花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和の食と商店街 公園通りとすり鉢

2017年10月25日 | レモン色の町

第35回 公園通りとすり鉢(両者あまり関係はありません)

“昭和のすぐれもの図鑑”小泉和子著 河出書房刊より

思い出してみると私が子供の頃は家で“すり鉢”を使わない日はなかった。胡麻よし、胡桃和え、ピーナッツ和え、木の芽田楽、すり身、つみれ、とろろ汁と昔はすり鉢を使う料理が多かった。一日一度はごろごろごろとすり鉢の音がしていた。

「はい、しっかりすって」と、子どもたちも手伝わされた。小さい子供は縁(ふち)を押さえる役目である。膝小僧をそろえて一生懸命に抑えていた。

日本が誇っていい調理器具だが、いま日本中ですり鉢を製造している産地はほんの数カ所しかないという。しかも一産地で一、二軒程度だそうである。フードプロセッサーにとって代わってしまったのだろうが、なくしてしまうのは惜しい道具である。

コリコリと胡麻のする音と香りが懐かしい。姉のご指導で、ピーナッツを荒く摺り、リンゴを刻んだものとマヨネーズで和えておやつにしたことが思い出される。自分たちで工夫しておやつをつくっていた。

最近、料理を待つ間、お客様が小さなすり鉢で胡麻をする。そんな料亭があることを聞いた。今でも我が家は、とろろ汁をつくるのにすり鉢を出して使っている。

 昭和32年頃の公園通り

昭和43年の公園通り

 昭和32年頃と43年頃の公園通りを比較してみた。当時は“諏訪公園南大通り”と呼ばれていた。珈琲鉢の木や関西電波など懐かしい。

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昭和の食と商店街 三番街と氷冷蔵庫

2017年10月22日 | レモン色の町

第34回 三番街と氷冷蔵庫

昭和32年頃の三番街周辺

昭和43年の三番街周辺

右の位置に諏訪神社と諏訪公園がある。43年になると、神社を背にした店舗名が明確になった。中央を南北に走る路地は、連鎖街と呼ばれていて、階下は飲食の店が多く、中央に階段があって上がると長い廊下が伸びていた。2階は長屋状の住まい。

お袋は“新もの喰い”だった。田舎から町へ嫁いだことが自慢だったのかもしれない。洗濯機は、丸い形から絞り器の付いた二層式まで使っていた。テレビは高価だったせいか遅かったが・・。

氷冷蔵庫が我が家に来たのは、昭和30年の初めころだった。毎朝氷屋さんが氷を配達してくれる。二貫目の氷を鍵のようなものに挟んで、家の中をサーっと通っていく。暑い夏は随分小さくなってしまっていた。さて、氷削り器を取り出し、上の段に入っている氷をガシガシとカンナのように削る。そして、はちみつやサイダーをかけて食べる。夏休みなどは絶えずやっていたから、下の段はあまり冷えなかっただろう。氷削り器が手に入るまでは、氷を割って布巾に包み、金づちで砕いて食べた。

下の段には三ツ矢サイダーが入っている。これも近所の酒屋さんがガチャガチャとケースで運んでくれる。冷えたサイダーをコップに注ぐと、シュワ―ッと泡が出た。よく飲んだ。バヤリースオレンジは、量が少なかったのでハレのときだけ買い求めた。

やがて“渡辺のジュースの素”が発売される。「ホホイノホイッともう一杯 渡辺のジュースの素です もう一杯」と榎本健一が宣伝していた。冷蔵庫から冷えた水を取り出し、粉末の入ったコップに注ぐと泡が出てくる。オレンジやメロン味のジュースを、これもよく飲んだ。

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エリア・カザン監督“エデンの東”上映

2017年10月21日 | 諏訪商店街振興組合のこと

10月21日午後4時より“医療公開講座”と引き続き“エデンの東”上映会を行わせていただきました。あいにくの雨にもかかわらず大勢の方にお越しいただき、会場は満席でございました。最後にお客様から、次回の間違いについてのご指摘をいただきました。ありがとうございました。

医療公開講座(理事長様のご尽力でした)

“エデンの東”終了時です

日程の間違いに付き再掲載

 

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昭和の食と商店街 昭和43年の諏訪新道

2017年10月18日 | レモン色の町

第33回 往年の諏訪新道

昭和21年の諏訪新道

森さんから頂いた写真です

戦後の諏訪新道には、オカダヤ、岡本総本店、川口屋と県下一の賑わいを誇っていた。何を買うにもまず諏訪新道へ、そして、着るものは南に位置する呉服町だった。昭和43年の諏訪新道

