コロナに始まり コロナに終わる1年でした
次の年こそ 希望溢れる年になります様
皆様のご多幸を 心よりお祈り申し上げます
今年もお世話になりました
来年も 宜しくお願い申し上げます
丸子宿名物 とろろ汁 喰えるものならいただきたい
三島宿は なんと云っても 女郎衆でしょう
掛川の凧揚げは 今でも盛んです
コロナに始まり コロナに終わる1年でした
次の年こそ 希望溢れる年になります様
皆様のご多幸を 心よりお祈り申し上げます
今年もお世話になりました
来年も 宜しくお願い申し上げます
丸子宿名物 とろろ汁 喰えるものならいただきたい
三島宿は なんと云っても 女郎衆でしょう
掛川の凧揚げは 今でも盛んです
神奈川から静岡にかけて、今回は富士が主人公です。
富士詣での一行
東海道の松の巨木の下を、駕籠が通ります。
蒲原は、雪景色になりました。
広重の絵に出ている橋が 現在の三滝橋と思われていました。十年程前の講習会で 博物館学芸員の広瀬毅さんから この図の橋は、河口付近であることをお聞きしました。
橋の先には十里の渡しがあります。人家の並ぶところが蔵町、前の道は浜往還で 札ノ辻へとつながっていました。
先月のイベントで 四日市の漫歩マップを アーケードの柱に貼ったら、寒い中 結構な人が見ていただいていた。感謝です。
ところが剥がそうと思ったら 両面テープがべた付いて取れない。仕方がないので 毎日少しづつ剥がしております。
で次は、お正月に間に合うよう 東海道のポップを製作中です。凝りませんなぁ!
追記:道路が 見る見るうちに 雪で白くなってきました 今夜は積もりそうです
箱根宿は江戸から歩いて二十四里二十八町、東海道の十番目の宿場である。 十時半醉(訂正:半睡)事件帖 東海道を行く より
芦ノ湖と箱根宿
箱根八里の険しい山越えのために設けられた宿場で、幕府は奈良時代に建てられた箱根権現社の門前町であった元箱根を宿場に出来ず、芦ノ湖のほとりの原野を開拓、箱根山の東西にある三島宿と小田原宿から五十戸ずつの人家を移住させて箱根宿とした。山上なので農業が出来ず、旅籠や茶店で生計を立てるしかなかったが、徐々に人家は増え始めた。もちろん、中心となるのは関所である。天下第一の関所として日本中に知られていた。
箱根宿 慶応3年 ベアト撮影
十時半醉(訂正:半睡)の一行は、早朝に小田原を出立して四里の山坂道を超え、まだ日の高いうちに関所の手前にたどり着いた。
「どうじゃな、まだ日も高い。箱根の権現様にお詣りをしてゆくとするか」
箱根沿道 F・ベアト撮影 幕末
広重の箱根
境木を超えると戸塚の宿場へ入る。此処も平坦な街道ではなく上り下りの多い山坂道である。しばらく歩くと柏尾川が流れて大きな橋が架けられており、その手前に道標が立ち「左り、かまくら道」と読める。大きな茶屋があり、鎌倉へ向かう人々はここでひと休みして、川沿いに街道をそれて歩きはじめるのだろう。往来の人々の姿が多くなっていた。
戸塚のこめや付近 戸塚は最初 宿場ではなかったが慶長5年(1604)に宿駅となった。
戸塚は江戸から十里半、小田原へ十里という地点にあり、旅人の一日の行程にちょうど適した距離である。江戸からの旅人の多くはここで一泊めの宿をとる。二泊めは小田原、そして箱根の関所へ向かう。
Fベアト撮影 戸塚宿 (年代不詳)
戸塚の宿場は賑やかだった。七十五軒という旅籠が軒を並べている。茶屋や土産物屋の店も多い。同行の喜兵衛は「本陣や脇本陣は窮屈でならぬ。なみの旅籠にせよ」と半睡に言い含められている。門構えもいかめしく、玄関や書院までを備えた屋敷ではおもしろくも何ともない。しかし、一般の旅籠は“飯盛女”と呼ばれる娼婦を置いたところが多く、それでは遊女屋に泊まるのと変わらない。
旅籠を探しに行った喜兵衛が駆け戻ってきて、大きくはないが落ち着いた旅籠に草履を脱いだ。
十時半睡事件帖 東海道を行く 白石一郎著 より
