本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

花まつり

2016-04-08 20:43:02 | 住職の活動日記

「昔もむかし 三千年

花咲き匂う春八日

響き渡ったひと声は

天にも地にもわれ一人」

と、「花まつり行進曲」には

お釈迦さまの誕生を歌っています。

 

生まれてすぐに

七歩あるいて天と地を指さし

「天上天下、唯我独尊」

と声高らかに宣言されたと、

 

七歩、

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天

の六つの迷いの世界を

一歩超えられたということを

表しているのでしょう。

 

七という数字も面白い、

人が亡くなったら中陰という

七日、七日の供養をして

満中陰四十九日目で

迷いの世界を脱して

仏の世界へ入っていきます。

 

修行の一つの区切りも

七日が最小の単位になっています。

一日三座、一週間で

三七・二十一座勤めると

 

キリスト教でも七日が

一つの区切りになっているようです。

 

お釈迦さまが生まれてすぐ

七日目に

お母さんが亡くなられたと

伝えられています。

このことがお釈迦さまの人生を

大きく左右したのでしょう。

亡くなってしまうくらいなら

なぜ私を生んだのか

お釈迦さまはもの思いにふける

ことが多かったと伝えています。

 

「一人お城をぬけいでて

六年(むとせ)にあまる御苦行」

と歌は続いていますが、

すべてがなに不自由のない

満たされた生活なのに

死ということをいだいて

人間がなぜ生きていくのか

 

四苦八苦の生老病死の

生苦ということが

どうしても

頭から離れられなかった

 

妻も子も、国も位も財産も

すべてを捨てて

出家されたのです。

普通から見れば非常識極まりない

ということでしょう。

もし悟られなかったら

それこそただの親不孝者の

穀潰し(ごくつぶし)

ということでしょう。

 

しかし、悟るとか悟らない

ということを超えて

どうしても、この問題が

明らかにならなければ

死んでも死にきれない

そういう差し迫った問題に

突き当り悩まれたのです。

 

万福寺の山門の上にも

掲げてありますが

「第一義諦」と

一番さきに考えなければ

ならない問題は何か

その問題を持った人こそ

この門をくぐれということでしょう。

 

確か、

ティリッヒという方だったと思いますが

アルティメイトコンサーン

究極的関心

ということを言っておられます。

いろいろ関心はあります。

やれお金だ、地位や位だ

肩書も欲しい、

しかし、死ぬときは丸裸

何も持っていけません、

そこで、では一番の関心は

 

それこそ『生苦』という

問題が頭から離れなかったのです。

四苦八苦の生老病死

愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦

五陰盛苦とありますが

この苦も『三苦』という面から見ないと

はっきりしないことがあります。

私たちに分からないのは

『生苦』と『五陰盛苦』です。

 

三苦では

「苦苦」「壊苦」「行苦」

というように四苦八苦を分け直します。

苦苦と壊苦は誰でもわかるのです。

『苦苦』、簡単には

都合の悪いものがやって来た。

病苦と死苦と怨憎会苦です。

『壊苦』は

自分にとって都合のいいものが

離れていく、

老苦と愛別離苦、求不得苦

 

ところが『行苦』は普通では感じません。

それこそアルティメイトコンサーンです。

誰だって感じるのですが

ちょっとは感じても、

上手に誤魔化すものも多く

それによって忘れてしまうことも

多いのです、

が、

ふとしたときに、その

究極的関心、『行苦』という問題が

顔を出すのです。

 

お釈迦さまはお母さんをなくされた

ということもあって

そういう問題に早く

突き当られたのでしょう。

 

テレビのコマーシャルに

「お葬式は生きる儀式」

というような言葉が流れていますが

上手に言い当ててる面も

本当は『死』ということを

見つめないと『生』は見えてこないのです。

 

「葬式坊主」

というように揶揄されますが、

ただ葬式だけに終わらせてしまった

私たちの責任もあります。

もっと深く追求しなければ

いけないのです。

死ということが生の問題である

ということを、

生は死に終わるのではない

死から生がはじまる

私たちはいつか死ぬのではない

いつでも死ぬということを

裏にして生きている

ということが『生苦』ということの

ように思うのです。

 

お釈迦さまのお誕生ですが

お釈迦さまは誕生と同時に

死という問題を孕んで

生きてこられたところに

出家され、悟りを開かれたという

そういうことがあるのではないでしょうか。

 

お釈迦さまがお生まれになった

ということは、

私たちにも悟りを開く

可能性を持っている

ということを証明されたのです。

そのことを強く持って

日々励まなければならないのでは

 

 

 

 

 

 

 

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