本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

素の自分になれる!!

2016-09-27 20:20:56 | 漢字

最近よく、

「素の自分になれる」

ということを聞きます。

飾らなくてよい、

また、背伸びしなくてもいい

また、卑下することもなく

ありのままの自分でおれる

そういうことなのでしょう。

 

「素」 ソ、スと読み、

日本の音では(しろ、もと)と読みます。

もともとは、

しろぎぬ、という意味、

織ったままの絹ということです。

そこから、

きじ、かざりけがない

という意味が出てきます。

そして、

生まれたまま、ありのまま

というように発展してきます。

 

そういえば、

私たちが着る衣に

「素絹」(ソケン)という

ワンピースになった形があります。

また、

素人と書いて「しろうと」と読み、

素顔は化粧してない「すがお」

科学の方では、

素粒子という一番小さな原子

というものもあります。

おもしろいところでは

「素寒貧」

すかんぴん、と読みます。

ひどい貧乏のことですが、

すっかりお金をなくしたことを

すかんぴん、になったといいます。

 

しかし、よく考えてみると

素の自分ということも

難しいものです。

一面には何の飾りもなく

素直な態度というものは

はた目にも清々しいものですが、

一歩間違うと自分のエゴを

押し付けてしまう

ということがあります。

 

別な言葉では

「自然体」ということもあります。

自然のままにふるまう、

仏教では自然と書いて「じねん」と

読みますが、

何の修行もなくそのままということが

自然(じねん)ということではありません。

 

修行の段階に

努力無効用行(どりょくむくゆう)

ということがあります。

最初は「有効用行」(うくゆうぎょう)です。

努力しているという形が残る

如何にも努力してますよ、と

努力しているという痕跡

というか残滓が残る。

ところが、

修行もだんだん進んでくると

努力しているという形も

姿さえもなくなってくる。

それが「無効用行」だと

書いてあります。

 

「素」ということも、

ありのまま、そのまま、

ということでいいのですが、

本当は、

人間としての本来性、

難しくは「如」という言葉でも

表しています。

「如来」の如ということです。

ですから、

自分の本当の姿、本来性が

やって来たというのが

「如来」ということでしょう。

 

「素の自分でいる」

ということも深く求めていけば

努力したという形跡さえ残らない

努力が身に付いた

そういう姿をいうのでしょう。

その時初めて「他」ということも

認めることができるし、

対話するということも成り立つ

のではないでしょうか。

 

まあ、しかし、

「素の自分で居れる」

とい場所を持つことは

とても幸せなことだと思います。

 

それがさらに進んで、

努力が無くなるまで、

努力の相が無くなるまで

修行できたら、

なおさら、

「融通無碍」(ゆうずうむげ)

という、

自由な境地になれるのでしょう。

 

 

 

 

 

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