなければいけないものだ。
「む~、暗い顔。ひょっとして声の事? 今喋れてるんだし、いいじゃない。そんなことでいつまでも悩まないの」
「随分とまあ、優しくするんだな……って、痛っっっ!? 痛い、ミリート痛いから!?」
問答無用。電光石火で思い切り耳を引っ張られた透夜。
目の前の犬姫様は相当お冠らしい。ふよふよと柔らか味のある犬耳が、いつの間にか針金が入ったかのようにピンと伸ばされている。普段、まずお目にかかれない状態といえよう。
「優しい? 違うね、苦しむならいつまでも一人で苦しんでなさいってこと。
全くもう。別れる前夜も悩んでたけど、また叩かれたい?」
抓まれていた片耳を抑えながら苦笑を浮かべる透夜に対し、目の前の少女は腰に手を当てながら口元をへの字で返してみせる。
その余りにもさっぱりとした在り様に、思わず透夜は笑ってしまった。
ホント、この娘は……。胸の内でそう呟くとともに、どうしようもなく温かさが込み上げてくる。ははは、実に心地いい。
「……ミリート」
「だう? なぁに?」
「……ありがとうな」
「ん、ちゃんと笑ってるね♪
私は大したことは出来ないけど、でも、トウヤくんの力にはなりたいと思ってる。友達には、笑っててほしいじゃない?
だからこそ、苦い事を貯め込むより、嬉しいことでいっぱいになって欲しいの」
「そうだな……。ミリートの言うそれが最もいいのかもしれない」
「じゃあッ」
「でも、駄目だ。これは、俺自身における一番苦い部分の一つなんだ。
だからこそ、目を向けなきゃいけない。逸らしてはいけない」
一呼吸を置き、前を見る。
それは覚悟であり、雪切透夜と言う人間としての在り様。
目の前に存在する日向の様な少女に、決して恥じることのないもの。
「俺が目指すべき騎士であるならば、正面から見据えるべきだ」
在るべき騎士を目指す者は、一欠片の迷いもなく断言する。
そう言い切る透夜を見て、ミリートは数秒呆れたように固まり、そして大きく笑った。
少女特有の無邪気な声が響き、小さなこの場所に波紋のように広がっていく。
「頑固者~。私の事をマイペースっていうけど、トウヤくんも大概そうだと思うよ」
「自覚してるよ、その辺は」
温か味のある笑顔を向けられ、自然、釣られて笑ってしまう透夜。あたかもそれは、ジルべリアにいたときと同じように。
互いに笑い合う中、先程痛みの伴う場所に柔らかい手が添えられる。
すっと撫でる小さな指は、先のものとは対極にある、それ。
「それじゃあ、もう私を遠ざけちゃダメだよ?
今までな~んか距離感じてたけど、理由がこれではっきりしたしね。そんなのもう無しなんだから♪」
やっぱり気づいてたのか……。
若干の罪悪感と共に胸の内で返すと、透夜はそれに頷き素直に「すまなかった」と頭を下げる。
数秒のお詫びの後、彼は顔を上げて前を見た。そこには険も陰も無く、穏やかにただ一人を見つめている。
そして今という時間から新しく歩む為、ジルべリアにいた頃と同じ気持ちを抱いて手を伸ばすと、少女は声を上げて嬉しそうに手を重ねた。
また一緒に。ささやかなそれこそ、二人が何よりも望んでいたものに他ならない。
「ミリート。改めて、宜しく頼むよ」
「えへへ。こちらこそ、よろしくさんだよ♪」
他者を拒む閉ざされた小屋の内を、今は陽光が差し込み、穏やかに覆っている。
さながらそれは、顔を向き合わせて笑い合う二人のこれからを、自然の溢れるこの場所が祝福しているかのようであった。
自然が生を謳歌する今この時。そんな生命に彩られた一画に、不自然と取れる奇妙な形の物があった。
外見は束ねた草に覆われており、さながら木に取りついた繭の様。
その内部は大人2人が寝転がれるほどで、日の光が満足とは言えないほどに薄暗く、決して快適とは言えそうにない。
臭気も独特なものがあり、植物特有の青臭さに火を焚いた臭いが入り混じっている。
それらが鼻を突き、凡そ、人という群れの枠組みの中ではまず感じ様が無いものとなっていた。
その特異な場所は、ある男の手によるものだった。
枯れて他の樹木にもたれた古木を基礎に、以前作り上げた小さな建造物。
枝を蔓で結った骨組みに葉を幾重にもかけ、そこに虫避けの煙を浴びせたもの。
ご丁寧に、その床下には、体が冷えないよう苔を集めて敷いてある。
雨風を凌ぎ、不要な虫も寄せつけない小さな居場所。まさに自然の中だからこそ許された家屋といえる。
だが、そんな野性味溢れる物件も、その性質とはかけ離れた意味が有った。
――――「誰も寄せ付けない隠れ家」
山中の小さな家屋は、何時しかそんな意味合いも持たされていた。
元は山籠もりに使う為の物だが、製作者にとって此処は一人になるには都合がいいらしい。
