花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

新栄橋は何処にある ④ 掖済会

2024年09月17日 | レモン色の町

大正11年 丸印が新栄橋で右下に掖済会の文字が 後ろの白い部分が牧場になるのか?

新栄橋の先には掖済会があった 唯一の通行路かと思っていたが ああ勘違い!掖済会は明治41年3月『日本海員掖済会三重支部四日市海員寄宿所』として稲場町に造られたものであり 新栄橋は江戸末期から出来ていた しかし 掖済会やその裏手にあった牧場へ行く道として新栄橋は利用されたはずである。

掖済会

腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。明治期までは海水浴というレジャーはなく、海水に浸かる行為は医療用とされていた。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場としては最初に開かれた場所で、明治41年この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんだ。

大正13年10月12日  角の石灰工場の影響ばかりではないと思うが ヘドロが河口に流れ出している様子が分かる 黒く見えるところが牧場か?

大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機が浜辺に着水しており、多くの人が集まって来ている。

大正期の絵はがきより 三滝川北には午起の松林が望める

大正期大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。


新栄橋は何処にある ③

2024年09月16日 | レモン色の町

新栄橋の現在の様子を今少し

新栄橋跡から東向きに

右(南)駐車場の向こうが公園になっている

北側 運河は埋められ公園となっている

新栄橋の歴史は古い 江戸末期の地図を見ると 札ノ辻から浜往還を東へ 浜町から蔵町を通って開栄橋(橋の命名は 明治期になって稲葉翁による)に至るが その北隣に橋がある これはのちの新栄橋になる

明治初期の稲葉翁による湊造成の図(上が東になる)にも新栄橋にあたる橋が存在している 当時の橋は何と呼ばれていたのだろうか?

四日市は、明治30年8月市制実施をした。そして、稲葉三右衛門翁の遺志を引き継ぎ、明治39年に市は港の四大事業を樹立 明治40年に取り掛かった。(椙山 満著“四日市市史より)

その四大事業とは、

1.阿瀬知川の開さく(川口の築港化で、のちに阿瀬知川河口にあたる末広川と呼ばれる運河になる)

2.入江の浚渫(港―蓬莱橋―開栄橋―新栄橋―潮呼橋―思案橋に至る運河の浚渫のことで、のちに浜町運河と呼ばれるもの)

3.海面の浚渫埋立(高砂町から南方の海浜を埋め立て、南納屋町との間に納屋運河を造成し、阿瀬知川と結ぶ。のちに尾上町となる。

4.諏訪新道の近代化(諏訪神社-沖ノ島―四日市駅(国鉄)間道路の近代化と、更に高砂町まで延長して新しい港新道をつくる。

この事業は 大正期になってようやく完成する。

本町まちかど博物館の水谷宣夫氏にお借りした明治40年5月発行の“四日市志” その巻末の四日市の地図にも新栄橋らしき橋が載っている

大正11年の地図では 四大事業は終了していて(明治43年竣工) 千歳地区の埋め立ても終わっている

新栄橋は 江戸末期からの存在が確認できた 名前は稲葉翁によって開栄橋となったのちに新栄橋の命名がされたと思うが ずいぶん古くからあった橋である 開栄橋と距離は離れてないのに 必要とされていた なぜか? その先を見ると 掖済会へと伸びていた  つづく


新栄橋は何処にある ②

2024年09月15日 | レモン色の町

昭和32年

新栄橋の場所が分かった ということで確認に出かけてみた

現在

現在 運河は埋立てられて公園や駐車場になっていた 正面の大協石油へと続く

昭和21年 潮呼橋を潮来橋と間違えております 訂正が面倒なので お詫びに代えさせていただきます

昭和21年の空襲後の写真では 新栄橋はかすかに残っていた 潮来橋(訂正:潮呼橋)は空襲で焼け落ちている 間に架かる専売局の営業所と倉庫の間に渡してあった橋は残った 橋の名前は分からない

昭和10年

遠くに午起海岸 左には国鉄のレールが北へと伸びる 中央が東洋紡績四日市工場 その右隅に何とか潮来橋(訂正:潮呼橋)が覗いている その橋の先は三滝川へ流れ出ず 直角に曲がっていた 直角に曲がり Uターンして旧四日市港へと伸びていた

昭和30年

昭和30年の潮来橋(訂正:潮呼橋)からの眺めとあった 濁り切った水たまり状態 運河の角に見えるところから 潮来橋(訂正:潮呼橋)の東詰めから北西方向に撮ったものか? えーっと 画面の左に橋があったんじゃなかろうか?

