本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

迷い道くねくね !

2013-11-11 21:22:05 | 住職の活動日記

 「 迷 」 いという字、

「 米 」 に 「 しんにょう 」 と書きます。

面白い見方をすれば、

米喰って走り回っている、

と読めるのではないでしょうか。

 ( 毎日忙しく飯食って走り回っている

   私たちの姿とも取れます。)

 本来の語源は、

目が明らかでない意の語原 ( 昧 マイ ) からきているいようです。

道に迷うという意味です。

 

 「 迷信 」  ということが気になったのです。

道理に合わないことを信じること、とか辞書にはあります。

お経のなかでは、心に迷う、ということで

「 迷心 」 と書きます。

 また、 「 迷津 」 ( めいしん ) という言葉も出てきます。

これは、迷悟の領域を渡し場 ( 津 ) に譬えて、

迷いの此の岸、即ち迷界を迷津というのです。

 

 「 迷心 」

心が迷うのです。

 我が心 わがままならぬ 我が心

  我が心ほど うきものはなし

という歌もあります。

 

 仏教にも大きく二つの流れがあります。

「 悟りの世界 」 に主眼を置くのか、

「 迷いの世界 」 に重きを置くのか、という。

今読んでいる 『 唯識 』 の立場というのは、

悟りの世界も目指すけど、迷いの世界に主眼を置いています。

なぜ悟れんかというと、

迷いということがわからないから、悟れない。

迷いということをそのままにしておいて、

悟りということは無理なんだ、

というのが唯識の立場です。

 なぜかというと、

迷いを悟るんですから、

迷いなしに悟るということは成り立たないのです。

 

 迷いの構造が非常に面倒なのです。

そのことを厳密に明らかにしていくのが

「 唯識 」 という教えなのです。

 迷いを叩き壊していくという論法もあるのですが、

唯識では、迷いを迷いと知らしめるのです。

知れば叩き壊さなくても、自然に止んでいく。

知ればなくなるのを 迷い というのです。

 

 ところが、人間妙な癖を持ってまして、

「 執着 」 という、

なんにでも執着の心を起こすのです。

自分のものと固執する。

迷いだけに固執するのではなく、

悟った心にも執着の心を起こすのです。

迷う心にも迷うけど、

悟った心にも人間は迷うという構造を持っています。

どんな良いものでも、

良いものだと固執すれば、

それはもう良いものではなくなってくる。

良いものだという考えになってしまうのです。

 

 そこが難しい !!!

 

迷い道くねくね、といったところです。

 

 

 

 

 

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