昨日の書き込み「happen…起こることはすべて宝、そしてまた敬虔」の「敬虔」は「経験」ではないか?とのご意見がありました。
実は、この敬虔に、私はものすごく思い入れがあります。
敬虔とは尊崇や敬愛のこと。私たちは帰命敬禮(きみょうきょうらい)を常とします。つまり、大いなるものを讃美し、感謝を捧げ、誓願すること。
happenは「起こることで、それは神様がなさること」であるならば、その起こることはすべて宝、そしてまた敬虔である…と、私は理解しました。
バガヴァッド・ギーターはhappenをどう捉えるか…という教えではないかと思います。「ギーター」では敬虔であれ!と教えます。
「敬虔である」ということは、自分の人生を大いなるものに委ねること…。
「敬虔である」ということは、何もしないことではなく集中すること。
「敬虔である」ということは、大いなるものの思いを優先するということ。
私は幼児洗礼を受けたカトリック信者ですが、クリスマスに教会にもいかないくらいですから「敬虔な信者」とはほど遠いところにいます。でも、ヨーガを学び始め、マザーテレサにお会いしてからクリスチャンであることに誇りを持つようになりました。
私の好きな聖書の言葉はマタイ伝6.33~34
【まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思い煩はん。一日の苦労は一日にて足れり】
このように、神(大いなるもの)に委ねなさい!と聖書も教えています。ヨーガでは「神」=「大いなるもの」=「ブラフマン」です。
今、不測の事態が起ころうとも、それは私たちにとって100%良いこと。すべては大いなるものの成せるわざ…。健康面でも精神面でも、とにかくすべては上手くいっているのだ…と。
現在も未来も神様は、私たちに豊かな人生を約束してくれている…。スワミ・ヨーガスヴァルーパーナンダ老師の言葉は、琴線に響いたのです。
これを、さらに確信できたのは、ご意見を寄せてくださったお仲間のお陰です。これにも感謝!(荻山貴美子)