本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

どうも変 !!?

2012-05-13 23:19:14 | 住職の活動日記

 ちょうど、5月11日、京都からならへ向かう途中、

近電車の中から   しようと 試みたころから、

ブログの書き方の書式が変わったように思います。

 写真をアップすると、

以前は 「 文字と数字 」 で表記されていましたが、

今は写真そのものが出てきます。

それから、文字のフォントや太字に変換する場合、

これも数字と文字で表され、その大きさと感じがつかめませんでしたが、

今はそのまま出てきますが、

投稿したあとの文字の大きさが今一つつかめません。

 たぶん便利にはなったと思うのですが、

慣れるより仕方ありません。

 読みずらい点があると思いますが、

どうぞ、しばらくご容赦の程を  …   

 

 

 

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今週のことば 5/14~5/20 「 人生は限りない宝の山である。 … 」

2012-05-13 16:39:21 | 今週の言葉

      人生は限りない宝の山である。

     堀に掘り、探りに探ろう。

                           平沢 興

 隔月発行の 「 不動の光 」 に、今月は

「 平沢先生 」 のお話を載せました。

 先生は京都大学の総長まで勤められ、

もともとは脳解剖学の先生です。

 その人生の中から感得された言葉は宗教的な言葉は使われずに

平易な当たり前の言葉なのに、まさに人生の極意を言い当てたような、

力強さで私たちの心に迫ってきます。

 そこで、少し紹介させていただきます。

 

 「 人の一生は余りにも短い。

   わたしは齢既に七十を越したが、

   いよいよ人生に学ぶことが多く、

   いよいよ世の中は奇跡に溢れ、

   いよいよ自らの愚かなるを知って、

   ただ驚くばかりである。

   だが、この驚きは驚嘆であり、歓喜であって、

   更にわたしに強い生きる力を与えてくれる。

   わたしは自らの無能を誰よりもよく知っている。

   だが、同時に自信を以って言え得ることは、

   自覚を持った無能は、

   断じて無力ではなく、

   祈りと実行のある限り、

   無能にもその展開と向上があるということである。」

そして、今週の言葉に選んだ

  「 人生は限りない宝の山である。

    堀に掘り、探りに探ろう。」

と続きます。

 

 当たり前と思ってしまえばすべてのことは何の感動もなく、

当たり前のこととして過ぎ去ってしまいます。

 しかし、先生がおっしゃるように

勉強すればするほど、分からないことが増えてくるそうです。

感動がないということは、わたしたちの勉強不足ということでしょう。

 

 三浦先生も八十歳を過ぎたころから、よく、

「 人生は不思議だな~  ますます分からないことでいっぱいだ ! 」

と口にしておられました。

 

 年とともに、人生は分かった自明のことと見てしまいがちですが、

よく見つめれば見つめるほど、

不思議なことだらけのような気がします。

 

 そして、平沢先生は

  「 子どもは無限の可能性を持った天才 」

と言っておられます。

これは医学的立場から脳ということを研究しておられた

先生の実感のこもった言葉です。

人間の脳細胞は無限の可能性を秘めています。

 ではどうやったら、その可能性を引き出すことができるか ?

「 やれば出来る 」 ということと 「 やらせれば出来る 」 ということがあります。

動物が芸が出来るのは、みな

 「 やらされて出来る 」 のであり、

自ら進んでやるのではないのです。

人間も幼児期の間は動物と同じで、 「 やらされて出来る 」

ということです。 その行動は受身です。

しかし、次第に高学年になってきますと、思考力も高まり、

自ら考えて自発的にやるようになります。

 ここで大事なのは、

人生の早い時期に自発的にやる習慣を身に付けることです。

 

 「 学校の秀才必ずしも社会の秀才ではなく 、

   学校鈍才必ずしも社会の鈍才ではない。 」

 

ということがあります。

 そこで、いかに無限の才能を持っていたとしても、

それを引き出すためには、

 

 「 一にも努力、二にも努力、三にも努力 」

が必要です。

と、平沢先生はその信念のもと自ら実行されました。

 

 才能をいくら持っていても、それを引き出すには

こつこつと積み重ねていく 努力 しかないということです。

 

晩年の先生の言葉に

 「 今朝もまた、目覚めて、目も見えても動く

     あな  有り難や  今日の命よ 」

と、詠んでおられます。

 

 与えられた自分のいのち、そこには

掘って掘って、探って探って、

それでもまだ分からないもの持っているのが

私たちの大脳なのでしょう。

 地球の資源どころの話ではないのかもしれません

掘って、探っていくところに

私たち、人間のいのちの尊厳性が

横たわっているのです。

 

 

 

 

  

 

 

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