これは、昭和53年の商店街の並びである。オカダヤが駅前に移り、もとあった場所は商事部として残っている。近鉄四日市駅が出来て10年を経た。スワセントラルパーキングはまだ建っていないが、商店街に駐車場が欲しいという要望が出始めるころである。

昔は、お正月などのハレの日には“すき焼き”を食べた。43年ごろの景気のいい時代に、商店街から連れだって出かけた。同級生のやっている高級専門店で結構な値段がしたと思う。その同級生曰く、「また来なよ。座敷も用意できるよ」という事だった。つまり同伴で“すき焼き”を食べ、たんまりしたところで二人はお布団に入る、ということが出来るらしい。勿論、値段が心配で再びお邪魔することはなかったが、そこのすき焼きは、熱した鍋に牛脂を敷き、肉を広げるように入れて割り下を注ぎ、両面をさっと焼いたらまず肉だけを食べる。その後、野菜などを入れる。通称、関西風だった。一方、東京風はというと、牛脂をひいたところへ全てを入れ、割り下を注ぐ。当家では、肉が焼けたところへ野菜を入れ砂糖と醤油を入れる。これが一般的だろう。

所謂“ザク”つまり具材は牛肉が守られていれば、長ネギ、糸こんにゃく、玉ねぎ、麩、タケノコといろんなものが入るし個性も出る。豚肉で“すき焼き”をしたこともあったか。

 

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昭和の食と商店街 スワマエを中心に

2017年10月15日 | レモン色の町

第32回 昭和43年のスワマエ

昭和32年頃のスワマエ

昭和43年頃のスワマエ

昭和43年頃のスワマエ通りをマップにした。32年頃と比べてみると、桑名屋、むらさきや、ママ家が営業中だ。お菓子の“コトブキヤ”は、喫茶と食事の“ビーボーン”に営業方針を変えた。会議をしたり食事を楽しんだりするのによく使った。

 

どの店も忙しくて仕方がないといった時代で、各店舗から持ち寄った商品をワゴンに盛って大売り出しをすると、黒山の人だかりとなった。

昭和43年、ハウス食品から“シャービック”が売り出される。水で溶いたものを冷蔵庫で凍らせると、シャリシャリ感のあるシャーベットが出来た。新しい触感だった。昭和44年には、アポロ11号の月面着陸を記念して“明治アポロチョコ”が、“UCCコーヒー ミルク入り”も発売となった。UCCコーヒーは、翌年の大阪万博会場で販売され大きな反響を呼んだ。勿論、缶の穴あけ器がついている。どちらも健在である。

映画では“2001年宇宙の旅”(難解で、長方形の板が何なのかよくわからなかった)や“猿の惑星”の第1作が公開された。ラストシーンはショッキングで「誰にも言うなよ!」と話題になった。

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昭和の食と商店街 1番街の変遷

2017年10月14日 | レモン色の町

第31回 1番街の変遷

昭和32年頃の1番街の通り

昭和43年

昭和53年 カワムラセンター南の岡崎洋傘さんの西にスギノ洋装さんがありました

現在の1番街通りがどのように変わってきたかを並べてみました。昭和32年から10年ごとの店舗の並びの様子です。

近鉄四日市駅が出来てから出店ラッシュとなり、街が完成すると、大きなビルがテナントを募集する形態が増えてきました。

同伴喫茶のイメージです

“同伴喫茶”が3階にあるというので覗きに階段を上がったことがあるのですが、どうやらペンギンの西あたりかと思われます。1回がケーキ屋、2階が喫茶、3階が同伴喫茶になっていました。同伴喫茶は昭和38年がピークと云われていますが、四日市ではもう少し遅かったようです。

ノーパン喫茶のイメージです

昭和55年頃には下火になっていたという“ノーパン喫茶”へ連れていかれたことがあります。ナショナル会館の西あたりでした。珍しさと話のタネに行きましたがすぐ閉店になったと思います。コーヒーが千円くらいだったかな?四日市の駅前は、様々な喫茶店が並ぶ商店街でした。

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市川準監督“トキワ荘の青春”

2017年10月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと

 11月18日(金)午後6時より 「トキワ荘の青春」を上映いたします。是非お出かけください。

市川 準監督“トキワ荘の青春”は1996年の作品です。手塚治虫が“トキワ荘”で執筆していたのをきっかけに、多くの漫画家が上京してきました。作品は寺田ヒロオを中心に、漫画家を目指す若者たちの初々しさとひたむきさを抑えたトーンで描いています。集まってきたすべての若者の夢が叶うわけではなく、登りつめていく者、頓挫するものとさまざま。けれどもお互いを励ましあいひたすら漫画道を突き進んでいきます。時代は昭和31年頃でしょうか?水野英子がトキワ荘で仕事をしますが、実際はもう少し後のことです。

