吉田吉三郎鳥観図集より “伊勢参宮名所図絵” 昭和5年1月1日発行
外宮周辺之図(右側)
外宮 下 近鉄宇治山田駅
内宮周辺之図(左側)右に古市
内宮 昭和5年1月1日発行
吉田吉三郎鳥観図集より “伊勢参宮名所図絵” 昭和5年1月1日発行
外宮周辺之図(右側)
外宮 下 近鉄宇治山田駅
内宮周辺之図(左側)右に古市
内宮 昭和5年1月1日発行
ず―――っと昔、振興組合で上映いたしました。以来、涙もろくなったものです。映画の題が出ただけで、ウルルっと来てしまいます。歳をとったものです。
1番は、山が(川)の間違い。面倒なので直しません。
万引き少年が落として言った(訂正:行った)財布を持って、盲目の老女を訪ねたタバコ屋のオーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)。一人暮らしの老人に肉親と偽りクリスマスのお祝いをする。100%善意だったかと言えば そうでもない、帰りに隅に置いてあった盗品と思われるキャノンのカメラを持って帰った。その話を作家のポール・ベンジャミン(ウイリアム・ハート)に話すと、話が出来すぎているとポール・・・
「嘘がうまいのも 才能だなあ
勘所を心得ていて うまい話に仕立てる
君は大ベテランだよ」
・・・に対してオーギーは、何を勘違いしているんだ。
「秘密を分かち合えない友達なんて
友達といえるか?」
ゆっくりとオーギーの顔がアップされて、ニンマリと笑う。この顔が最高です!
そうか、そうだったかと納得のポールが曰く・・・
「その通りだ それが生きていることの価値だ」
わるいジョウダン話で成り立っているような、マンハッタンの下町での会話。一生に一度は こんな対話をしてみたいものですニャァ。
たばこ店 オーギーの店に、昔 彼女だった独眼竜(思わず笑える)の女性が乗り込んでくる。「オメメはどうしたの?」と聞くと「無くしたの。悪いものを見すぎたから。ところで お願いがある。妊娠している娘に会ってくれないか」という。「本当に 俺の娘か?」と聞くと“フィフティ フィフティ”との答え。二人で会いに行くと、娘は麻薬中毒で毒舌満開。子供は降ろしたといわれ あっさり追い返される。そのあと娘は、こみ上げる悲しみの表情をする。(彼女はその後、救われることになるので ご安心を)
クリスマスだとわかるのは最後のシーン。妻を亡くして以来スランプに陥っていた作家のポールに、N.Y.タイムスから“クリスマス向けのいい話”の仕事が舞い込んできた。「何か、良い話はないか?」「昼飯をおごってくれたら話すよ」とオーギー。
この最後の話のシーンが良い。このシーンを撮るのに監督は3日かけたそうだ。はなし始めるオーギーの顔がゆっくりアップされる。
話は、店の万引き少年を追いかけると財布を落としていった。そこには、住所の紙片と母親との二人の写真が入っている。その住所を頼りに、財布を持ってクリスマスの日に届けることにした。古いアパートに 盲目の老婦人が一人で住んでいた。思わず「息子だよ」と言ってドアの隙間から声をかけると「ああ、息子かよく来た」と言って部屋に入れてくれた。持ち込んだチキンとワインでささやかなパーティをする。
実はおばあさん、訪れたのが息子でないことは初めから知っていたのだ。おばあさんが寝入っている隙に、置いてあった万引きの品と思われるカメラを拝借して帰った。「作り話だろう。うまく出来すぎている」とポールは笑い飛ばそうとする。最後のシーンでは、その時の様子がモノクロで映される。
クリスマスは誰もが幸せになれる権利がある。その幸せを分かち合える日が まさに クリスマスである。
映画「スモーク」を観る。ああ これは、クリスマスの映画だということを最後まで気づかなかった。鑑賞後、ほっこりするような、もう一度 観ても良いような映画だった。“幸せは分かち合うもんだ。みんなお金持ちでもないけれど、幸せになる権利はあるんだ”という作品かな?
