「 未来の自分から見た
今の自分を考える 」
永山絢斗
ながやま けんと
先日の 『 鶴瓶さん 』 の 「 Aスタジオ 」 という番組、
ゲストが 『 永山絢斗さん 』
最初から見たわけではないのですが、
たまたま、お茶を飲みに台所へ行ったとき
この言葉を聞いたのです。
『 鶴瓶さん 』 もとても興味を持っておられたようで、
しきりに聞いておられました。
ちょうど、今封切られている映画
『 藁の盾 』 のことが話題になり、
顔合わせのとき、ほかのキャストの方は
「 山崎努 」 「 大沢たかお 」 「 伊武雅刀 」
など、錚々たるメンバーです。
会いにいくとき武者震いがした、
と話されていました。
『 鶴瓶さん 』 その熱さがいい、と
感動しておられました。
この言葉を聞いたとき、今読んでいる
「 唯識 」 の話とかぶって聞こえました。
「 未来の自分から見た、
今の自分を考える 」
自分を考える、というとき、いろんな面から考えることができます。
オギャーと生まれて、死んでいく。
一体何が生まれて何が死んでいくのか、
そういうところからも自分というものを追求できる。
また、一体自分はどうなっていくのだろうと、
未来面からも考えていくことができる。
いま、読んでいるところで問題になっているところが
『 阿頼耶識 』 ( あらやしき ) というところです。
人間の一番、こころの奥にある深層心理です。
アラヤというのは 「 蔵 」 という意味もありますから、
「 蔵識 」 ( ぞうしき ) とも訳されます。
人間の経験を蓄えていく貯金箱のような心です。
その心を厳密に見ていくと
自分の現在面を 「 阿頼耶識 」
自分の過去面を 「 異熟識 」 ( いじゅくしき )
自分の未来面を 「 一切種識 」 ( いっさいしゅしき )
というのです。
永山さんの言う
「 未来の自分から見た 今の自分 」
とても唯識的表現だと思うのです。
仏教では、 「 未来 」 のことを 「 当来 」 ともいいます。
「 当来 」 ( とうらい ) 当に来るべき、
ということで、
未来は偶然にやってくるものではなく、
現在の中にすでに約束されている。
だから、将来に 「 こうしたい 」 という夢があれば
それは現在に行動となって現れてくる。
いま、「 がんばれ ! 」 といっても、
未来に希望が持てなかったら、
現在を頑張ることは出来ないのです。
過去の経験が現在に、異なった形で完成する ( 熟する )
という意味で 「 異熟識 」 ということをいいます。
過去が現在しているのです。
それから、経験の可能性ということを言うと
一切の経験の種となるものを持っている、
ということで、心の未来面を一切種識というのです。
未来が現在している、
ということになると思います。
鶴瓶さんも
「 どういうこっちゃろ ?? 」
とさかんに問いかけられておられましたが、
わからないなりにも、
何か気になり、見過ごすことの出来ない
言葉として、心に響いてこられたのでしょう。
わからなくても心に響いてくる言葉は多々あるものです。
そのことを聞き流すのではなく、
心にとめて、考えつづけていくことが大切なように思います。
そうでないと、
言葉が弱くなれば、国も弱くなってくるのです。
難しいかもしれませんが、
頭のどこかで常に考えつづけることを
怠ってはいけないように思います。
仏教の難しいところは厳密性です。
人間の微妙な心の襞も見逃さず、
それを丁寧に紐解いているのです。