あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

初夏の聲虎柄紙に書きとめる  あきオジ

2011-05-28 17:28:19 | 日記
神代植物公園

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あすは来るといふ雨の蕗を煮ておく  山頭火

(上機嫌を感じる句ですね。そんな軽快さもないと、息苦しくなってしまいます。ひらがな文字で単純明快、そんな俳句もどきが作れれば、自分の人生記録になりますね。他人に勧めるより、自分が実践すればいい。それだけの話ではあります。)

春はゆき鉢の子もつてどこまでも  山頭火

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「晴れ、どきどき散歩」(ブログ)を内容を一新しよう思っています。
でも新機軸があるわけでなく、今のままでは、「何か」を引き出すチャンスにはならないと思ったからです。
とりとめのない流れを考える年齢ではありません。

一つずつ削りながら
のこったものが自分の抜けがらなのだ。
そんな思いに達することができれば
それなりにいいかなと思っているのです。

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田植えすみとりあえずの立ち上がり  あきオジ

2011-05-28 17:16:24 | 日記
神代植物公園で開催中のさつき展です。

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春風に箸を掴で寝る子哉  一茶

(こども大好きなのに、子に恵まれながら成人まで生きられなかった。時代背景もあるでしょうが憐れな話ですね。子を死なせた妻を詰る一茶も気の毒ですが、もっと気の毒なのは一茶ではなく、その妻なのですね。そんなことを連想しながらこの句を選びました。)

竹ぐれで手習いをするまま子かな  一茶

(このような句を一茶が作ると胸が痛くなりますね。両親の不仲、義母との確執、腹違いの弟との財産争い、そして、夭折してしまう子ども、修羅場でもあった家庭などを思うと、一茶にあれこれ注文するつもりもなくなります。それぞれが人生の錘を引きづっているのですね。)

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徳永英明のDVD(珍しく購入したDVDです)を聞きながら更新作業をしています。
なぜ、この時代に徳永英明が人気なのでしょうか。

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どうでもいい言いわけしながら茗荷食う  あきオジ

2011-05-28 17:04:55 | 日記
神代植物公園の芍薬です。

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草の雨祭の車過ぎてのち  蕪村

(この祭とは葵祭ということです。京都の祭は見たことがありません。きっと、その気に成らなかったのでしょう。それにしても観光用の祭だと思っていましたが、蕪村の時代にもあったのです。)

寂として客の絶間のぼたん哉  蕪村

(この間のとらえ方が何ともいえず巧みなのが蕪村ですね。時間のずれとか間合いの面白さを的確にとらえますね。さすがですね。そんな言い方は生意気ですかね。でも、誰もかれも素人なのですから言いたい放題がいいですね。そうでもないか。)

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俳句の作者は、60代から70代の女性が過半数なのだそうです。
そういうわけではないでしょうが、季語にこだる背景がわかるような気がします。
明らかにお稽古ごととして成り立っているのですね。

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細き雨門前蕎麦屋は暖簾下げ  あきオジ

2011-05-28 05:57:13 | 日記
神代植物公園です。

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おらが世やそこらの草も餅になる  一茶

(「おらが」という表現が面白いですね。そして、「そこらの草も餅になる」という小学生俳句のような唐突さが「らしい」ですね。だから、どうだという感想もありませんし、善意に解釈するつもりもありません。初心者の素人は、何でも読む。それだけですね。それが面白ければそれでいい。)

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山からしたたる水である  山頭火

(自分を表現する「場」があることだけでも幸運な人なのですね。そう思います。俳句に満足していたかどうか分かりませんが、周囲の評価には満足していたのではないでしょうか。)

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読みかけのニーチェつき刺す赤き薔薇  あきオジ

2011-05-28 05:39:08 | 日記
神代植物公園の薔薇も終わりですね。

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考え事して橋渡りきる  放哉

(放哉の句には「渡りきる」「暮れきる」という表現が多いですね。この断定したうえに念を押すような表現はどこから来るのでしょうかね。すでに専門家が研究しているでしょうね。その表現がなかったら放哉の句は、さほど面白くないのかもしれません。行為そのものを取りあげることで自分を表現できる。そのように考えていたのでしょうかね。きっと、中学辺りの教材で取りあげたら「何これ?」で終わってしまうでしょうね。)

一人でそば刈ってしまった  放哉

(ときおり、放哉の句は民謡ではないかと思ったりもします。理由はないのですが、働いても貧しさから抜けられぬ。でも、働くしかない。あきらめとも慰めともつかぬ一人歌。そんな気もします。何となく、そう思ったりもするのです。でも、放哉の後半の人生では労働の苦しみを宿命として背負う強さがありませんでしたね。)

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ユリの花世間を見るため咲きにけり  あきオジ

2011-05-28 05:22:08 | 日記
神代植物公園のユリの木

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嵐が落ちた夜の白湯を呑んでいる  放哉

(放哉の膨大な無心の手紙が残っていますし、評伝などで知ることができますが、「ここまでできるか」というところまでやりますし、それを「当たり前である」かのような文章にも驚かされます。善意の人は「脅されていた」と感じるでしょう。それが当時の時代感覚であったのかもしれません。孤高を武器にして生きる。それもありかなと思ったり、複雑ですね。思えば、石川啄木の父子もけっこうなことをしていたようですし、それが生きている人間の現実なのですね。)

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放哉の句が評価されるのは、何なのでしょうかね。

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暗黒や関東平野に火事一つ  兜太

(この句を兜太が選んでいる。あれれ。そんな感じです。このごろ思うのです。俳句ってなんだろう。難しいことには興味ないし、そのようなことを正面から考える気力もありませんから、言いませんが、タイピンのようなものかもしれません。その人の体形とも関係ありませんし、知性ともさほど関係ありません。関係ありそうでいて、関係ないけど表現されたつもりになれる。そんなことかもしれないなあ。だから、安心して面白い。俳人はしゃれたタイピンをつける人が多いかな。そんな因果関係はないかな。でも、s知性も感性もさらけだしてしまう短歌との違いなのかもしれません。)

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