本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

四無量を捨てず四無量を起こす

2021-12-14 20:30:58 | 十地経

諸法無我・無寿命・無衆生

という言葉に続いて

今度は

「四無量を起こすことを

捨てず」

ということが出てきます。

四無量というのは

四無量心のことです。

慈無量心

悲無量心

喜無量心

捨無量心

というのが四無量心の

内容です。

楽を与えるのを「慈」

苦を除くのを「悲」

人の喜びを見て喜ぶのを「喜」

人に対して憎しみや怨みの心

がなく平等であるのを「捨」

といいます。

捨というのは仏教では平等と

いう意味です。

 

講義では

「一切の人類を

自分の外にみて、それに

大悲心を起こしとるという

ことなら、

それなら慈善みたいな

もんです。

そういうような、

高いところから低いところを

憐れむというものは、

それは同情ですわ。

同情は、同情は非常に

傲慢な心なんだ。

人を同情するというような

ことをいうのは。

そうじゃないんだ。

衆生そのものになる

ということが大悲心なんです

如来が如来の地を捨てて

衆生自身となる。

そういう時に地という字が

つくんでしょう。

 

捨というのは

悲や喜というようなものの

両端を捨てることや。

平等という意味ですわね。

悲喜平等ということが

捨という意味だ。

平等の心といってもいい。

 

だから、悲しむといっても

衆生を悲しむのではない。

衆生と悲しみを共にする

という意味だ。

喜ぶといっても、

衆生の喜びをもって

我が喜びとするという意味だ

共にということが大事なんだ

それで捨という。

 

なんか、

捨というと知らん顔しとる

ような意味に見えるわね。

さっき言った

無心というような意味だ。

捨というような意味、

けど実は、それは

無心で冷たいんじゃない。

それがほのぼのとした、

なんというか、

無心のように見えるところに

静かなあたたかみ

というものが

あらわしてあるんだと。」

 

この四無量心ということが

三浦先生も特に教育において

大事にされたことです

こういう心をどうやって

園児たちに伝えるか

そのときに、

いつも口にされていた言葉が

「人の喜ぶことをみて

 我が喜びとする」

ということです

 

たとえば

園児さんたちが

ブランコで並んでいて

下の子が来たら譲ってあげる

譲られた方は

「どうもありがとう」

譲った方は

「どういたしまして」と

そのように、喜ぶ顔をみて

そのことが自分の喜びとなる

そういう何でもないことを

小さな幼い心に植え付けて

いくという

そういうことが原点だった

と思います。

 

今読み返していくと

こういう一つのことを

深く受け止めて

それを実践していかれた

三浦先生、

そういうことに

安田先生も感動されたのだ

と、今更ながら

感じるのです。

十地経講義が単なる経典の

講義ではなく

そのことが即実践に移され

教育の現場に生かされていく

 

教えが実践となった

そして、

西京極幼稚園、洛南高校を

作り上げていった

ということに

この講義の素晴らしいところ

があるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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