本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

般若教学vs唯識教学

2015-10-24 21:16:01 | 十地経

たいそうなタイトルですけど、

今日読んでるところで

とても面白かったので

記憶に残すためにも記しておきます。

 

いつも唱えている「般若心経」

般若教学のいちばん有名な

お経です。

「色即是空・空即是色」

という『空』ということが中心課題、

空という真理によって

妄想を否定しようとしているのです。

しかし、未了義といってまだ十分に

応えきっていない。

身了義ということは間違いではないけど

的確でないということです。

 

空こそが真理だと、

確かにそうですけど、

ややもすると事実も妄想も

否定してしまいかねません。

その行き過ぎの解釈の危険性から

それを見直そうとしたのが

「唯識」という教学です。

 

大乗仏教が起こったのは

お釈迦さまが亡くなってから

500年後のことです。

般若の教学は大体2世紀ごろ

起こっています。

無著・世親という方によって

般若教学に遅れること200年後

4世紀ごろです。

その教えを受け継いだのが護法、

その弟子が戒賢、

その教えを勉強したのが玄奘

あの玄奘三蔵、「三蔵法師」です。

 

玄奘が国禁をおかしてまで

インドのナーランダヘ行き

学びたかったもの一つがこの

「唯識三十頌」です。

 

破邪顕正(はじゃけんしょう)

ということがあって、

正しいことを証明するためには

間違いであることを証明して

打ち破らなくてはなりません。

 

般若ということは真理ですけど、

それを明らかにするためには

真理でないものを否定しなければなりません。

空ということは破邪なのです。

人間の妄想を打ち破るのです。

つまり人間はものを抽象化する

何でも形あるものとして

何でもあるようなことに置き換えて

考えてしまう癖をもっています。

 

その人間の執着を打ち破るには

「空」ということは

力があっていいのですけれども、

力余って、

否定する必要でないものまで

否定してしまうという

そういう危険性も持ち合わせて

いるのです。

 

人間は迷うというけど、

何かについて迷うのです。

何もないものに迷うということはありません。

迷うということが成り立つためには

迷う材料がいるのです。

 

昔からの唯識の喩ですが、

縄をヘビだという。

それを遍計所執(へんげしょしゅう)

と、妄想というのです。

ヘビはいない、けれどもヘビはいない

といって、縄までないとは言えない。

ところが、般若の場合は

縄も蛇も否定してしまう。

妄想を起してくるようなものは

本当のものでないということで

縄まで否定してしまう。

 

ところが唯識はそこが厳密で、

縄はある。縄まで否定しない。

ただ問題は、縄が縄であると

認識されているのと、

縄が蛇だと受け取られているのと

違いがあるのです。

何でもないようですがここが大事で

何でも否定するのではなく、

唯識教学は存在それ自体を

明らかにしていこうという

立場があるのです。

 

一切は空であると、

一切皆苦と何もないんだと

何かかっ歩していくようで

力強い一面はあるのですが

あるものはある、

どういうふうにあるのか

そういうことを緻密に

研究されているところに

唯識教学の面目があるようです。

 

般若と唯識

仏教の大きな流れですので

折に触れて

対比しながら学んでいくことが

大事なことのように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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