人生は限りない宝の山である。
堀に掘り、探りに探ろう。
平沢 興
隔月発行の 「 不動の光 」 に、今月は
「 平沢先生 」 のお話を載せました。
先生は京都大学の総長まで勤められ、
もともとは脳解剖学の先生です。
その人生の中から感得された言葉は宗教的な言葉は使われずに
平易な当たり前の言葉なのに、まさに人生の極意を言い当てたような、
力強さで私たちの心に迫ってきます。
そこで、少し紹介させていただきます。
「 人の一生は余りにも短い。
わたしは齢既に七十を越したが、
いよいよ人生に学ぶことが多く、
いよいよ世の中は奇跡に溢れ、
いよいよ自らの愚かなるを知って、
ただ驚くばかりである。
だが、この驚きは驚嘆であり、歓喜であって、
更にわたしに強い生きる力を与えてくれる。
わたしは自らの無能を誰よりもよく知っている。
だが、同時に自信を以って言え得ることは、
自覚を持った無能は、
断じて無力ではなく、
祈りと実行のある限り、
無能にもその展開と向上があるということである。」
そして、今週の言葉に選んだ
「 人生は限りない宝の山である。
堀に掘り、探りに探ろう。」
と続きます。
当たり前と思ってしまえばすべてのことは何の感動もなく、
当たり前のこととして過ぎ去ってしまいます。
しかし、先生がおっしゃるように
勉強すればするほど、分からないことが増えてくるそうです。
感動がないということは、わたしたちの勉強不足ということでしょう。
三浦先生も八十歳を過ぎたころから、よく、
「 人生は不思議だな~ ますます分からないことでいっぱいだ ! 」
と口にしておられました。
年とともに、人生は分かった自明のことと見てしまいがちですが、
よく見つめれば見つめるほど、
不思議なことだらけのような気がします。
そして、平沢先生は
「 子どもは無限の可能性を持った天才 」
と言っておられます。
これは医学的立場から脳ということを研究しておられた
先生の実感のこもった言葉です。
人間の脳細胞は無限の可能性を秘めています。
ではどうやったら、その可能性を引き出すことができるか ?
「 やれば出来る 」 ということと 「 やらせれば出来る 」 ということがあります。
動物が芸が出来るのは、みな
「 やらされて出来る 」 のであり、
自ら進んでやるのではないのです。
人間も幼児期の間は動物と同じで、 「 やらされて出来る 」
ということです。 その行動は受身です。
しかし、次第に高学年になってきますと、思考力も高まり、
自ら考えて自発的にやるようになります。
ここで大事なのは、
人生の早い時期に自発的にやる習慣を身に付けることです。
「 学校の秀才必ずしも社会の秀才ではなく 、
学校鈍才必ずしも社会の鈍才ではない。 」
ということがあります。
そこで、いかに無限の才能を持っていたとしても、
それを引き出すためには、
「 一にも努力、二にも努力、三にも努力 」
が必要です。
と、平沢先生はその信念のもと自ら実行されました。
才能をいくら持っていても、それを引き出すには
こつこつと積み重ねていく 努力 しかないということです。
晩年の先生の言葉に
「 今朝もまた、目覚めて、目も見えても動く
あな 有り難や 今日の命よ 」
と、詠んでおられます。
与えられた自分のいのち、そこには
掘って掘って、探って探って、
それでもまだ分からないもの持っているのが
私たちの大脳なのでしょう。
地球の資源どころの話ではないのかもしれません。
掘って、探っていくところに
私たち、人間のいのちの尊厳性が
横たわっているのです。