本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)

2024-09-21 19:00:10 | 十地経

「阿耨多羅三藐三菩提」

この一句は宗派を問わず

お経には必ずといっていいほど

出てくる言葉です。

ところが、書けといわれると

すんなりかけない

言葉でもあります。

anuttara-samyaku-sambodhi

アヌッタラ-サムヤク-サムボーディ

を音写した言葉です。

あえて訳さず。

私もパソコンですと、

「あ」と入れると

阿耨多羅三藐三菩提、と

一瞬で変換しますので、

書く機会も少なくなりました。

 

訳すと、

無上正等正覚

ムジョウショウトウショウカク、とまたは

無上正真道ムジョウショウシンドウ

無上正遍知ムジョウショウヘンチ

となります。

この上なく優れ正しく平等円満

なる智慧ということで、

仏教徒の目的になります。

まあ、究極のさとりの智慧と

言うことにもなります。

 

それで講義は昨日の続きで、

バルトの話が出てきます。

 

「バルトはちょうどナチスの迫害

に遭って、その時、

日本から留学しとった人が、

ドイツを追われてスイスへ行く時

あのような激しい第二次世界大戦

の中、さなかにですね、

どういうような気持ちで先生は

毎日を送っておられますかと、

聞いたら、

私はエスカトロギッシュに

(eschatologisch)

生きていますと。

エスカトロギッシュ、終末論ね。

この世の終わりというところに

自分は毎日生きとると。

毎日毎日をこの世の終わり

として生きていますと、

こういうことを言っている。

 

つまりそれは原始キリスト教の

立場なんだ。

神の国が全部出てきたわけで

ないけど、

神の国というものが射してきた、

この世が終わった、

そして神の国が近づいてきた、

その近さの中に毎日生きています

ということを言ったんですがね、

バルトが。」

 

エスカトロギッシュという言葉

ドイツ語の辞書にも出てない

もう一つのを見ると、

eschatologi エスカトロジー、とあって、

ギリシャ語の eschata 最後のもの

が語源のようです。

日本でも、

この世の終わり、というような

歌のグループがありましたよね、

何と変な名前と思っていたのですが

こういうところから取っている

のかもしれません。

 

それから続いて、

 

「このようなことがね、

今言ったように、畢竟ヒッキョウ

といったら、もう仏果を。

仏菩提ですね。

仏菩提というものが、この、

これが

つまり究竟クキョウというんです。

アルティメットultimate ですね。

究竟を表す概念です。

 

ここまでいったら仏教は済んだと。

これからは、

ということはないのです 。

仏教というのは究竟の道であって

終わりのない道なんです。

ここまで行ったら

もう終わりということはない。

 

究竟の道を仏菩提と

こういったんです。

だからして無上正真道と

いってある。

阿耨多羅三藐三菩提と

いってある。

アルティメットという意味です。

究竟クキョウ、

つまりやがてはその身口意の

三業をですね、

身口意の三業というのは究竟を

表す概念でしょう。

 

それは究竟の世界というものを

語っとるんでしょ。

身口意の三業というもので、

三業清浄ということは。

けどその究竟の果を、

畢竟じては究竟するという。

畢竟じて究竟するという。

究竟畢竟という言葉がある。

 

ついには、

今ではまだ

究竟まで至ってないけど、

ついには究竟というものまで

至るべき一歩の中に

自分はおると。

このような含蓄があるんです、

ここには。」

 

修業というのは、

ここまで行ったら終わり

ということがあるのです。

一つのプロセスを終えたら。

ところが修行は、

終わりがない、ここまでいったら

終わりということはない、

終わりのない道なんです。

そういうことを「究竟」という

言葉で表しているのでしょう。

 

 

 

 

 

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