下は 明治28年の鳥観図 橋の位置が良く分かる

明治28年

昭和9年の納屋運河 右に開栄橋 正面に郵便局(逓信省)の建物が見える 橋西詰の通りをまたいで北隣は四日市倉庫だ

昭和9年

現在の開栄橋西詰から東方向(稲葉町)を撮る

現在

郵便局跡の前から開栄橋を撮る

明治36年

明治期の開栄橋の賑わい 橋の東詰めから西方向に撮られた 左郵便局 遠くに西洋風の四日市銀行が建つ 橋から銀行の間には蔵が並んでいた。蔵町だ

あ、今思った 読み方は 開栄橋(かいえいばし)から しんえいばし と読んでよさそうデス 

※ 訂正:たいじゅさんからご指摘をいただきました 潮呼橋を潮来橋と間違えておりました そういえば 潮来橋(いたこばし)やったと 言い触らしていた時期を思い出します

 

 

 

 


新栄橋は何処にある?

2024年09月14日 | レモン色の町

まず 辻俊文さんの残して行かれた1枚の写真からご覧いただく 辻さんは子供を撮るのが好きで 多くの写真を残して行かれた これもその1枚

小学6年生か?雨の中 辻さんに笑顔を向けて橋を渡ろうとしている 橋には“新栄橋”と描かれている。

では、新栄橋とは何処だったのか?写真から見ると それほど大きな川でもなさそう 辻さんの説明では 昭和32年相生橋付近とあった 橋の向こうにはアパートらしきものと 正面に煙突が見える

岡野繁松先生が 出された「旧四日市を語る」第1週に戦前のマップを出されている そこに「新栄橋」の文字を見つけた

下が北

開栄橋があった頃 その北に存在した小さな橋(開栄橋は現在もあるが 橋の役目ははたしていない) 

これは昭和13年のマップ ここにも新栄橋の名前が見える この時代には 潮呼橋から大きく曲がって新栄橋から開栄橋に至っている

昭和53年になると 運河は埋立てられ 開栄橋のところまででストップしている

新栄橋は 納屋公園の端に あった

 


午起海岸の事

2024年09月13日 | レモン色の町

午起海水浴場へはバスで出かけた。

昭和13年の地図でゴザイマス 話が飛んで申し訳ありません

浦賀ドックの起工式(昭和18年)が午起海岸で行われた時の写真。

この階段の向こう側(東側)が海岸で、堤防には松林が続いていた。白砂で遠浅で中州ができたので相当遠くまで行けた。簾掛けの茶店や休憩所が多く出て賑やかであった。カンカン帽、麦わら帽子、こうもり傘、ステテコ、浴衣、海水着(水着とは言わなかった)など、当時の風俗が良く分かる写真だ。

昭和6年

遥か沖合を外国船が通っているのが見える。午起の南、三滝川河口からつながる松林には、保養所が開設された場所で、三滝川河口の南側には掖済会があった。

昭和11年の保養所

浚渫工事の様子 昭和30年代かな?左に三滝川 中央に保養所がありましたかな?松林に囲まれています

 


昭和21年の空撮

2024年09月10日 | レモン色の町

昭和21年 空襲から約1年後の 三滝川と海蔵川の間の地域の空撮が手に入った おそらく米軍によるものだろう

上が海蔵川で下が三滝川 左に上下に走る線は1号線(訂正:東海道)である

上の写真の東にあたる 三滝川の上は午起海岸 四分割にして地名を入れてみた(昭和13年の地図参考)

上に海藏川 左の上下の線は1号線である 右上の県立四日市商業高校は 現 橋北中学校 工場と間違えられたのか消失している 四日市病院が新浜町にあった(右下) 八幡神社の位置はそのままだ

その下(南)の写真になる 中央に三滝川が流れる 三滝川を境に焼失状況が大きく異なる 第6小学校・第7小学校と建てられ こどもの多さが伺える 久六町や十建町と昔の町名が目につく

4枚に仕切った右上にあたる写真 午起海岸が広がる 三滝川北の東洋紡績四日市工場は三滝公園となっている

上の写真の南側 東洋紡績は三滝川を挟んで二カ所に工場があり国鉄線の東(訂正:西側)は社宅になっていた 現在の北条野球場 下は大協石油 

復興のスピードは かなり早いと思われます 地上では 必死に作業が行われていたのでしょう 希望の未来が見えていたのかもしれません

 

 


映画の世界と映画館 ②

2024年09月09日 | レモン色の町

映画産業の戦後復興は早かった。青山誠 著“浪花千恵子”より

なんと、終戦から2週間が過ぎた8月末頃には新作映画が封切りされ、戦災を生き残った映画館には客が殺到していたという。

四日市も昭和18年から20年にかけて米軍のB29による空襲を受け、中町の“世界館(閉館)”、南町の“弥生館”、幸町の“四日市劇場”、新町の“四日市東宝劇場”は消失している。終戦に伴い国家機関は映画関係者と再開に向けての協議を行っている。

