仏教の根幹です。
『 仏 ・ 法 ・ 僧 』 ( ぶっぽうそう )
聖徳太子も 17条の憲法で、
「 篤く三宝を敬え
三宝とは仏法僧なり 」
と述べておられます。
今日ふと気になったのが、
『 法 』 という字なのです。
「 仏 」 はインドの言葉で ブッダの音写です。
「 僧 」 も、サンガという言葉を音写して僧という字に当てたのです。
「 法 」 だけが 「 ダルマ ・ ダンマ 」 をあえて
「 法 」 という言葉に訳したのです。
「 法 」 と聞くと法律とか方法とか作法いう言葉が思い浮かびます。
( さんずい ) がついているのが不思議に思いました。
早速辞書を引いてみると、
本来は、
ふせぐ、という意味からきているようです。
堤防で囲まれた水の平らかなさまの意味だったのです。
そこから、公平というふうに借用され、
訴訟を裁くという意味になってきました。
なるほど !!
ダルマ という言葉は 「 法 」 と訳すには
それだけでは納まりきれない感じがします。
他の二つ 「 仏 と 僧 」 も
本来の意味と今私たちが使っている意味とでは
少し隔たりがあるようにも思います。
「 僧 」 ということも、
「 共同体 」 的なニュアンスなのですが、
もっぱら、お坊さんの意味として使われています。
法ということについて、
ある本では、
「 法が見出されぬときは、
人間の意見が出てくる。
一人の意見が出れば、
それに対する反対意見が出てくるものです。
法を広めるということもありますが、
それは、その教えは人間を奴隷にするものです。
人間は、法に触れない限り、
必ず奴隷になるものです。
若い人は仏法も何も信じない、
といっていますが、
それは自分の理知を信じているのです。
誰のいうことも聞かぬということは
自ら己の理知の奴隷になっているのです。
理知ははからいです。
はからいは必ず行き詰る。
人間は偉大に見えてもなにかの奴隷になっているものです。」
というようなことがあって、
法ということも、法律的なニュアンスではなく、
人間知らず知らずのうちに何かの奴隷になっているものです。
その自分の固執を打ち破っていくものが
「 法 」 という内容を含んだもののように思います。
人間、 本当のことを知らないと
知らないという罪を犯します。
そして、それだけにとどまらず、
本当でないものを本当と信じてしまう
という、二つの罪を犯してしまいます。
本当の事を知っていく、
それが 「 法 」 ということの基準になる。
ウソかまことか、
だから、いろんな事を知るということと
法に触れていくということは
一線を画するものです。
十分にわかっているわけでもないのですが、
「 法 」 ということばが
妙に気になったのです。