クリスマスを祝うことは戦後にきたアメリカの進駐軍さんが一般市民に普及させたか?。“クリスマスイブ”には“クリスマスケーキ”を食べて、夜中になると“クリスマスプレゼント”をサンタさんが 枕元の靴下に入れてくれる。冬休みに入ったばかりで、気持ちがうきうきしているから、こんな良いことはない。日本人にすんなりと受け入れられた。
ブルックリン 長――い電車が走る
オーギーの店では・・・
こんな話が弾む
アメリカはブルックリン。広い通りの角で小さなタバコ屋を営むオーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル=映画で、この役者が好きになった)は、街角のモノクロ写真を、毎朝、同じ角度で同じ時間(午前7時)に10年間撮り続けている。このカメラはこの映画 最後の伏線となる。
正面がタバコ屋
そのアルバムを、客であり作家であるポール・ベンジャミン(ウイリアム・ハート)に見せる。『みんな同じ写真にみえる』『いいや、よく見てくれ。行き交う人々、季節の移り、みな違う。もっとじっくり見てくれ』その中の1枚に、ポールは亡き妻の出勤姿を見つけ、思い出してむせび泣く。その横で何となーく複雑な表情のオーギー。役者が良いのか、監督の指導が良いのか?キャストのみんなが忘れ難い演技を見せてくれる。オーギーの50%の確率で子供である?娘も、忘れ難い演技をしている。
つづく
止めるジョー親父を殴り倒して、シェ―ンは決闘に向かう。対するは、ライカー兄弟と拳銃使いのジャック・パランス。会場?は雑貨屋を兼業している居酒屋。奥のテーブルにはライカー兄さんと右側には拳銃使いのパランスさん。卑怯にも二階に潜むは、ライフルを構えるライカ―弟様。シェーンは瞬時に階下の二人を撃ち殺すが、二階から狙われていることに気づかなかった。シェーンの後を追ってきた息子のジョーイは、それを見ていて思わず「あぶない!(ビー ケアフル?)」と叫びます。二階と同時に撃ち合い、弟は1階へ墜落します。しかし、シェ―ンも傷を負っているようです。
左腕をダラリと下げたままシェーンは馬で去っていきます。“カムバック シェーン”と呼ぶ名シーン。(「帰ってきて!」の訳はマズイです)脇腹に銃弾を受けたまま何処へ行くのか?丘を上る後ろ姿には死の予兆が漂います。
カムバック シェ―――――ン
おそらくシェーンはこの先で死を迎えるでしょう。元気であれば、片恋の人妻マリアンに一言挨拶があったはずです。墓標の立ち並ぶ丘を上っていくシェーン。プラトニックラブとはいえ、許されるはずがないのです。
<追伸>多々ご意見がおありと存じます。いろいろな結末を考えるのも、また楽しゅうございます。
<年末特別付録>
現在、中心市街市で必死で取り組んでいる”バスタ四日市”。2027年には駅前が変わる!と共に中心市街地も変わらなければ!ということで Sさんが動画をアップされました。感謝!
八百屋の“しろちゃん”から、姉さんと「シェーン」を観に行くので、一緒に行かないかと誘われた。しかし、姉さんの都合で行けなかった記憶がある。封切りが昭和28年なので、三重劇場へ行こうとしていたのは幼稚園前の頃か?しろちゃんより歳が一つ下だったから、小さくて理解できないと思われたのかもしれない(恨)。
ジョー一家と、何気なくその場にいるシェ―ン
「シェーン」は西部劇の王道を行く作品です。開拓民の家族にライカ―一家が出て行けと脅しをかけます。善悪がはっきりとしていて、いかにもワルといった連中です。しかし、ライカ―一家の兄はこう云います。「開拓団としてこの地に入り、先住民のインディアンと戦い、苦労して手にした牧場だ。南北戦争で負けたため政府に取り上げられたが、本来、ここは俺たちの土地なんだ」と。立場を変えれば、ライカ―一家も悪くないような気がします。
ライカ―一家がやってきた
政府の承認があるとはいえ、むしろ侵入者は、ジョー親子の方かな?とも思われます。冒頭で、ジョー親子にシェ―ンという用心棒がついたから、ライカ―の方も拳銃使いのジャック・パランスを雇ったのです。その後、シェーンは奥さんのマリアンに色目を使い、プラトニックラブと言え、子供の前でチョロチョロと奥さんを伺います。(コレ、アカンヤロ)ということで後編の“シェーンは死んだか?”の結論に移ります。
「この土地から出ていくか、もしくは、俺の牧場で働くなら、雇ってやる ウヒャ ウヒャ ウヒャァ~」
<補足>ウィキペディアより“気になること”
