本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉 2/11~2/17 「 いつ、どこにあっても、『 今、ここ 』 に … 」

2013-02-10 18:02:28 | 今週の言葉

  いつ、どこにあっても

 

  『 今、ここ 』 に

 

  生命をかける

      いのち

 

 

 テレビのコマーシャルではないですが、

 「 いつやる !  今でしょう ! 」

といううたい文句が流れてきます。

とてもインパクトのある言葉です。

 

 お経のなかに、

 

 「 過ぎ去れるを追うことなかれ

   いまだ来たらざるを念 ( ねがう ) ことなかれ

   過去 すでに捨てられたり

   未来 そはいまだ到らざるなり

   ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ

   たれか明日死のあることを知らんや 」

 

というお釈迦さまの言葉があります。

 

 明日こそは、明日こそは、と言いつつ

今がないのです。

 聞法会や勉強会のあと、

「 とてもいい話でした。」

と軽く答えると、

「 それでは、今ここで何ができますか 」

と厳しい答えが返ってきます。

本当に話に感動して、身に沁みたら

次の一歩が出てくるはずです。

 話は分かった、でも体が動かない

ということは、何も分かったということではありません。

 

 「 今日のお話はとてもよかった !! 」

と、おっしゃいますが、

ひねくれた私には 「 どうでもよかった 」

と聞こえてしまうのです。

 ( 普通にはそれでいいのです。

   が、ここ一大事という話は

   そんな、よかった、という話ではないのです 。 )

三浦先生との話はそんなのんびりした話ではなく、

『 くっそ~ ! そこまで言うか ! 』

というぐらい、身に応えたのです。

三浦先生も 『 今 』 ということをとても

大事にされていました。

『 明日はないのだ ! 』

 

 100年生きたとしても、

『 今 』 という時間を捉えることができなかったら、

100年の人生が無駄に生きたということになりかねません。

いつも読むお経の最初の言葉が、

 『 この身 今生において 度せずんば … 』

という、ことです。

「 この身 」 ということが  「 ここ 」  ということ

「 今生 」 ということが  「 今 」  ということです。

 

  『 相田 みつを 』  先生の

「 そのうち 」  という詩もドキッとさせられます。

 

    そのうち お金がたまったら

   そのうち 家でも建てたら

   そのうち 子供から手が離れたら

   そのうち 仕事が落ち着いたら

   そのうち 時間のゆとりができたら

 

    そのうち  …

    そのうち  …

    そのうち  …  と、

    できない理由を

    くりかえしているうちに

    結局は何もやらなかった

    空しい人生の幕がおりて

    頭の上に 淋しい墓標が立つ

 

   そのうちそのうち

    日が暮れる

   いまきたこの道

   かえれない

 

 

 

衝撃を受けました。

 

 『 今 ここ 』   にいのちをかけてゆこう  !

 

 

 

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「 人生 楽ありゃ 苦もあるさ … ~ 」 !?

2013-02-10 07:22:48 | 住職の活動日記

 この歌で目が覚めました。

最近は 『 水戸黄門 』 の番組もなくなり

もうすでに、番組の主題歌である

この歌も聞こえなくなってきました。

 『 水戸黄門 』 という番組、

大体結末も解っていて、

この時間帯になると、黄門さまの印籠が出てくる、

そして事件は一件落着 !

 しかし、高齢者の方に頭にのはの測定器をつけて

この黄門さまを見せると、

印籠が出てくる時間帯前後になると、

一気に血流が上がる ( 脳が活性化する )

という実験をやっていました。

 

 思い出したのですが、

以前、結婚式でこの歌をさも気持ちよさそうに

歌っていたご住職がいらっしゃいました。

( それも3番まで )

 お釈迦さまは 、

『 人生は苦なり 』  とおっしゃているのに

お坊さんが

 「 人生 楽ありゃ 苦もあるさ … 」

は、なかろうなんて思っていました。

 

 それにしても、お釈迦さまは嫌なことをおっしゃる、

『 人生は苦である 』  と、

 一休さんも、

  「 釈迦という いたずら者が 世に出でて

     おほくの人をまよわすかな 」

と、せっかく人生を謳歌している人たちに、

お釈迦さまは 「 人生は苦しいぞ ! 」

なんていやなことをおっしゃる。

 

 先日、倫理法人会で話した後、

やはり、 死とか ・ 苦ということが

頭から離れず、ずっとなにかにつけて

頭のどこかにあって、

ふふっと出てくるのです。

 四苦八苦のなかで、

「 生・老・病・死 」  と  「 死苦 」 として

出てきます。

 『 苦 』  といっても

人間に感じられる苦とわからない苦もあるのです。

普通には、困ったりどうにもならないことを

苦と感じるのですが、

そうではなく、普段はわからないのですが

ふとしたとき、頭をもたげてくる苦というものがあります。

 

 仏教では 「 四苦八苦 」 といように

「 四苦 」  という ( 生老病死 ) に

もう四つの苦、

 ( 愛別離苦 ・ 怨憎会苦 ・ 求不得苦 ・ 五陰盛苦 )

を加えて、八苦というふうに分析しています。

その 「 四苦八苦 」 をさらに別の見方をして

厳密に 「 苦 」 というものを捉えているのです。

それは  『 三苦 』  という分け方をします。

 『 苦苦 』 ( くく ) 

 『 壊苦 』 ( えく )

 『 行苦 』 ( ぎょうく )

このなかで、苦苦 ・ 壊苦 は普段感じている

苦しみというものです。

 ( 大切なものが壊れていく、離れていく

   または、嫌なものががやって来た )

というこれは誰でもわかります。

解らないのが、 『 行苦 』  です。 

四苦八苦の中では 「 生苦 」 と 「 五陰盛苦 」

にあたります。

 

 「 やなせたかし 」 さんの歌に

『 ぼくらはみんな 生きている

  生きているから かなしんだ  … 』

という、ところがあって、

不思議なことに、1番の歌詞が

「 生きているからかなしんだ 」  となっているのです。

嬉しいではなく、悲しいと、

簡単に歌ってしまえばなんでもないのですが

ウ~ン ??  と考えてみると

「 かなしい 」  とはおかしな文言です。

そこには 「 やなせたかし 」 さんのメッセージが

あると思うのです。

 

 「 生きているから悲しい 」

そこには 「 生苦 」 ということの

内容も含んでいるような気がします。

また、

 「 ありがとうございます ! 」

この言葉も、当たり前のように

何時も口にしている言葉です。

しかし、お経の言葉でもあります。

 「 やがて死すべきものの

   今いのちあるは 有り難し 」

生きている、「 生 」 があること自体

「 有り有べからざることが、ある 」

という、当たり前のことではない。

有ること、難し なのだ、

 「 ご臨終でございます。」

と、亡くなるとお医者さまはお告げになりますが、

「 臨終 」  終わりに臨んで、という

仏教では、いつでも臨終

臨終が今、ということで、生を生きる

臨終が今とは思いたくないが、

何時かは ? やってくる臨終の陰

そういうものを抱えて生きている

その、私たちの有り方、そのものが

「 生苦 」  とい存在なのかもしれません。

 難しい問題です。

 

 そんなことを夢みながら目覚めるとは

臨終が近いのかな  ???

といいつつも、 「 ご臨終 」  を

もう少し先に見ている、

という、まだなまぬるい自分があります。

 

 

 

 

 

    

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