『 創価学会 』 という教団があり、
全くわからないのですが、
この言葉に 「 創価 」 という言葉に
素晴らし言葉と感じていました。
私なりには 「 創価 」 というのは
「 価値を創造する 」 というところから
きたのではないかと、思っています。
新しい価値を見出していく、
新しい意味を作り出していく、
なんでもないことに意味を見出す、
とても素晴らしい言葉と思っていました。
それと反対に、
『 無価値の世界 』 ということにも
最近興味を引かれるのです。
先日のテレビでしたか ?
「 伊能忠敬 」 の物語がありました。
婿養子になった忠敬は行った先の家業も立派に成功させる
という実力を持ちながら、
楽隠居になり、自分のやりたかった
天文学に取り組むのです。
単純に、地球の大きさを知りたい !
そのためには、江戸にいる距離では
正確な測量は出来ない。
せめて、樺太くらいまで行かないと、
という動機で、樺太の測量を始める。
それも自費でおこなうのです。
知ったからといって、お金を生むなんて考えていません。
ただ知りたい、ということが彼を動かしていく。
金になる仕事、
世間でいう価値ある仕事、
それも大切ですけど、
本当の仕事というのは
無価値な仕事では、と思うのです。
忠敬の純粋な知りたいという
世間でいえば、変人扱いされるような
無価値の動機が、
あとでは、世界を驚かせるのです。
彼が歩いて測量した地図は
英国海図というグローバルスタンダードに
匹敵したのです。
そのことは、これだけの地図を作れる国は
あだやおろそかに占領できない、
ということを世界に認めさせた、
という地図だったのです。
彼は星を見て測量して
そのこと自体が楽しい、
させてもらえることが楽しい、
それだけの理由なのですが、
そういうことが 『 無価値の世界 』
に遊ぶということではないかと思います。
宗教という世界も
世間的な貨幣価値の目で見ると、
なんとも 「 無価値な世界 」 でしょう。
しかしです。
思うのですが、
「 無価値な世界 」 があればこそ、
「 価値ある世界 」 も成り立ってくるのでは … と ?
年ということもあるのでしょうか ?
最近では 、 この 『 無価値の世界 』
ということが気にかかるのです。