この映画を観てローマを訪れた若者がどれほど多かったことか。ヨーロッパの小さな国の王女様。各国を公式訪問中に退屈なあまりローマの街で宿舎を抜け出してしまう。街で助けてもらった新聞記者と楽しいい1日を過ごす。記者は彼女を王女と知って、友人のカメラマンを呼んでこっそり写真を撮り、とくダネにしようと考える。しかし、1日の間に不利に友情を超えた愛が芽生えるる。ぜひ、ラストの言葉を聞き逃さないで欲しい。王女が言う「私は国家と国家の友情を信じたいと思います。人と人との真心を信じるのと同じように」この時の王女オードリーのなんという美しさ。「王女様の期待は決して裏切られることはないでしょう」答える記者グレゴリー・ペック。振り返ったオードリーの百万ドルの笑顔。たった一人立ち尽くすペックの目に涙。感動のラストを決してお見逃しなく。
「長えこと ここさ居っと
つくづく思うのやの
死は門だなって
死ぬって云うことは
終わりっていうことではなくて
そこをくぐり抜けて
次へ向かう
まさに門です
私は門番として
ここでたくさんの人を送ってきた
“いってらっしゃい”
“また会おうの”って
云いながら・・・」
昨日は“おくりびと”を上映させていただきました。
お天気の悪い中41名の方にご参加いただき、本当にありがとうございました。また、DVDの状態か、機器の状態かが悪く映像が止まったりして皆様には大変ご迷惑をおかけしました。次回より事前チェックを充分にしてまいりますので、これに懲りずに参加いただきますようお願い申し上げます。
次回は、三重県視聴覚ライブラリーより “ローマの休日”を 7月22日(金)午後6時より上映させていただきます。全体に飽きさせずに最後の感動シーンまでなだれ込んだ感があります。すでにご覧いただいた方も今一度鑑賞ください。
そして8月26日(金)は小津安二郎監督“彼岸花”を今一度上映させていただきます。
戦後、焼け跡でぶらついていた渥美清に声をかけたのは浅草のフランス座関係の人間だった。
「お前さん、いつまでもヨタってばかりしていたら、いずれブタ箱行きという事にもなりかねないよ。どうだい、一つ、この辺で足ィ洗って、オレの一座で幕引きをやってみる気はねえか」
こうしてフランス座での役者稼業が始まる。
彼の一人芝居に、こんなのがあった“渥美清”堀切直人 晶文社より
帽子をかぶり、サングラスをかけ、コーンパイプをくわえ、マッカーサーに扮して舞台に現われ、でっち上げの英語を勝手にまくしたてる。ついで、台湾総統の蒋介石に化けて、でたらめの中国語をしゃべり、時折、それにチャーシューメンといった言葉を交えた。さらに、ソ連の書記長スターリンになってロシア語らしきものを、フランスの軍人ドゴールとなってフランス語らしきものをしゃべる。そうかと思うと、突然、ターザンに変身して、アーッアッアッアッと叫び、チンパンジーのチータと化し、ウォホッウォホッと舞台を駆け回る。物真似が達者で、インチキ外国語が楽しく、次に何が出てくるのか予想できない面白さに満ちていた。
渥美清は客を笑わせるだけでなく、客に涙を流させもした。頭に一円玉台のハゲがある、ちょっとオツムの弱い若者の役は絶品だった。「床屋のバカ倅が、おとうとの恋人に恋してしまい、なかなか告白できずにいる役をやった時などは踊子さんたちが舞台の袖に集まって、渥美やんの一挙手一投足を見つめていた。最初はお腹を抱えて笑っていた踊子たちも、芝居が佳境に入るとハンカチを握り締め、目を真っ赤に泣きはらしていた。
そして、この頃に“男はつらいよ”のリリーを思い起こさせる過去があった。
渥美清とM・K子との関係はフランス座時代も続いていた。M・K子は川崎セントラルからフランス座に移り、踊子として舞台に出ていた。当時フランス座の経営者となった松倉久幸は「歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた」でその頃の二人のことをこう語っている。「M・K子というその踊子は、踊りもうまくきれいな子でしたねえ。気立ても優しく、本気で渥美に惚れ込んでました。その頃の渥美はバクチ好きの大酒呑みという、芸人の典型でしたから、K子もずいぶん苦労したでしょうが、渥美のほうもこの子にはほれていたと思いますよ。キャバレーで自分のショクナイ(内職)がないときでも、K子が出番を終えるのを楽屋口でじっと待っていたりしてましたからね」。
けっこう毛だらけ猫灰だらけ お尻のまわりはクソだらけってねえ タコはイボイボ ニワトリゃハタチ いも虫ゃ十九でヨメに行くと来た 黒い黒いは何みてわかる 色が黒くてもらい手なけりゃ山のカラスは後家ばかり ねぇ 色が黒くて食いつきたいが あたしゃ入れ歯で歯が立たないよときやがった どう? まかった数字がこれだけ どう? 一声千円といきたいなオイ! ダメか? 八百!六百!ようし 腹切ったつもりで 五百両と もってけ!
