吉村英夫先生方が始められた「彼岸花映画祭」から案内が届きました。4年前、津の観音寺境内に記念碑を建てられたのがきっかけで、今年4回目を迎えます。会場は、近鉄江戸橋下車、23号線の大学病院前バス停を東へ、三重大病院を越した左側にあります。
「名古屋円頓寺商店街の奇跡」山口あゆみ著 講談社α文庫
円頓寺商店街は3年前、経産局の紹介でお伺いした。西アサヒ(現なごのや)の田尾さんは、奥さんが三重県出身ということで、超多忙にもかかわらず、気さくに対応していただいた。古さ(親しみ)の中に、新しさ(若さ)が徐々に入りつつあるアーケード商店街だった。当時、田尾さんの周りでは次ぎ次ぎと仕掛けが造られているなといった感がした。商店街の奇跡は、ここに1冊の本として結実した感がある。
円頓寺のこれからを考えるとき、いつも念頭に置いていたこと。
・老舗 今まで長くここで商売をしてきた店
・名物 商品だけでなく、名物商店主も含む
・街並み 歴史ある街並みだけでなく「残したい」と感じる街並み
・お祭り この街ならではの祭りで人が集まる
田尾さんの店 西アサヒ
イベントパリ祭は、徐々に充実させていくのではなく、一回目から「これ本物だね」と思わせるお祭りにしたかった。出店してもらう店は公募ではなく「これぞ」というお店にこちらから声をかけていった。
田尾さんのところのサンドイッチ
街の活性化について田尾さんは語る。「いい店をつくるとか、いいメニューを開発するとか、そういう具体的な活動はあっても“街づくり”という行動って実はないんですね。お客さんが明日行きたい店、行きたくなるサービスをどうやってできるかという、ひとつひとつの地道な積み重ねしかできないなと思います」。
堀川沿いにある風情のある飲食店
店舗でも、祭りでも、アーケードの改修でもそうですが、どういう姿になるのがいいのか、そのビジョンを描いておかないと、ただ『つくりました』になってしまう。例えば、アーケード改修にあたっては、改修されたアーケードの下でどんなことができたらいいのか、どんなふうに資金を回収していくのか、そうしたビジョンがあってこそ、じゃあどういう改修をすればいいのかが見えてくるんです。
一店舗、一店舗のオリジナリティを大切にし、今まで続いてきた店の個性、店主の個性を生かしながら街づくりをしたことが、結果的に円頓寺商店街全体の価値と魅力を高めた。
昭和33年頃は、1番街が一気に形成始めた頃です。諏訪駅跡地には広い土地が開けました。右に建つのがスワマーケット。やがて取り壊され、諏訪百貨店となります。築地市場のような賑わいです?
辻さんは、南に向かって撮りました。
西方向を見ると、着実に1番街の通りは造られつつありました。フクヤ屋さんが開店しています。
この年、東京タワーが完成しました「三丁目の夕日」の頃。皆が明日に向かって進んでいました。
先日、下総人さんからコメントをいただいた。国鉄四日市駅西の急カーブ、よく遊びに出かけた おばあちゃんの家は弧を描いた中心あたりにあった。軋み音は聞こえたはずである。
さて、辻俊文氏の若かりし頃の写真。辻氏によって1番街が形成される昭和33年当時が記録されてきた。
諏訪駅から、湯の山線、内部八王子線、近鉄線の三本が西へ走っていた。結果、諏訪駅が取り壊された跡地には、広々とした空き地が残った。左は川村鉄工所、1番街の通りが出来てカワムラセンターが建つ。
最近、四日市駅前のメインストリート1番街の道は線路道でした。という言葉に「へーッ」という答えが返ってくるようになりました。
大正11年頃には、八王子方面へ行く三重軌道と、湯の山温泉へ向かう四日市鉄道が並行してJR四日市駅からまっすぐ諏訪駅へ入っていました。その後近鉄線が買収、国鉄四日市へ入った近鉄線は諏訪駅を通り名古屋へと向かっていました。諏訪駅は三重軌道と四日市鉄道の始発駅となったのです。
ところが、近鉄線の短絡化で海山道あたりから国鉄四日市駅に寄らず、まっすぐ名古屋方面へ向かうことになったのです。線路は取り除かれ、諏訪駅は取り壊されました。昭和31年9月の事でした。
往年の諏訪駅と昭和30年6月の駅前風景です。
こうして左端の点線部分を近鉄線が通ることになり、駅前は一気に商店街化されました。
昭和32年4月、近鉄四日市駅が完成しました。舗装されていない ぬかるみの道を多くの人が押しかけました。
近鉄四日市駅が出来た昭和32年は、美空ひばりの塩酸事件や売春防止法が実施された年、戦後の復興に勢いがつき始めた頃です。
数日前の中日新聞より
プラモデルを見るとなつかしさで買ってしまう。三番街の森書店でドイツ軍の車のプラモを買ったが、エンジンの組み立てで中断。辻さんのところで戦車を買ったが何度か箱を開けてみただけ。昭和町並みも欲しいんだが、彩色で挫折しそうだ。そうだ、SLが欲しい。あれなら彩色せずに済む。
追記 お母様のセリフは決まっている。「どちらかを仕上げてからにしなさいっ」「ハイ!わかりました」
昨夜、すわ公園交流館で、稚拙のブログをみてください!と言ったら、アクセスが過去最高となりました。マ、正直に言ってみるもんです。感謝です。ありがとうございました。引き続き、アルコトナイコト、人様の情報を、さも自分が創造したように、偉そうに、発信し続けてまいります。おゆるしください。
戦後、四日市で1番の賑わいを見せていた諏訪新道。8月の港まつりの季節になると、七夕飾りがずらり車道に並んだ。
おそ松くん、オバQ、ひょっこりひょうたん島、ウルトラQなどの人気者がずらりと並んだ。
昭和40年頃だろうか?森さんからお預かりした写真である。
捕虜の話というと1957年、デビット・リーン監督の「戦場にかける橋」を思い出す。日本軍の捕虜となったイギリス兵士が、タイ国境のクウェー川鉄橋建設に従事させられる話でスケールの大きな映画として印象深い。
前半は、橋を期日までに完成させたい斎藤大佐(早川雪舟)と、イギリス式の方法で建設にかかわりたいニコルスン大佐(アレック・ギネス)との駆け引きが中心で、収容所の過酷な状況が描かれている。
後半は、橋の爆破に乗り込むシアーズ(ウイリアム・ホールデン)らの活躍となりアクション映画の感さえある。
私の記憶にあるのは、斎藤大佐が橋完成までの期日をカレンダーで示すところで、イラストで描かれた美女が月ごとに衣服が減っていくシーンだった。私が公開当時観たとすると小学3年生頃、ずいぶんとオマセだったことになります。
4月
5月
6月以降を是非見たかった。
8月16日付の中日新聞。瀬田栄之助 元収容所通訳が残したもの より「生きるための希望」
「一日中働いてきても、その帰り先が殺風景な収容所では本当にかわいそうだ」1953年に発表した手記で瀬田栄之助はこう吐露している。上司に慰安を願い出るが一喝される。納得のいかない瀬田は、青年学校から廃棄間近の楽器を内緒で譲り受け、戦争捕虜による管弦楽団が結成された。演奏会の後、捕虜は「快活さと生気を取り戻し」、「工場の能率は目に見えて増進した」という。過酷な生活を送る捕虜にとって、音楽や芸術は生きるための希望だった。まるで映画の世界です。