広重 東海道五十三次 戸塚
神奈川宿は江戸から七里、十時半睡(とときはんすい)の一行は日本橋を出立してから28キロメートルを歩いてきたことになる。当時の道中は暁闇(ぎょうあん)から歩き始めて日暮れまで十里、つまり40キロメートルが平均速度とされていたから神奈川で泊まるのは早すぎることになるだろう。しかし半睡にはこの旅を急ぐつもりは全くなかった。 “十時半睡事件帖 東海道を行く” 白石一郎著 講談社文庫
此処は急な上り坂の道がつづく。右手は山が道に張り出し、左手は海に面した断崖である。神奈川台と呼ばれるその海際の断崖に旅籠や料理茶屋がびっしりと軒を並べている。
神奈川台場の関門(厚木市郷土資料館蔵)幕末 F・ベアト撮影 江戸内湾を望む神奈川の台場には茶店が建ち並んでいた。台町を過ぎると江戸湾内に分かれをつげる。
一行が半里といかないうちに人家が目立ちはじめ、やがて宿場の入口に達した。どの宿も赤や青の暖簾を派手にひるがえし、店頭にはたすき掛けの女たちが呼び込みをかけてくる。
「お休みなさいやあせ。とりたての魚がございやあす」
神奈川宿の入り口(東京都写真美術館蔵)幕末 F・ベアト撮影 右手は海側、左手は山側である。神奈川宿は湊町を持つ宿場として発展した。明治期には海が埋め立てられて眺めが一変している。
みると料理屋の軒先に大きな鯛やひらめが吊り下げてあった。旅籠をみると厚化粧に女たちが片膝竪で格子の向こうに座り、往来の男たちに手招きしている。旅籠というより遊里の気配が濃い。
広重 神奈川 “台”とは 神奈川宿の西の高台のことで、海を望む眺めが美しいことで茶店が軒を並べていました。店先で茶店女が客引きをしています。坂の中ほどの店は海に面した軒先も描かれており、提灯も見えます。お客はここで海の眺めを楽しんだようです。
参考にさせていただきました(四日市図書館蔵)当時の雰囲気が写真を通してよく理解できます
引合茶屋とはなにか?『そんなに色っぽい茶屋ではない』と佐藤雅美は書いている。江戸奉行所の同心はたった二十人。これだけで江戸の警察業務は取り仕切れない。その下には手先、岡っ引き、下っぴきが計千六百人ほどいて、同心の下で働いていた。正規の役職ではないから給料はわずかだ。副業を持った者もいたがほとんどが“引き合いをつけて抜く”ことで収入を得ていた。“引き合いをつけて抜く”とはどうすることか。江戸の犯罪のほとんどが“窃盗”、泥棒である。泥棒は癖のもので、捕まるまであちこちで盗人を働く。あちらの店頭で商品が盗まれた、こちらの店で無銭飲食があった。さて、捕まった泥棒が、御白州で裁きを受けるとなると、被害者たちは皆で出頭しなければならない。一日がつぶれてしまい、同行する町役人にもいくらかの謝礼と供応が必要だった。額が大きければ話は別だが、大した被害でもないのにそれは勘弁してよ!と、張り切る岡っ引きには袖の下を渡して、穏便に事を済ませた。これが“引き合いをつける”ということである。しかも集まって采配する“茶屋”までが出来ていた。
高麗屋
新材木町の岡っ引き半次は、引合茶屋の高麗屋で用を済ませるとその足で常吉の営む小料理屋 瓢亭(ひさごてい)へ向かった。
高麗屋を出ると牧野家(切絵図では松平和泉守屋敷)の屋敷の正門前に抜けてもと来た道を海賊橋、江戸橋と渡り、さらにその先の伊勢町堀に架かっている荒布橋を渡ろうとして足を止め、くるりと踵を返した。
半次は、何処を歩いたのか?左やや下に「タカサゴシンミチ」の文字が
振り返るとそこは魚河岸である。江戸橋から日本橋までの、日本橋川北岸の、通りの両側には魚問屋、魚仲買、魚店がずらりと軒を並べていて、ここ石町(こくちょう)には江戸中から買い求めに人が集まる。このところの長雨で魚の入荷は減っている。魚河岸がいつもより活気がないように見えるのは、一つには魚の入荷が少ないせいかもしれない。半次はそんなことを考えながら、ぬかるんだ道を歩いて行って横丁を右に曲がった。