この自分だけの世界で身を転がす存在。雪切透夜から、ふと声が漏れる。
喜びの安堵と、自身への実感を伴った呼びかけの様に。
だがその瞳は。漆黒の色彩は。鋭いままに焼けた天井を見据えていた。
「攫われた涙花の救出……上手く行くことが出来たか……」
皆で協力したからこそ上手く行ったのだと、改めて思う。
それに、経験が生きた。突発的な話ではあったが、初めてではない。
感情を殺して対処出来たのは、紛れもなくあの時の事件があるからだと自覚する。
「―――もう二度と、繰り返させはしない」
脳裏に浮かぶのは一人の少女。明るい普段とは真逆の、地に顔を伏されて泣くその姿。
忘れようもない遠い昔、まだジルべリアにいた頃の大切な友達……。
だが、有る時彼女は賊に攫われれてしまう。俺は、友達を取り戻そうと動いた。しかしそれは誤りだった。いくら志体持ちとはいえ、実戦経験のない子供が場馴れした賊に勝てる道理など無い。
それを解さず、激情に流され動いた結果がどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。
……感情では誰も救えない。そう思い知らされた。
事件が終わった時、自身の中である事が決定付けられる。
『この世に…御伽話の騎士などいない。自分に都合のいい偶像等、居やしない』
叱咤を含んだ父の言葉を受け、強く思った。ならば自分がなってやると。幻想を現実に変えてやると。
胸に打ち立てた在るべき騎士の姿―――御伽話の騎士。
明確な“そうなった”という在り様は何処にもなく、ただ概念だけが転がるのみ。
だからこそ求め続けなければならない。在り続けなければならない。
故に終生を懸けて果たす。そうでなくば、俺は許さないッ!
刹那、枯れた音が狭い室内に鳴り響く。
その音源である右手を見るや、理由が分かった。どうやら小屋に使った木材を無意識に握りしめていたらしい。
ああ、赤くにじんでいる。駄目だなぁと自嘲が浮かんだ。
気怠く小さなため息をつきながら、上半身を起こして薬はどこだったかと思索していると、外で何やら物音が聞こえる。
周辺にはケモノの類はいないはずだと思いつつも、即座に傍らに置いた刀を手に取り、身構えた。
「あ、いたいた。トウヤくん、み~っけ♪」
だが、警戒は無意味だった。
草で束ねた扉が開かれ、暗い中に陽光が差していく。場違いである明るい声を伴って現れたのは、神威人のミリートだ。ふわりとした犬耳と揺れる尻尾が、彼女を一際幼く見せる。
外向き様なのか、普段の華やかな着物とは違い、厚司織という神威独特の文様の入った装束を纏っていた。
「如何して此処に……」
「だう? 忘れちゃったかな? 一度、私からお願いして、狩りの際に連れてきてくれたじゃない?」
突然の来訪者に驚くこちらに、なんとはなしにそう答える。
ああ、そういえばそんなこともあったっけか。気を払った戦闘後と、些細な事だったのが相俟って思わず忘れていた。
しかし……それだけで本当に今の現状へ結びつくなら、何とも恐ろしい話だ。
「……そういうものかな」
「トウヤくんが随分変わった表情をしてたから、気になったの。だから、ヴァイスちゃんにどこに行ったのか聞いたんだ。
狩り道具を持っていったとのことだけど、此処で当たりだったみたいだね」
軽快に笑顔を向ける彼女に、頭が痛くなる。
気を抜いていた心算は無かったが、それが表に出たのだろうか? 精進不足もいいところだ。
或いは、思っている以上にナーバスになっていたのかもしれない。
しかし、ヴァイスにはこの場所を教えていない。道具の件だけで場所を探り当てたのなら、やはりこの娘は恐ろしいとしか言いようがない。
そんな人の心中を気に出来る訳もなく、何時ものように笑って、彼女は先の件を切り出し始める。
「涙花ちゃんの事は聞いたよ。勿論、上手く行ったこともね。お疲れ様」
「ああ、そうだな。とはいえ、僕一人で為したわけじゃない」
ぶっきらぼうにそう返す透夜に、彼女は子猫の悪戯っぽさを連想する笑みを浮かべ、そっと手を伸ばした。
柔らかい手の平で撫でられ、思わず視線を逸らすと、そこにくすくすと声が聞こえてくる。ああ、もう。
「照れない、照れない。よくしてたでしょ? 頑張ったんだから、褒められちゃおうよ、ね?」
なんだその理屈は。誰かこの素敵なわんこ姫をどうにかしてほしい。
幾分撫でられたのち、彼女は此方の方をじっと見詰める。自身の特徴である耳と尻尾をユラ付かせる、昔と同じ在り様で。
変わらない、変わり様がない、真っ直ぐな瞳。飾り気を一切持たない、ミリート・ティナーファという少女がそこにいた。
「まだ、あのことを気にしてるの?」
「気にしてないと言ったら嘘になる」