昭和29年封切り、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」を上映中の三重劇場

暗い場所と映写機さえあれば、どこでも映画は興行できる。焼け跡には粗末なバラックの映画館があちこちに建てられるようになり、夜には広場などを利用して上映会が開かれたりしていた。こうして昭和21年にはトップを切って“三重劇場”と“諏訪劇場(後の四日市東映)”、そして新町の“四日市東宝劇場”が、22年に“ラジオ劇場(昭和31年に日活劇場)”、“四日市劇場”が焼け跡の中から次々と再建された。

新町の四日市東宝劇場(旧 湊座)

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、GHQによる検閲も廃止され、かたき討ちがメインだった時代劇に許可が出た。それまで、ちょんまげ姿が演じられない片岡千恵蔵は、大映で新劇の“多羅尾坂内”を撮っている。「私は、好きで演じていた訳ではなかった」と述懐している。

四日市日活は、昭和32年封切りの 月岡夢路主演「白夜の妖女」を公開中

昭和27年には、全国で278本の映画が製作されたが、4年後の昭和31年には500本を突破している。映画館の数もまた急増していた。焼け残った映画館は全国でわずか35軒だったのが昭和30年には5184軒になっている。すべての産業が壊滅した昭和20年代の日本で、映画は数少ない成長作業だった。毎週、2本立てや3本立てで新作が公開され、新作を待ちわびる人々は映画館へと押し寄せた。当然、映画業界の現場はオーバーワークを強いられる。深夜になってもスタジオの照明が落とされることはなく、スタッフは覚せい剤の“ヒロポン”を注射してでも頑張った(ヒロポンは昭和20年頃まで合法されていた)、ってこれちょっとまずいんでないの?


映画の世界と映画館

2024年09月07日 | レモン色の町

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“旧四日市を語る”第十集には、戦前・戦後の映画館や劇場のことについて話をされた記録があったので、再三ではありますが、昔の映画館について記してみたいと思いました。

戦後、三重劇場などは(再建が)早かった。新生劇場(四日市日活)はラジオ劇場と言っていた時もあった。弥生館や湊座(本町)跡の東宝劇場、かまぼこ型劇場の四日市劇場:よつげき、その後、諏訪に出来た諏訪劇、後に東映劇場(四日市東映)、東に行って(本町の踏切を渡った東)ロマン座、みやまど劇場:鉄骨やった、塩浜劇場、塩浜駅の東に豊劇場?があった。

四日市東映前に立つ辻さんの子供さん

ずっと後になってストリップ専門の別世界。ここはよく警察の手入れがあった。岐阜の人がやっていた。額縁ショーがあった(古い!ホンマか?)。富田劇場、太陽劇場、衆楽館、つばさ(富田は紡績工場があったから 映画館が多かった)。戦後の東宝劇場には歌手がよく来た。(原節子の)「青い山脈」、(マリリンモンローの)「帰らざる河」などを観た。戦前の菊水館:中町の世界館北は、浪花節。世界館の二階から菊水館の舞台の出し物が丸見えだった。

塩浜の海軍燃料廠に勤めてみえた兵隊さんのグループが立ち上げた三重劇場 事業がうまくいって ロマン座や宝塚劇場に着手していきます

活動写真:映画や芝居には三角袋の落花生が懐かしい。おみくじが入っていて燃やして占った(買い求めた記憶があります。戦後もしばらくは売られていたようです。みくじの紙に火をつけると、筋状に燃えて行って、占いの結果が抜け落ちる仕掛けでした)

弥生館で「愛染かつら」をした時は、東洋紡績の女工さんが列になっていた。この自分は桝席ではなかった(昭和13年公開 主演:上原健と田中絹代)。「透明人間」を観に行ったときは、まだ畳敷きやったが、桝席は無くなっていた(河津清三郎主演の「透明人間」は、昭和29年大映公開だから戦後の弥生館になるか?戦争直後の銀座の風景が背景にあった 桝席は戦後になりますから もうなかったと思われます)。桝席の時は縁をお茶子さんがたばこ盆などを運んでいた。湊座では、休憩の時は窓の黒幕を開けて明るくしていた。たばこの煙も出していた。開けると太陽の光が当たり、ホコリのちらちらが目についた(覚えがあります 太陽光の注す劇場内は まぶしくて違う世界になったような気がしました)

