あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

夏の風干物の浜辺でまっしぐら  あきオジ

2011-05-19 18:02:35 | 日記
神代植物公園です。

菜の花にくるりくるりと入る日哉   一茶

月花や四十九年のむだ歩き  一茶

(一茶は無念さ口惜しさをことばにしたことにおいて世に出た俳人かもしれません。芭蕉に比してあれこれものをいう正統派の俳人や評論家がいますが、どうなのでしょうかね。そろそろ絶対安全な評価が定まった俳人と比較する発想をやめたらどうなのでしょうかね。芭蕉の真摯な姿勢も素敵ですが、うまくいかず屈折してしまう一茶も身近でリアルであると評価する人が出てきてもよさそうですが、実際はどうなのでしょうか。勉強もしたことがありませんが、教えてもらいたいですね。)

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それなりにそれぞれの夏になりにけり  あこオジ

2011-05-19 17:39:06 | 日記
神代植物公園のマーガレット

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こころからしなのの雪に降られきり  一茶

(柏原に戻ったけれども、人の心も雪のようだった。そんなことで滞在四日で江戸に逆戻りした一茶の心境なのでしょう。読むほうも「心が痛い」。そんな感じの句ですね。この句は一茶の代表句にしてもいいのではないでしょうか。鑑賞を重視した芭蕉と違って、自己表現を重視したことにおいても、特筆すべき句ではないでしょうか。素人が評価するのも無礼ですが、私はかなり起きに入りの句です。)

雪ちるやおどけも言へぬ信濃空  一茶

(この句も、苦々しさが、ひとり言のように出てくる。個人的な風景とも読めるし、信濃の冬そのものの重さともとれますが、一元の客ではない、生活者としての重さであることが旅の人の句とは違っているような気がします。)

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「ボリス・ゴドノフ」を見ていました。
ムソルグスキーがプーシキンの作品をオペラにしたものです。
女性が軽い役でしか登場しない、珍しいオペラです。
主役のボリスはバス歌手です。
群衆による歌唱が多いので重厚な作品ですね。
今回はトリノ劇場版ですが
ロシア版だと衣裳、装置だけでも莫大なものだそうです。
6万7万払っても見たい人もいるのですね。
私はオペラは苦手ですし
咳がでないように我慢していることを想像しただけで
音楽界は辛いです。
ですから、テレビで録画したものを見るだけで十分です。
このオペラは唯一耐えられる作品で
けっこう回数をこなしています。

そういえば、朝、クラシック倶楽部でブラームスの弦楽六重奏曲を聞きました。
哀愁にみちた旋律を久しぶりに聞いて嬉しかったです。
懐かしい音楽との再会というのもいいですね。

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スニーカー老人用あり藤の花  あきオジ 

2011-05-19 05:34:57 | 日記
神代植物公園
バラは今週が見事ですね。
終わった花を切り落とす作業が始まっています。

バスはフル回転で運行されています。

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破れた靴がぱくぱく口あけて今日も晴れる  放哉

(このような状況を俳句にするのが放哉らしい。ため息にも思えるし、自嘲的とも取れるし、外にネタもないし、あれこれ想像しますが、「今日も晴れる」ということばの単純明快さ、そしてありがたさを感じる句ですね。「今日も晴れる」だけでもいいですね。

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雲ない。今日も晴れる   あきオジ

緑深い。  山々続く  あきオジ




表裏ないまぜに落ちる牡丹哉   あきオジ

2011-05-19 05:22:35 | 日記
神代植物公園です。

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菜の花や月は東に日は西に  蕪村

(このスケールの大きさを評価する人が多いようですが、このゆったり感が何よりもいいですね。この句を「近世俳句俳文集」(小学館)から引用しているのですが、俳句の解説に6行ほど使っているのですね。この句にどのような解説が必要と言うのでしょうかね。解説が必要な俳句など俳句ではない。そんなことも思いますが、「まあ、いいか」の世界ですね。最初に膾炙した句を引用し、それを評価している。いまさら、あれこれ言ったり、駄作であるなどという評価もできないでしょうからね。そんな傾向が俳句には強いですね。徒弟制度がお茶などと同じように連綿と続いているのですね。きっと、このようなシステムが日本人にはあっているのでしょう。)

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さみだれや大河を前に家二軒  蕪村

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眼科の治療と風邪ひきが重なりました。
こんなことも老人になるとあるのですね。
どうやら、安定しましたが、これからさき、こんなことの連続だと思うとため息も出ます。

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若冲の風に揺れる牡丹かな  あきオジ

2011-05-19 05:06:17 | 日記
神代植物公園の芍薬です。
牡丹と同じ庭に植えてあります。
ですから、芍薬と牡丹は意識しないと同じものだと錯覚してしまいます。
それにしても、花は組み合わせですね。

ただ、肥沃な場所に植えて
そして美しい花が咲けばいいというものではないですね。
岩組とセットにするなどの物語
寺との組み合わせ
そんな創意があると物語としての牡丹が出てきます。

それぞれのデザイナーが工夫する時代になりましたね。

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雲を呑んで花を吐くなりよしの山   蕪村

(このような過剰な表現もいいですね。写生も一つのスタイルに過ぎないということが分かります。このような大胆な句を見ることができるのでしょうか。俳句の機関誌など見ればわかるのでしょうが、出版社のベテランを丁重に扱い、金を出すと活字が大きくなっているかどうか分かりませんが、そのような閉鎖的な雑誌も開きたくないし、まあ、中途半端なままでいいかな。俳句の消え去る運命まっしぐらの時代に楽しめるのもいいかもしれません。)

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丸岡町ではじめた「日本一短い手紙」とでもいうような短詩や絵手紙、フォト575というようなソフトが流行している時代、芭蕉の写生が基本であるとか季語が絶対必要だなどという暢気さもいいけれど、時代をくみ取ることができませんね。でも、それも面白そう。今は俳句は伝統芸能ですからね。

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