8月15日の中日新聞より
1916年、四日市の北町に生まれた瀬田栄之助は旧制富中(四日市高校)から大阪外国語学校卒業後日本郵船に就職、貿易船に乗って世界中を飛び回っていた。その語学力を買われ、石原町の俘虜収容所で通訳をすることとなった。
捕虜の言葉がわかる瀬田は、自然のうちに近親感がわいてきた。「目の色と顔の色と髪の色とが少し違っているだけで同じ人間同士じゃないか?」しかし、戦況が悪化する中、施設の環境も劣悪となっていった。そこで瀬田は上官にある提案を申し出る。
「相生橋俘虜通過の光景」その2
大熊秀治著の本、日露戦争の裏側“第二の開国” 日本列島に上陸したロシア軍捕虜七万人 をWebで見つけました。ここに四日市が出ています。前回掲示の捕虜の写真はこの時の状況ではなかったでしょうか。
明治三十八年十月二十四日、ロシア特別委員ダニロフ中将一行が長崎に上陸し、東京で元捕虜将兵の引渡し交渉を行った。その結果、ロシア側が輸送船を派遣すること、その乗船地は長崎、神戸、横浜の三ヵ所とすることが決まった。
十一月中旬より送還業務が開始されたが、上陸地のウラジオストクで反乱騒ぎが起こったり、神戸でペスト流行のきざしが出たために急遽四日市に変更されるなど、思わぬ事態があり、最終的に送還が終わり、ロシア将兵の姿が完全に消えたのは、年が明けた三十九年二月二十日であった。(相生橋の消印には明治39年4月30日とあり、俘虜帰還が一段落したころになります)
総括してみれば、約二十ヵ月の戦闘期間中、捕虜として日本軍に身柄を拘束されたロシア将兵は七万九三六七名、そのうち現地で解放された者五五〇六名、死亡者一四五三名、それらを除く七万二四〇八名が日本に送られて来た。