メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ヴェルディ 「運命の力」

2020-05-10 09:35:01 | 音楽
ヴェルディ:歌劇「運命の力」
指揮:アントニオ・パッパーノ、演出:クリストフ・ロイ
アンナ・ネトレプコ(レオノオーラ)、ヨナス・カウフマン(アルヴァーロ)、リュドヴィク・テジエ(ドン・カルロ)、フェルッチョ・フルラネット(ガルディアーノ神父)、ヴェロニカ・シメオーニ(プレチオシッラ)
英国ロイヤル・オペ・ハウス管弦楽団、合唱団
2019年3月24日、4月2日、5日 英国ロイヤル・オペラ・ハウス 2020年4月 NHK BSP
 
ヴェルディ(1813-1901) 1869年の作品(改訂版)で、録音は聴いたことがあるはずだが、あまり印象はなかったが、今回は素晴らしい上演映像で見ることができた。作曲者が中期の傑作群を経て、次の段階にいく過程の作品だろうが、中期の良さも残していて、楽しめた。
 
貴族の娘レオノーラとインカの血をひくアルヴァーロの禁断の恋に反対する父が、アルヴァーロが間違って銃が暴発してしまい、死んでしまう。アルヴァーロは逃げるが、レオノーラは追いかけ、兄のドン・カルロは復讐を狙う。
 
結局レオノーラは修道院に、アルヴァーロは軍隊に入っているところ、ドン・カルロに見つかるが、そこは決闘には至らず、数年たって、三人が相対することになり、悲劇が、というもの。
  
この三人のアリアがまさに聴きどころで、今回は申し分ない。特にネトレプコは絶頂ではないか。あのロッシーニ、ドニゼッティなどのベル・カントから、こんなにうまくドラマティックに移行したのは驚きである。今回、どの音域もどの表現も、中に入っていけて満足した。
 
カウフマンは最初だけちょっと調子が今一つだったが、すぐに聴きごたえのある状態になった。テジエもよかったから、二人の男同士の何度ものやり取りは、「ドン・カルロ」のそれを思い浮かべさせた。ヴェルディはこういうの好きらしい。
 
神父のフルラネット、かなり以前から出ている人だが、70歳!あいかわらず立派。
戦場の兵隊たち、酒場のお祭り騒ぎなどにさく時間が多いのは、この時代のイタリアの政治事情を反映しているのだろうか。
 
ヴェルディはこの作品で管弦楽も聴かせどころを十分用意していて、特に序曲はイタリア人指揮者がコンサートでよく取り上げるのはわかる。パッパーノも気持ちよさそうに指揮していた。
 
演出は、物語にはいっていけるものだったが、最後の場面、修道院にしてはちょっと違う部屋の感じだと思ったら、おそらく冒頭でレオノーラの父親が死んでしまうあの部屋の装置だろう。
そしてその冒頭では、まだオーケストラだけの時間、三人の子供がテーブルの上でなにやら無言劇をしていたが、これはあの三人の主役を象徴していたのだろう。
 
あと一つ、今回感心したのは録音で、これは迫力、聴きやすさ(透明度)などすべてがバランスよく、破綻なく聴かせた。半世紀前から英デッカなど、ロンドンでの録音は優れたものが多かったが、それがここまでになったかと、今後の楽しみが増えたようだ。

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アガサ・クリスティー 「スタイルズ荘の怪事件」

2020-05-06 09:18:10 | 本と雑誌
スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles)
アガサ・クリスティー 矢沢聖子訳 ハヤカワ文庫
 
アガサ・クリスティー (1890-1976) が1920年にはじめての探偵小説として発表したもので、ポアロシリーズの第一作でもある。
 
イギリスの郊外、裕福な階級の館に人々が集まっている中で、女主人が殺される。家族関係、使用人、財産の行方(遺言状)などがからんでいる。
この事件の前に家族の友人として招かれたのは元軍人のヘイスティングスで、そこから友人のポアロにつながり、二人で事件を解決していく、という多くのポアロシリーズに見られる形はここで始まっている。
 
