メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」(メトロポリタン)

2012-07-12 14:11:30 | 音楽一般

ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」 

指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:スティーブン・ワズワース

ルネ・パーペ(ボリス)、エカテリーナ・セメンチェック(マリーナ)、アレクサンドルス・アントネンコ(グレゴリー(偽ドミトリー))、ミハイルペトレンコ(ピーメン)、アンドレイ・ポポフ(聖愚者)

2010年10月23日 ニューヨーク・メトロポリタン、 2012年6月WOWOW 放送録画

 

ずいぶん前に「ボリス」の映像を見た、という記憶はあるけれど、今回のようにきれいな画面ではないから、内容についてはあまり覚えていない。

 

皇帝になる過程でイワン雷帝の息子ドミトリーを殺してしまい、そのことに自ら悩み、次第に狂気を帯びていくボリス、ドミトリーは死んでいないという伝説を利用しドミトリーになりすまし、ポーランドからロシア正教とカトリックの争いに利用され?別の見方をすればそれを利用し、ポーランドからモスクワに攻め上るグレゴリー、そしてかなり長い全曲の中で、これに年代記を作っている僧ピーメン、目が見えず健常者とはちがったものが見える聖愚者が加わった時代劇というか歴史劇。

 

ボリスという人の内面は複雑で、どろどろしているが、それはこうしてオペラで聴いてどうかというと、この長時間は無理がある。

音楽に沿ってたとえばボリスの心情を追体験、といっても、何か入っていけない。ボリスの子供たちも出てくるが、それはつけたりの感もある。

 

際立った旋律は特にないが密度の濃い音楽、ゲルギエフの指揮はここでも繊細かつ迫力があり、オーケストラと合唱はそれによく応えている。特に合唱団の歌唱と演技は特筆もので、メトの合唱団がまるで外国語のロシア語を覚えこみ、意味を理解して演技もするのは、この曲の規模を考えるとたいへんなものである。特に、ボリスが息絶えて暗転、解き放たれた群衆が舞台になだれ込んでくるところ、、、

 

ワズワースの演出では、舞台装置は今の流行であまり具体的な大道具、調度を置かないものだが、畳のように大きいものに書き加えられつつある年代記(?)がいろんな場面で象徴的に使われており、これは効果的である。

 

あと、ルネ・パーペのボリス、その迫力と演技、表現がすごい、というのはわかる。主要な歌手の中でこのひとだけがロシア語を母国語としていない。パーペはドイツ生まれである。今、バスでは第一人者だろう。

 

ともあれ昔から評価は高い曲だが、何か今一つ感動にはいたらない、と誰もいえない作品なのではないか?

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」(メトロポリタン)

2012-07-09 15:58:12 | 音楽一般

歌劇「エフゲニー・オネーギン」: チャイコフスキー

指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:ロバート・カーセン

ルネ・フレミング(タチヤーナ)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(オネーギン)、エレーナ・ザレンバ(タチヤーナの妹オリガ)、ラモン・ヴァルガス(レンスキー)

2007年2月24日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、 2012年6月 WOWOW放送録画

 

一度か二度、映像で見たことはあるはずだが、かなり以前でよく覚えてはいない。今回こうしてみてみると、本当にプーシキンの原作かと思うほど、話の筋や構成はものたりない。あとで調べてみたら、ずいぶん省略があったようだ。

 

ロシアの田舎の多分貴族が住んでいるところ、娘のタチヤーナは訪ねてきた二人の男のうちオネーギンに夢中になるが、二人ともどちらかというと妹のオリガがめあてで、もう一人のレンスキーは彼女と恋仲になる。タチヤーナはオネーギンに手紙を書く(有名な手紙の場)。しかしオネーギンはそれを彼女の若さのゆえと諭して去る。

 

このあとが問題で、オネーギンは当時のロシアの小説によく登場する「ふさぎの虫」というか、いつまでも集中できるものを持てない、しかし男前というだけである。そして気まぐれにオリガに手をだしてレンスキーと決闘になり相手を殺してしまう。そうなると、そのあとに主たる登場人物の豊かな感情を期待できない状態をきたしてしまう。決闘の後、すぐにあの有名なダンスの旋律が再び出てくるのは、狙った虚しさだろうか。

 

老侯爵と結婚しているタチヤーナを今度は好きになっていいよるが、当然これは無理なことは観客にもわかっている。

 

それでもチャイコフスキーの音楽は美しい旋律と的確なリズムでよくできている。望むらくはもっと大きな振幅を感じさせるものがほしいけれど。

 

タチヤーナのルネ・フレミングはいつもより感情移入の大きい役で、ちがった魅力を見せている。オリガのエレーナ・ザレンバと、レンスキーのラモン・ヴァルガスの恋人たちの二重唱は聴き映えがするが、これは主人公オネーギンの最後まで好かれない性格を強調することになっている。

 

ゲルギエフの指揮、練習風景も放送されたが、この人は精緻で柔軟、ロシアものばかりでなく現代もっとも評価の高い指揮者の一人というのもうなずける。

 

そしてロバート・カーセンの演出は、あまり具体的な背景、調度類を使わず、田舎は枯葉にうまった舞台、パーティも椅子だけなど、そして場面の切り替えでオネーギンだけ舞台に残し、衣装替えなど何か意味を伝えようとしている。筋立てに問題があるからこのくらい象徴的な演出の方がいいだろう。この人どこかで、と思ったら、例のスカラ座「ドン・ジョヴァンニ」を演出した人だった。