通りは両側とも本船町だ。続いて両側とも安針町(あんじんちょう)、安針町の背後はともに長浜町、さらに両側とも本小田原町とつづく。魚河岸という場合川岸の通りだけでなくこの一帯もさし、俗に日に千両の金が落ちるといわれている。半次は安針町にさしかかったところで左手の、高砂新道(たかさごじんみち)といわれている、両側に魚店、塩乾物屋、食い物屋などがずらりとならんでいる新道を左にまがった。二十軒ばかり入っていくと左手に魚店と乾物屋に挟まれた、縄暖簾を下げている一膳飯屋がある。夜は小料理屋に姿をかえるので縄暖簾の上には瓢亭と墨書きした軒行燈も掲げてある。半次は縄暖簾をかき分けた。
中央エリアが”Q”の字になっている
2015年はじめられた 岡崎市の乙川リバーフロント地区公民連携まちづくり状況を視察した。
市民が集い、愛着を持ち、住みたくなる街を目指して、岡崎市は乙川を軸にKURUWAプロジェクトを進めている。
諏訪振興組合一行は 東岡崎市で降りる。
駅前のデッキになっている”オト リバーサイドテラス”を渡って乙川の南側を東へ 市役所で説明を聞いた後再び駅へ戻り 乙川を舞台に展開されている”おとがワンダーランド”のお話を聞く。河川敷では、花火・キャンプ・ナイトマーケット・ランニング・ヨガ・星空散歩・サイクリング・フライキャスティング・清掃活動・カヌー等市民参加型の活動が展開されている。
桜城橋は、地元の材木で床が出来ている。毎週 なんと 雑巾がけのイベントが開され、中央ではお店が開かれる。資材は再利用される。
橋を渡ったところから北へ延びる中央緑道。入口に立つデジタルサイネージとインフォーメーションマップ しゃれている。
中央緑道は段差があり、休憩場所やステージがつくられている。椅子は置かれたまま。背に番号がついていて、持ち去る者はいない。
中央緑道の突き当りの籠田公園は、真ん中に起伏状のグリーン帯、キッチンカー等の出店、イベント用の設備、レンタルサイクルなどが整備されている。ここに酒飲みの入る余地はない。小雨の降る寒い日だったが、市民がダンスを楽しんだり、子供を遊ばせたりしていた。
絶え間なく降りそそぐ秋の長雨が続いていて、時折突風が手にしている傘(からかさ)を吹き飛ばそうとする。佐藤雅美著“半次捕物控 影帳”より 冒頭部分
この前はひどい暴風で柿板(こけらいた)が何枚か吹き飛び、とりあえずのところごまかしたばかりだというのにまた雨漏りに悩まされそうだと、つまらぬ心配をしながら半次はいつものように道をまっすぐいこうとしたのを思いなおして右におれた。
半次はなぜ“思案橋”を渡らなかったのでしょうか?
道なりにまっすぐいき、小網二丁目から鎧の渡しを利用すると、向かい側の丹後田辺牧野家の上屋敷(尾張屋江戸切絵図では松平和泉守邸)の東北端にたどり着く。目指す場所はそこから目と鼻の先にあるが、日本橋川はひどく増水している。転覆の虞(おそれ)があるからと渡はお止めになっているはず。半次は思いなおして道を右に折れた。親父橋、荒布(あらめ)橋、江戸橋、海賊橋と大まわりして、牧野家と坂元町一丁目の通称海賊橋通りのぬかるんだ道をはねるように歩いて、坂元町一丁目の切れる角を右にまがった。
まがった左手には山王(さんのう)の御旅所である。隔年六月十五日の御祭礼、山王祭の日には永田町にある山王権現の本社より神輿三基がきて一休みする処から山王の御旅所といわれている。境内には山王権現の他薬師堂が建てられていて参詣客を見込んだ水茶屋ももうけられている。
麹町1丁目山王祭練り込み・広重 江戸百より
半次は御旅所門前の、ぬかるんだ道のやはり水たまりを避けながら歩いて行って、右手坂本二丁目の、通りに面して建てられている二階家の前で足を止め、笠を逆さに持ちなおして雨のしずくを振り落とした。二階家は高麗屋源蔵の引合茶屋である。 つづく