「おぉう、きっぱりと」
そう答える透夜。僅かばかりの苦笑いに、それでもミリートは微笑むままだ。
「不器用さんだなぁ、もう。私はね、必死になって助けてくれた事に感謝してるよ。
あのとき、本当に嬉しかったんだから」
その声に首を振る。
助けて等、いない。そう、何故ならば……。
「自分がしっかりしていれば、ミリートは傷つかずにすんだんだ。結局、何も出来てなんかないよ」
自然、向けていた視線が彼女の喉へと移る。あの事件で、ミリートは大事な声を失ってしまったのだ……。
彼女の一族は、ジルべリア中を渡り歩く奏楽一族だった。中でも、ミリートは次代を担う一族の歌い手として期待されていたという。実際に何度か聴かせてもらったが、その果実の様な甘い歌声は、音楽と疎遠の自分でもわかるぐらいに心地のいいものだった。
だが、それが失われた。歌い手としては致命的としかいいようがない。
彼女の一族がジルべリアという国に見切りをつけ、他国に移住した原因がこれだ。元より、あの国にはいなかった神威人として風当たりもあったようだが、この件が決定的なのは紛れもない事実。
苦虫を潰したような感覚が、胸の内で広がっていく。忘れようのない、向き合い続けなければいけないものだ。
「む~、暗い顔。ひょっとして声の事? 今喋れてるんだし、いいじゃない。そんなことでいつまでも悩まないの」
「随分とまあ、優しくするんだな……って、痛っっっ!? 痛い、ミリート痛いから!?」
問答無用。電光石火で思い切り耳を引っ張られた透夜。
目の前の犬姫様は相当お冠らしい。ふよふよと柔らか味のある犬耳が、いつの間にか針金が入ったかのようにピンと伸ばされている。普段、まずお目にかかれない状態といえよう。
「優しい? 違うね、苦しむならいつまでも一人で苦しんでなさいってこと。
全くもう。別れる前夜も悩んでたけど、また叩かれたい?」
抓まれていた片耳を抑えながら苦笑を浮かべる透夜に対し、目の前の少女は腰に手を当てながら口元をへの字で返してみせる。
その余りにもさっぱりとした在り様に、思わず透夜は笑ってしまった。
ホント、この娘は……。胸の内でそう呟くとともに、どうしようもなく温かさが込み上げてくる。ははは、実に心地いい。
「……ミリート」
「だう? なぁに?」
「……ありがとうな」
「ん、ちゃんと笑ってるね♪
私は大したことは出来ないけど、でも、トウヤくんの力にはなりたいと思ってる。友達には、笑っててほしいじゃない?
だからこそ、苦い事を貯め込むより、嬉しいことでいっぱいになって欲しいの」
「そうだな……。ミリートの言うそれが最もいいのかもしれない」
「じゃあッ」
「でも、駄目だ。これは、俺自身における一番苦い部分の一つなんだ。
だからこそ、目を向けなきゃいけない。逸らしてはいけない」
一呼吸を置き、前を見る。
それは覚悟であり、雪切透夜と言う人間としての在り様。
目の前に存在する日向の様な少女に、決して恥じることのないもの。
「俺が目指すべき騎士であるならば、正面から見据えるべきだ」
在るべき騎士を目指す者は、一欠片の迷いもなく断言する。
そう言い切る透夜を見て、ミリートは数秒呆れたように固まり、そして大きく笑った。
少女特有の無邪気な声が響き、小さなこの場所に波紋のように広がっていく。
「頑固者~。私の事をマイペースっていうけど、トウヤくんも大概そうだと思うよ」
「自覚してるよ、その辺は」
温か味のある笑顔を向けられ、自然、釣られて笑ってしまう透夜。あたかもそれは、ジルべリアにいたときと同じように。
互いに笑い合う中、先程痛みの伴う場所に柔らかい手が添えられる。
すっと撫でる小さな指は、先のものとは対極にある、それ。
「それじゃあ、もう私を遠ざけちゃダメだよ?
今までな~んか距離感じてたけど、理由がこれではっきりしたしね。そんなのもう無しなんだから♪」
やっぱり気づいてたのか……。
若干の罪悪感と共に胸の内で返すと、透夜はそれに頷き素直に「すまなかった」と頭を下げる。
数秒のお詫びの後、彼は顔を上げて前を見た。そこには険も陰も無く、穏やかにただ一人を見つめている。
そして今という時間から新しく歩む為、ジルべリアにいた頃と同じ気持ちを抱いて手を伸ばすと、少女は声を上げて嬉しそうに手を重ねた。
また一緒に。ささやかなそれこそ、二人が何よりも望んでいたものに他ならない。
「ミリート。改めて、宜しく頼むよ」
「えへへ。こちらこそ、よろしくさんだよ♪」
他者を拒む閉ざされた小屋の内を、今は陽光が差し込み、穏やかに覆っている。
さながらそれは、顔を向き合わせて笑い合う二人のこれからを、自然の溢れるこの場所が祝福しているかのようであった。