 

第一幕の前半、乳母とのやりとりの中で「習慣は天からの授かりもの、幸福の代わりになる」という台詞が強調される。これは終わってみればこの作品の基調のひとつであろうか。

 

というと思い出すのは、男女が逆転するが映画「シェルブールの雨傘」である。これは最後これでもかという表現はなく、でも見ているものはすべて理解する。作られた時代の違いでもあるのだろう。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤獨の人(藤島泰輔)

2012-07-08 21:34:41 | 本と雑誌

「孤獨の人」 藤島泰輔 著 (岩波現代文庫)

藤島泰輔(1933-1997) が書いた「孤獨の人」という小説が、著者の学習院在学時に学友だった皇太子(今上天皇)のことを書いていてかなりゴシップ沙汰になったということは、まだものごころついていなかったはずなのになぜか覚えている。著者が記者として勤めていた東京新聞を家でとっていたから、出版より少し後かもしれないが目に入りやすかったのだろう。

 

とはいえ、その本そのものを目にすることもなく、おそらくその後の再販流通も少なかったらしく、忘れたころに最近出てきた。

 

もっと際物とおもったら、これはこれで、普通にはうかがい知れない学習院のその学年の特殊な事情ばかりでなく、高校生同志の様々な交流確執がかなり生々しく遠慮なく書かれている。

 

コクトー「恐るべき子供たち」とまではいかなくても毒を含んでおり、同じ年に出た石原慎太郎「太陽の季節」より普遍的なものをとらえているようなところもある。

ただそれが、社会や時代を突き刺す何かを持つかというと、その一世代後に出た庄司薫の赤頭巾ちゃんシリーズまで待たなくてはならなかったかな、と後者の登場をリアルタイムに見ていた私は勝手に考える。

 

それにしても、本の冒頭に三島由紀夫の卓抜な序があることそして著者の生前の政治的スタンスを考えれば、これがあの岩波から文庫で復刻されたことに、時代の推移を感じる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナイト&デイ

2012-07-05 15:54:19 | 映画

ナイト&デイ (Knight And Day、2010米、109分)

監督:ジェームズ・マンゴード

トム・クルーズ、キャメロン・ディアス

 

諜報組織の何重もの裏切りの中に、その一員(トム)と偶然出会った何も知らない女性(キャメロン・ディアス)が巻き込まれ、数々の危機を、信じられないアクションと仕掛けで潜り抜けていく、というそう珍しくはないストーリー。

しかし、アクションの展開は早すぎるほどであり、格闘、カーチェイスなどもマンガのようである。

 

暇つぶし映画としてそうひどいとは思わないが、「バニラ・スカイ」という難しい作品で共演した大物コンビを使うのはもったいない。まあ、この二人でなくもっと無名な人でも見る映画かどうかということはある。

 

後半、少し状況が呑み込めてきたキャメロンがよきアメリカ車リストアが趣味ということから、自分が改造したポンティアックGTOを駆って相手に挑んでいくところから、おやと思わせる調子に少し変わってくる。

 

ところでこの題名、てっきりNight And Day と思っていて、これはコール・ポーターの名曲(映画「Gay Divorce」で使われている)でジャズ・ヴォーカルのスタンダード・ナンバーであるが、よく見るとNightでなくKnightである。主人公が女性を守り続けるというトーンがこの映画にあるからもあるのだろうが、実は主人公の生まれたときの姓がKnightということが途中でわかる。それを掛けたのだろうが、それではDayは?となるとこれはわからない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェルディ「レクイエム」 (カラヤン ミラノ・スカラ座)

2012-07-04 14:27:49 | 音楽一般

ヴェルディ作曲:レクイエム

カラヤン指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団、合唱団

レオンタイン・プライス(ソプラノ)、fジオレンツィア・コッソット(アルト)、ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)、ニコライ・ギャウロフ(バス)

映像監督:ジョルジュ・クルーゾー  ハイビジョン・リマスター版

1967年1月 ミラノ・スカラ座

 

初めて見るが、これは確か伝説ともなっている有名な上演である。

カラヤンがベルリンフィル、ウイーン楽友協会合唱団と1972年に録音したレコードで何度もこの曲を聴き、その充実した音とドラマティックな展開に引き込まれた。

そのベースがここにあるのだろう。上記レコードの福原信夫による解説には、この演奏翌日の新聞で「トスカニーニのすぐれた解釈をその風土とし、その上に宗教的な因習にとらわれることなく、カラヤンは偉大なヴェルディの精神を実現した」と激賞された、とある。

 

ただ、こうしてみるとあのレコード録音よりはこちらのほうがより宗教的な、おごそかなおもむきがある。私がカラヤンをはじめて直に見たのは1970年、万博にあわせてベルリンフィルと来日したときであるが、そのわずか3年前の映像ではさらにスリムであり、またオーケストラ、合唱団の風貌も、イタリアで戦後20年、頑張ってきた人たちのいい意味で真面目で無骨な感が強い。別ないいかたをすると、出演者全員に贅肉がない。

 

カラヤンの表情、動作、集中のしかたなど、修道僧のようでもある。

歌手たちでは、録音と重なっているのはギャウロフだけだが、プライスの発音にちょっとくせがある(これはやむをえないところもあるが)のを除くと、文句ない。

それにしても、パヴァロッティはまだ体格がいいという程度で、若く、二枚目役でもヴィジュアル的にまったくおかしくないだろうと思わせる。歌唱も宗教曲らしいもの。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする