本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仁-JIN-

2019-06-16 20:48:35 | 住職の活動日記

ちょうど、読んでいたところで

「仁」ということが出てきました

同じようにテレビで「仁」のことを

「JIN」と横文字で表す

また違った響きが出てくるようで

 

金子先生は仁のことを

仏教では慈悲といい

儒教では仁というようです

ところが

面白い説明をされています

不仁病ということがあり

不仁とはしびれるという

例えば中風とか脚気になると

血の巡りが悪くなるので

しびれて痛くなる

足先が痛くても頭は平気で

足の痛みを頭は全く知らん顔

というたとえで

 

人が困っておっても

平気な顔できるのは

これは不仁ではないかと

人間同士の間の血の循環が悪い

「仁」はその反対で

躓いて転んで足の指先をケガしても

痛いとすぐ手をやる

同じように人の悲しみを見て

それを悲しく思わずにおれない

人の喜ぶのを見て喜ばずにおれない

それが本当の仁ではないか

仏の慈悲とはそのことである

と、おっしゃっています。

 

高校生の頃、漢文の授業で

「巧言令色鮮し仁」

という言葉が心に残り

何かあるたびにふっと心に

湧き出てくる

そのことが価値基準のようにも

なていました

口先がうまくて上手にいう

そういう人は信用できない

ということもあるようです

 

「すくなし仁」

ということをずっと「少なし」

と思っていたのですが

鮮やかの「鮮」という字です

やはり漢字は厳密で

「少」はすこしばかり

「鮮」は非常にすくないなかに

すこしばかりあること

人間には仁ということは

全くないわけではなく

ただ少しばかりというのでもなく

あるけれども非常に稀である

という意味で「鮮」を

使っているのでしょう。

 

仏法に出会うということも

ないわけではない

ではいつでも出会えるかといえば

そういうわけでもない

「百千萬劫 難遭遇」

とあるように

遭い難くして遭うという

長い時間の中で

たまたま出遭うことができる

という

千載一遇のチャンス

ということと何か同じような

「鮮」という意味にはあるような

感じを受けるのです。

 

毎日唱える十善戒の中にも

言葉に関するものが四つあって

妄語・綺語・悪口・両舌

うそを言ってはいけない

悪口を言ってはいけない

両舌、二枚舌もいけない、と

綺語というのが

人をほめて上手を言う

何も

相手を気持ちよくさせるのだから

いいような気がするのですが

上手ばっかり言っていると

わずかに残っている自分のまごころ

までなくしてしまうという危険性

があるので、綺語ということを

諌めています。

 

「仁」ということも

儒教で説く人間の本来あるべき姿

ということでしょう

「慈悲」ということも

仏様とは大慈悲これなり

といってありますから

厳密には「仁」と「慈悲」とは

違うのかもしれませんが

人としての一番大切な心としては

同じではないかと思います。

 

「仁」というと

何かしら難しく感じるのですが

「JIN」と横文字で書くと

ちょっと身近に感じるのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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