戦後の四日市劇場はよく行った(昔は世界館といった)。三本立、四本立ての時もあったかな。便所の臭い匂いが客席まで漂ってくるのさえ我慢すれば、安くて一番楽しめた。ほとんどチャンバラだった(東映作品の再映で 座席に座るのは至難の業 小学生は淵の手摺りに腰かけて鑑賞した)。

 


大滝秀治(おおたきひでじ)さんのこと

2024年09月03日 | レモン色の町

YouTubeをあちこちいじくっていたら 大滝秀治さんの「北の国から」の名演技の画像が出てきた。

【大滝秀治 神演技】五郎が遅れた理由を話す大滝秀治 (youtube.com)

北の国から 名場面 大滝秀治 (youtube.com)

【大滝秀治 神演技】お前ら負けて逃げるんじゃ。 (youtube.com)

【大滝秀治 神演技】五郎に絶対に土地を売るなと諭す大滝秀治 (youtube.com)

【大滝秀治 神演技】草太と雪子の関係が気になる大滝秀治 (youtube.com)

ここで忘れられないのは、映画「若者たち」の1シーンだ。

学生運動を続ける山本 圭は、運動から離れ酒を飲んで競馬に走る江守 徹のところへ、貸したお金の請求のため訪問する。応じるのは父親役の大滝秀治。名セリフ(怪演)であります。

「学生さん これね 俺の胃袋の写真だよ ガンだってよ 医者がね どうしてもはっきり言わねえから 看護婦だまくらかして(レントゲン写真を取り出す) ホラ これがガンだってんだよ 

税務署もおまわりも ちっともこわかねえんだ俺ァ 昔はこれでもね 葛飾の争議の時にゃ旗振り回したことだってあるんだから

この工場だって俺が腕一本で作り上げてきたんだからね 

煩悩だよ 学生さん 煩悩

俺が昔っきりの着たっきりの労働者で 野郎が生涯ボロを着て暮さないようナ境遇なら何やったって俺ァ黙ってるよ

だけどね 俺ァ経営者で 奴ァ学生だ あんたと同じにヨ いくらだって先があるわけだよ これから

だからさ アナやプロの真似はしてもらいたくねえんだよ 小せえ工場だって ここを守ってくれせえしたら

あんた方から見りゃあねえ こんな工場なんかこっぱ同然かも知れねぇけど だけどねえ 俺ァ毎日新聞見るたびに 胸がギューっと痛くなんだよ

倒産なんて言ったってねえ 当節いまや新聞ズレしてるから 誰一人驚く者ァ居やしねえけど 俺ァねえ あーまた何処かに誰かが泣きみてやんだなあと思うと

ホント 仕事なんてものはねぇ やってきた当人でないと分かりゃあしねェなんだから

良い親じゃねぇンだ 俺ァ 頭じゃ野郎の云う理屈だってよーく分かるのによ

とにかく 暴れねえで無事学校を出てくれて・・・

そんなもんだぜ学生さん やわら人間の一生なんてものぁ・・・

良いと思ってんだよ それで

嫌われたって 軽蔑されたって とにかく野郎が安穏に生きてってくれさえすりゃぁ それで俺は 良いと思ってんだよ」


貸本屋の時代⑧手塚治虫

2024年09月01日 | レモン色の町

にちぶんMOOK『昭和こども新聞』(昭和22年版)より

戦後の闇市で売られていた“カリスト雑誌”は、仙花紙というクズ紙で刷られた雑誌で紙質も悪く、スリラーだのリョウキだの、実話だのと言う題字に怪しげなお姉さんが表紙を飾る本だった。そして、このカリスト雑誌に紛れて“赤本”と云う名の漫画雑誌も出回っている。どうやら大阪で印刷所の焼け跡から漫画の刷り出しものを引き取り、適当につなげて売り出したのが始まりらしく、表紙と内容がバラバラでいい加減なものが多かったようだ。

そんな中、育英出版から刊行された手塚治虫 画の“新宝島”は、40万部以上売れるヒットとなった。中を見ると分かるがコマごとに絵の構図が変化する、そのため全体が躍動感とスピード感であふれている。テンポよくぺージをめくることができ、セリフが少ないのも特徴で文字を最低限に抑え、まるで映画を観ているような感覚を味わえるのである。

今(昭和22年)は娯楽に飢えている時代。こんな漫画がでれば われ先に飛びつくのも当然ではないだろうか。

高石ともやさんが 幸せそうに 本当に幸せそうに 森山良子さんと 街 を歌ってみえます 画像の古いのだけが残念ですが ま、これも 時の流れですか・・・

高石ともや&森山良子 - 街 (youtube.com)

想い出の赤いヤッケ(高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン) (youtube.com)

平浩二 バスストップ Bus Stop/Koji Taira (youtube.com)