日本においては、1953年(昭和28年)公開の団体名義の映画作品は『2003年(平成15年)12月31日に著作権の保護期間が終了したもの』と考えられたことから、幾つかの会社から『格安DVD』としてリリースされた。しかし、東北新社とパラマウント社は著作権存続を主張した。2007年(平成19年)12月18日に、最高裁判所で「著作権法による著作権の保護期間が終了した」と確定判決を下したことで「シェーンの著作権は消滅した」ということが、裁判を通じて公に認められた。
以下もウィキペディアより 著作権問題
“シェーン”は昭和28年の作品です。ところは開拓途上のワイオミング州。リーダー格のジョーと賢明で美しい妻のマリアン、そして息子のジョーイが住む家にシェ―ンが訪れます。折しも、一帯を開拓して牧場を営むライカ―一家が、後から入植してきたジョーの家族を追い出そうと嫌がらせを仕掛けてきます。そんなこともあって、シェ―ンは家族の親切心にあまえて逗留することになりました。ライカ―一家の追い出しは激しくなるばかりで、入植者の中に死人が出るに至ります。遂にシェ―ンは、止めるジョーを振り切ってライカ―一家と決闘に出かけます。後を追うジョーイ。そしてジョーイは決闘の現場を目撃するのです。
決闘に勝ったシェ―ンは、去ります。その時ジョーイにこう残して・・・。
「一人でも人を殺せば、後戻りできないものなんだ。
一生消せない烙印を背負う」
当時は勧善懲悪の名のもと、旗本退屈男もスーパージャイアンツも、バッタバッタと悪者を倒していきました。そんな時代の中でシェ―ンは、人を殺めれば それで罪人になるんだよ、と少年に教えていきます。 後編へ つづく
<特別付録> 商店連合会の甕破り山車でお世話になっているSさんが、Youtubeを立ち上げてみえますので、ご覧ください。
問1.の回答 大鵬の化粧まわしは、A.のスズランでした。幼い頃を過ごした北海道の代表花であるためでしょうか、スズランを愛しておりました。贈り物に頂いた鉢植えを大切にしていたそうです。
昭和30年代になると我が家にも、多少は余裕が出来たのでしょうか?親父が北海道旅行に出かけてお土産を買ってまいりました。その中にスズランもあったのではと思います。記憶にあるのは、アイヌ部落で作っている木彫りの熊や、瓶に入ったマリモでした。珍しいお土産に、最果ての土地へ思いを馳せたものです。
マリモ 不思議でした
おみやに買ってもらいました
問2.答えは C.のブラッシーです。
危うし!力道山
今思うと、それはショーの一環でした。しかし、当時は真剣で、終盤まで外人勢の卑怯な手で追いつめられる力道山に「何をしとんのや!おい、武器を隠しとる!出してくるぞ!やれっ!やってしまえ!わッ、また噛みつかれた!あ~~血だらけや!大丈夫か!がんばれ!負けるな!空手チョップを早よ出せ!出さんかいな!」と必死でした。失神を超す(失神する が正しいでした)人が続出、ついに死亡するばあさんまで出る始末でした。
昭和34年ご成婚パレード、昭和39年東京オリンピックと大きな出来事と共にテレビは、急速な普及をみせました。そして、テレビの普及に乗るようにして大相撲とプロレスもファンを獲得していったのです。大相撲は栃錦と若乃花の“栃若時代”に朝汐が乗り込んだ形となり、大相撲ファンを熱狂させました。その後、昭和35年頃になると“柏鵬時代”を迎え、この二人に挑む栃ノ海や佐田の山が出て、お茶の間を盛り上げました。
玉子・大鵬・玉子焼きといわれました(大訂正です:下総人様に訂正を頂戴いたしました。正しくは、巨人・大鵬・玉子焼き でした。ここに謹んで ・・・ お慶び申し上げます メデタイ メデタイ 超反省!)
対する柏戸の土俵入り
さてさて問題です。土俵入りする横砂大鵬の化粧まわしにはいったい何が刺繍されていたのでしょうか?
A.スズラン B.熊 C.桜 D.おっかさんの顔 E.ロダンの考える人
力道山
相撲界の関脇からプロレス界に入り、たちまちヒーローとなった力道山。彼は昭和27年にアメリカへ行って修業を積み、帰国後、日本プロレスを立ち上げます。豊登道春や吉村道明らをパートナーにして、海外から外人選手を次々と招いて公開、テレビ中継に乗って全国にプロレスブームを広めました。
豊登道春
吉村道明
さて、日本に招いた外人選手の中で、相手の額に嚙みつき、リングを血の海にしてお茶の間を騒然とさせた男は、誰だったでしょうか?
A.ザ・デストロイヤー B.鉄人ルーテーズ C.ブラッシー D.アルフレッド・ヒッチコック