『 今が一生を貫く
息を引き取るまでが今 』
宗教の問題は 「 いま 」 という、明日あさっての問題ではないのです。
普通考えると、過去があり今があり未来へつながっている、と
時間の経過からいうと、そうなのですが … しかし
自分の問題として捉えるとそんなのんきなことはいっておれません。
どこかのコマーシャルではないですが、
「 いつやるんですか ? いまでしょう !! 」
というのがあったように思います。
過去も未来も 「 今 」 の連続なのです。
この連続しているということを仏教では 「 相続 」 といいます。
この相続という言葉も私たちには 「 遺産相続 」 のことしか思い浮かびませんが、
本来は 「 相続心 」 といって 「 宗教心 」 を表す言葉です。
「 常 」 という言葉と 「 恒 」 という言葉があります。
どちらも 「 つね 」 ですが、
「 常 」 の方は、いつも変わらない、人によっても、時間によっても、
「 真理は常に変わらない 」 というとき 「 常 」 を使います。
変わるけれども連続している、という時には 「 恒 」 を使います。
宗教心とかは人によって表現も変わってきます。
しかし、その本質は変わらないで連続している。
その連続しているということが 「 相続 」 なのです。
今この時この場所で真剣に求めた心は、その心が連続していくのです。
いま、いま、いま、の積み重ねが一生を貫いていく、
そして、その人を作り上げていく、
その心が引き継がれて、連続して、いくことを 「 相続 」 というのでしょう。
「 いま 」 ということを忘れず、その場そのときにそのものになりきっていく
「 ほとけさま 」といっても、なにも固定したものではなく、
その連続している働きそのもをいうのでしょう。
「 いま 」 のこころを相続している姿を 「 ほとけさま 」 と呼んだのではないでしょうか。
ほんとうに、いまこのとき、が一生を貫いていくのです。
息を引き取るまでが今 』
宗教の問題は 「 いま 」 という、明日あさっての問題ではないのです。
普通考えると、過去があり今があり未来へつながっている、と
時間の経過からいうと、そうなのですが … しかし
自分の問題として捉えるとそんなのんきなことはいっておれません。
どこかのコマーシャルではないですが、
「 いつやるんですか ? いまでしょう !! 」
というのがあったように思います。
過去も未来も 「 今 」 の連続なのです。
この連続しているということを仏教では 「 相続 」 といいます。
この相続という言葉も私たちには 「 遺産相続 」 のことしか思い浮かびませんが、
本来は 「 相続心 」 といって 「 宗教心 」 を表す言葉です。
「 常 」 という言葉と 「 恒 」 という言葉があります。
どちらも 「 つね 」 ですが、
「 常 」 の方は、いつも変わらない、人によっても、時間によっても、
「 真理は常に変わらない 」 というとき 「 常 」 を使います。
変わるけれども連続している、という時には 「 恒 」 を使います。
宗教心とかは人によって表現も変わってきます。
しかし、その本質は変わらないで連続している。
その連続しているということが 「 相続 」 なのです。
今この時この場所で真剣に求めた心は、その心が連続していくのです。
いま、いま、いま、の積み重ねが一生を貫いていく、
そして、その人を作り上げていく、
その心が引き継がれて、連続して、いくことを 「 相続 」 というのでしょう。
「 いま 」 ということを忘れず、その場そのときにそのものになりきっていく
「 ほとけさま 」といっても、なにも固定したものではなく、
その連続している働きそのもをいうのでしょう。
「 いま 」 のこころを相続している姿を 「 ほとけさま 」 と呼んだのではないでしょうか。
ほんとうに、いまこのとき、が一生を貫いていくのです。