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2022 10/2の拝観報告2 最終(小栗栖 明智光秀・最期の謎!歴史研究者とたどる、戦国時代の小栗栖 まいまい京都)
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写真は、光秀が致命傷を受けたとされる明智藪。
毘沙門堂を出て、外環状線を南下します。
地下鉄石田駅の西側のコインパーキングに駐車して、14時前に集合場所の石田駅の改札へ。
今回はまいまい京都の「小栗栖 明智光秀・最期の謎!歴史研究者とたどる、戦国時代の小栗栖」に参加しました。
小栗栖って、恐らく聞いたことはあると思うんですよ。
明智光秀の最期の場所として、かなり有名だと思います。
しかし京都の人でも、小栗栖に行ったことありますか?と言われると、多くの方がないのではないでしょうか。
僕もそうでした。
多分行っても、コレという分かりやすい目標地点もないので、1人では行きにくいですよね。
そういう意味で、今回のツアーは有難かったです。
参加費は3500円。
参加者は18名でした。
石田駅から西へ。
山科川を渡って、団地の中を歩きます。
この団地も昭和50年ぐらいに開発されたもので、それまでは山。
新小栗栖街道に出て、案内された正面の小山が小栗栖城。
戦国時代に砦のような城があったそうです。
在地の飯田氏が治めていたそうです。
ここからさらに西の山際へ。
入り組んだ住宅街を歩きます。
小栗栖宮山の脇を歩き、弘法大師杖の水まで来ました。
この道の奥の右手に、なんの目印もない古道があります。
これが明智越です。
明智越とは、天王山で敗れた明智光秀が、本拠地の坂本帰るべく
深草から醍醐へ抜ける際に通った山道です。
通常山崎から坂本へ帰るなら、京を経て東海道、
もしくは大和街道から山科を経るルートですが、敗軍の将は落ち武者狩りに合うので目立つルートは通れません。
なのでこのような隠れたルートになります。
この明智藪からは、光秀の辿ったルートを順行します。
もうずっと山の東側を歩きますが、本来はもっと山の中だっただろうとのこと。
途中で小栗栖八幡宮を経ますが、この辺りに飯田氏の館があったそうです。
そして本経寺方面へ。
この途中で東に逸れ、事前に許可を頂いた個人の畑へ。
小山の上にある畑で、ここが小栗栖城のかつての二の曲輪です。
こういうのはまいまいでないと事前許可取れないですよねw
そしてこの小栗栖城と本経寺の間にあるのが、明智藪。
光秀が致命傷を負ったという場所です。
落ち武者狩りの農民に突かれたとか、飯田氏の一味だったとかあるようですが、この場所で槍で刺され、さらに200mぐらい北上したところで絶命したらしいです。
確かに住宅街で道が狭く、目印も分かりにくい。
なかなかみんなが来るスポットにはなりにくいでしょうか。
しかし個人的には勉強になりました。
16:30頃に終了し、この日は帰宅しました。
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