本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

中間時(中間のとき)

2024-09-19 20:13:17 | 十地経

講義の中でこういう

「中間時」という言葉が

出てきたのですが、

よく分かりませんが、

キリスト教の言葉なのか、

バルトが言っている言葉なのか、

しかし、なるほど面白い言葉です

 

お釈迦さまが涅槃に入られ、

無仏の時代に入ってきます。

次の仏さまは

弥勒菩薩ミロクボサツです。

その無仏の時代を見守って頂く

仏様が地蔵菩薩です。

そういこともあってでしょうか、

道の辻々に立たれて私たちを

守って頂いているようです。

 

次の弥勒菩薩が現れるのは

56億7千万年後ということです。

そういう意味で

無仏の時代でもあるし、

中間の時でもあるのでしょう。

 

講義は、

「こういうことは仏教でも

いえることではないかと思う。

仏教の方でも初期の仏教ですね、

日本の。

飛鳥時代に仏教ですね。

その時、仏足石歌、仏足石、

仏の足を刻んだ彫刻が

よくありましょう。

一番初めの仏教のね。

後になってからこのような

仏さんの像を造り出したんです

けど、初めは仏教に

そういうものはなくて、足ですね。

ガンダーラの仏像なんか、

一番初めは。

仏の足を石に彫った、

それが一番初めです。

つまりいってみれば象徴ですね、

仏法の象徴としての絵画は。

 

それで仏足石の歌というのが

ありますね。

万葉じゃないですけど、

いい歌ですね、あの歌は。

哀婉切々アイエンセツセツというような

ものを伝わってくるような歌です。

残ってますね、日本の上代の歌に。

 

それは、

仏はすでに過去となったと。

釈迦はね。

すでに過去となったと。

しかし未来の仏はまだ現れない。

未来の仏は弥勒です。

56億7千万年に、

未来に第二の仏が現れると。

 

そういうように、

現在は何かというと、

未来の仏はまだ来ないし、

過去の仏は既に入滅されたと、

その中間時です。

 

我々はですね、

その過去の仏の教えを

未来の仏が出世されるまで、

維持しなきゃならんと。

こういうような、

この悲愴な気持ちといいますか、

そこに絶望してしまわずに、

過去の仏の残された、

いわば仏が歩んだ道をね、

八正道でしょう。

それをやっぱり我々が行じて、

当来の仏まで、

我々がこれを続ける

責任があるんだと、

道に遇うた我々には。

 

そういうことを歌った歌です。

 

ちょうどいうと仏教の中間時です。

こういう哀婉切々たる中間時

というものの自覚なしにですね、

現在が絶対だというようなことを

言っているのは、楽天主義です。」

 

よくよく読めば

大きな責任を感じるような

ことです。

呑気になんかしておれない、

聞き続けてきた教えを

歩み続けなければならない

という、

私たちはそういう中間時に

生きているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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