先の「批評理論入門」に書かれていたが、これは一人の登場人物の語りとして書かれていて、そのため叙述、描写は具体的で、読者がこの種の物語を読み進みやすくしている。
 
そして、あのポアロの独特な、すべてを話さずヒントだけだったり、はぐらかしたり、あとでその言い訳をしたり、という面白さというか気障ともいえる癖(私も多少うるさいと思うところはある)が物語全体の調子を整えている、といったらいいだろうか。
 
この時代の人たち、館、道具などの細部はまずまず興味深いし、謎解きの展開、しかけも凝っている。ただ、犯人の動機に関するところは、最後の最後に意外過ぎる形で次々と明かされるから、謎解き探偵小説以上の、つまり物語としての味わいはそれほどではない。
 
訳は明快で、話の進行をスムースに追えるものとなっている。

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ベートーヴェンのピアノソナタ 全32曲

2020-05-01 09:03:27 | 音楽
ベートーヴェン:ピアノソナタ 全32曲
ピアノ:フリードリッヒ・グルダ 1968年 アマデオ (amadeo)
 
32曲を3月30日から4月30日まで、毎日1曲ずつ聴いた。実は先にあげたハイドンの交響曲ベートーヴェンのピアノトリオ全曲も、ソナタに加えてたいていの日に一曲ずつ聴いたものである。
 
新型コロナで毎日在宅ということになり、暇はあってもさて何を聴こうかと考えあぐねるのは、楽しいことはあるが毎日となると面倒である。そこでこういうことにした。
 
ピアノソナタはベートーヴェン(1770-1827)が1795-1822の間に作曲したものだが、順に聴いていくと、なるほどそう来たかと感じることが多々あり、いろんな意味で共感できることが多かった。そして過去にそれぞれ単独で取り出して聴いた時より、理解はしやすかったと思う。
 
多くの傑作について、ここで各論は避けるが、特に面白いのは第1番(1795)から第18番(作品31の3)(1802)までのつながり。その一方、後半になると、作曲者もより高く評価され売れてきたのか、効果の大きいもの、生徒の練習用のものなど、ヴァラエティに富んでくる。それでも晩年の、普段は構えて聴く最後の5曲なども、いつもより親しみを持って聴くことができた。
 
こういう聴き方には、私にとっては、グルダ以外に考えられない。どこかで彼自身か語っていたと思うが、難しく考え解釈して弾くより楽譜どおりさらさら弾き飛ばしていけば音楽はそこにあるそこから出てくる、そいういう弾き方(中でも特に感じるのはブリオ)である。そしてそれはたいへんなことで、まさに作曲家はそうして弾いて効果も中身も確かに出てくる、そういう作り方をしていると考える。
先のピアノトリオでも、多少それに似た感を抱いた。
 
それでも好きなものをいえば、5番、6番、7番の作品10の1,2,3、「悲愴」、「月光」、第15番「田園」(この頬がゆるむようななんともいえないユーモア)など。
 
そして最後の5曲だが、今回特に感じたのはいつもはちょっと地味だと思っていた第30番(作品109)、作曲者晩年のプレゼントか?
また第29番「ハンマークラヴィア」、第31番、第32番などにある息も絶え絶えともきこえるところ、そういうところがあっても、全体として自己肯定でまとまっている感があったのは、こういう聴き方、グルダの演奏だからだろうか。
 
前から思っているのだが、第28番(作品101)の最後の方に、苦悩の果ての哄笑というか、「ケッケッ」と去っていき、こっちは「やられた」と感じるところがある。弦楽四重奏のいくつかの最後にもそういうところがあった。
 
実をいえば、32曲この聴き方は3回目、前の2回はおそらく20年以上前、仕事などできわめてつらい時だった。だから動機も、受け取ったものも違うと思う。その時はアナログレコードだから、順番のとおりにかけるのも、また盤面を裏返したりするのも手間がかかった。このCD9枚組には番号順に入っていて楽だった。
 
想像するのだが、グルダというひと、32曲を順に数日で引くリサイタル、苦もなくやってのけられた人ではないだろうか。

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