本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

浄土というのは三昧の世界

2015-08-16 21:22:57 | 住職の活動日記

大文字の送り火も幽玄のうちに

執り行われました。

はるか宇治の地より静かにお参りし

ご先祖さまはお浄土へと

お帰りになったことと思います。

 

浄土という言葉も今では死語でしょうか??

昔はこの苦しい世界を離れて

安楽の浄土を求めたのです。

 

家康も旗印に、

「厭離穢土  欣求浄土」

(えんりえど ごんぐじょうど)

という言葉を使っておられます。

家康は深い信仰がったのでしょう。

『南無阿弥陀仏』と書いた

日課念仏が残っています。

大きな掛け軸になっていましたが

びっしりと書き込まれています。

戦乱の世を終わらせて

この世を平和な皆が安心して

暮らせる世にしたいと願ったのでしょう。

 

「この苦しい穢土を厭い離れ

浄土を願い求める」と

それを旗印にされたのです。

戦国武将は少なからず

信仰を基本にした国造りの

理念を持っておられたのです。

 

しかし、浄土というのは

今生きている世界とは別に

浄土という別な世界があるのでは

なく、

三昧という精神界が開けてくる

そこに浄土は開けてくると、

お経には出てきます。

 

戒律ということも、

いろいろ決まりごとがあって

外から押し付けられるような

苦しいものに思えてきますが、

そうではなく、

私たちが持っているエネルギーの

分散を防ぐというハタラキ、

何もない時には私たちの心は

見るもの聞くものに

振り回されて定まらないものです。

そこに、

これをしなければいけないと

腹が決まったときには

わき見もせずに心は一つに

集中していくものです。

 

私たちにわき見をさせない

そこに戒律の大切な意味があります。

戒を保つ、と  そこに

「定」(じょう)という三昧に

入っていくことが出来ます。

そこではじめて「智慧」というものが

生み出されてくるのです。

 

いつも唱えている「般若心経」の

般若(智慧)が生み出されてくると、

ただ考えただけでは

「智慧」は生み出されてきません。

まずは「戒」を守るという実践です。

 

浄土という世界も、

ただ頭で考えて苦しみの無い世界

というのではなく、

戒律を守ることによって

生じてくる三昧によって

開けてくる精神界なのです。

 

精神界といっても

その根本は精進努力だと思います。

その努力が熟練していく、

もう、努力していることを感じないほど

熟練していく、

努力が努力でなくなる、

このことは実践してみれば

誰でもわかることです。

 

歌舞伎の世界では

芸が板につく、

というような表現をとるようですが、

 

お盆ということもあり、

精神世界ということも分からないなりに

考えてみることも大切では、

戒律ということも、行(ぎょう)ということも

三昧ということも、

何かしらつながっていくようです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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