物の始まりが一なら 国の始まりは大和の国 泥棒の始まりが石川五右衛門なら 人殺しの始まりは熊坂の長範 スケベエの始まりは隣のオジサンてぐらいのもの 続いた数字がふたァツ 兄さん寄ってらっしゃいよは吉原のカブ 憎まれ小僧 世にはばかる 日光 ケッコウ東照宮 三で死んだか三島のお千 お千ばかりが女子(おなご)じゃないよ
四谷 赤坂 麹町 チャラチャラ流れるお茶の水 イキな姉ちゃん立ちションベン 白く咲いたかユリの花 四角四面は豆腐屋の娘 色は白いが水臭い 一度変われば二度変わる 淀の川瀬の水車 だれを待つやらくるくると ゴホン ゴホンと浪さんが磯の浜辺でねえあなた 私はあなたの妻じゃもの 妻は妻でも阪妻よ 昔 武士の位を禄(ろく)という 後藤又兵衛が槍(やり)一本で六万石 ロクでない子供が出来ちゃ いけないってんで教育資料の一端として買っていただきましょう この英語の本 ネッ 英語はABCからメンソレータムからDDT NHKにマッカーサー 古いところは全部出てるヨ
続いた数字が七つ 七つ長野の善光寺 八つ谷中(やなか)の奥寺で竹の柱にカヤの屋根 手鍋さげても わしゃいとやせぬ 信州信濃のソバよりも あたしゃあなたのそばがよい あなた百まで わしゃ九十九まで ともにシラミのたかるまで これで買手がなかったら 右に行って御徒町(おかちまち) 左に行って上野 右と左に泣き別れ さあ どうだ! ただでくれてやらあ・・・
映画会の常連さまから“人民中国”という雑誌をお借りしました。
ここに、第6回北京国際映画祭の審査員に招かれた“おくりびと”の監督 滝田洋二郎氏が、インタビューに答えた記事が掲載されていました。
日本は人の死を忌み嫌う傾向がある。作品の主人公は死体と交流する人で、これは多くの日本人が受け入れたくないものでした。人々はみな自分が将来死に直面することを見たいとは思わず、これを避けたいと思うのです。しかし死は実は身近な生活の中でいつでも起こり得ることですが、人々はやはりこれが自分から遠く離れていてほしいと思っています。このため、日本ではこの作品のテーマは禁忌となっています。作品は出来上がってから一年余り、ヒットしそうもないと、どの会社も公開しようとはしませんでした。
2001年のアルカイダによるニューヨーク テロ事件や世界経済の悪化、自然災害など不安要因が次々と起きて、人々は何を信じていいか分からなくなってきました。こうした時代背景の下、いったいいかに家族、友人、愛する人と付き合っていけばいいのか?自分が生きる意義は何か?人は泣きながらこの世に生まれ、泣きながらこの世から去っていきます。人の終局の意義はどこにあるのか?人生はたやすくはないが、どの人も「生きてよかった」と言います。この作品は温かさに満ちた物語でこうした問いかけに答えていると思います。
5月中旬のこと、吉村英夫先生から電話が入る。毎日新聞に掲載のコラムが6月は当番になっている、ついては取材したいとのこと。断りきれずに承知した。
そこで5月下旬、お話をさせていただき、この記事が6月4日付の新聞に載った次第です。
5年間続けてきた映画鑑賞会、ボツボツ潮時かな?と思っていた矢先のことで、これで止められなくなった。元気をいただいた先生のおかげである。
6月24日は“おくりびと”そして、7月22日は吉村先生推薦の“ローマの休日”を上映予定している。この二作品、ジャンルはバラバラですが、どちらも三重県視聴覚ライブラリーさんのお世話になる。感謝!
“おくりびと”は8年前公開の作品で決して古くはないが、肉親のことが思い起こされ感涙した等の声が聞けて、なかなか好評である。
新しい切り口の作品に、初めての方が会場に足を運んでいただけるとうれしいが・・・。さて
6月24日(金)午後6時30分より(訂正します 午後6時より上映です)“おくりびと”の上映会を行わせていただきます。一度ご覧になった方も、今一度ご鑑賞ください。お待ち申し上げております。
入場無料 会場は いつものスワセントラルパーキング2階会議室です。
「あいつ 今までで いちばん きれいでした 本当に ありがとうございました」
「夫婦ってのは いずれ死んで分かれるんだが・・・先立たれるとつらい きれいにして 送りだした」
「東京から 山形の田舎にもどって二ヶ月 思えば なんともおぼつかない毎日を生きてきた 僕は 本当にこの仕事で やっていけるのだろうか」
「微笑んでいる顔をみて 思い出したんです あー おいの子だのう やっぱ あいつは おいの子だのうって 本当にありがとうございました」
「石ぶみ・・・昔さあ 人間が文字を知らなかった大昔 自分の気持ちに似た石を探して 送ったんだって」
「行ってあげて おねがい お願いします 最後の姿を みてあげてよ」