この図は“トキワ荘最後の住人の記録”山内ジョージ著 東京書籍 を参考に作らせていただきました。つのだじろうは近所に住んでいて、頻繁にトキワ荘を訪れています。また。藤本弘の母親(桃井かおり)が訪ねてきたり、石森章太郎の姉が食事を作りに来たりしています。

私が浪人時代をすごした、小金井市の白道寮が思い出されます。主に大正大学の学生寮でしたが、寮生のお姉さんが訪ねてきたりしていました。

映画では階段を上がったすぐ左がトイレになっている

映画のキャストの紹介です

寺田ヒロオ:本木雅弘(スポーツマン金太郎)

安孫子素雄:鈴木卓爾(藤子不二雄A:忍者ハットリ君)

藤本 弘:阿部サダヲ(藤子・F・不二雄:ドラえもん)

石森章太郎:さとうこうじ

赤塚不二夫:大森嘉之

森安なおや:古田新太(少女マンガ)

鈴木伸一:生瀬勝久(後にアニメーションに移る)

つのだじろう:翁華栄

水野英子:松梨智子

手塚治虫:北村想

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昭和の食と商店街 グリーンモールを中心に

2017年10月10日 | レモン色の町

第30回 43年頃のグリーンモール

昭和43年になると、駅前商店街の形成はほぼ終了している。とはいっても半世紀前である。一昔前どころではない。懐かしい店が当時はまだ営業中である。成美堂がサンシの隣にあって、スワマエに来るのはこれ以降なのか。その南隣には一番薬品、隣が清水商店と並ぶ。清水商店は肥料などを扱っていたか?小学校の時、清水先生がこの奥で習字を教えていた。墨をすりながらおしゃべりで時間を過ごし、最後に5枚書いて、朱で添削してもらった。

昭和48年はどんな年だったか?

12月には府中で三億円強奪事件が起きている。3月30日 、テレビアニメ『巨人の星』の放送が始まり。10月17日 には、川端康成がノーベル文学賞受賞した。10月21日 国際反戦デーで新宿駅を学生が占拠。この後、東大紛争へエスカレートしていく。ゲバ棒を振り回していた同級生もいたが、今では年老いてすっかりおとなしくなっている。

食べ物では、日清食品の“出前一丁”、明治製菓の“カール”、サンヨー食品が“サッポロ一番 みそラーメン”が発売された年でもある。インスタント麺が出そろった頃だろうか。みそラーメンは大好きで、随分お世話になってきた。カールは最近姿を消したようだが、インスタント麺は現在でも活躍中である。

この年、コカ・コーラも売り出された。薬臭いとか、歯が溶けるとかいろいろ取りざたされた飲み物も、今ではすっかり定着している。

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第1回 四日市☆映画祭開催!

2017年10月09日 | おいらの商店街

昨日は、四日市☆映画祭 あさけプラザの“短編映画コンペティション”にお伺いさせていただき、約15分の短編映画作品17本を鑑賞いたしました。

会場は200名ほどの方で熱気があふれ、映画への情熱で元気をいただきました。四日市を映画の街にできる、そんな可能性を秘めた第1回でした。準備、当日の運営と、映画祭にかかわった皆様のご尽力に、心より感服申し上げます

作られた方々には失礼ですが、印象に残った作品を羅列いたします。

“幸せな結婚”→画面の構図が計算されていて、カットごと丁寧に撮られていました。

“知りたくなかった”→意表を突くストーリー展開、ラストでひとひねり欲しいなという期待に、みごと応えてくれました。

“ストール”→ピントがスリランカの女性か、友人か、ストールなのかぼやけていたように感じました。スリランカの女性を中心に撮られると面白かったのでは。

“四日市防衛作戦”→博士が面白かった。バカバカしさに徹した処が楽しめました。

“灯火 TOMOSHIBI”→相方の高野くん?の演技がよかった。

“桃太郎”→“防衛作戦”から再び登場のお祖父さんが面白い人だった。鬼ヶ島の決闘シーンにあまりこだわらない方がよかったのでは?

“最強戦隊ジェットマン”→ストーリーに目新しさが感じられないと思ったら、30年以上前から8ミリで撮影されてきたとのこと、納得いたしました。

“薄桜鬼無双”→プロの域の素晴らしい出来栄えでした。今回の映画祭に招待されていた長田紀生(おさだのりお)監督が、「とりあえず撮っておくということは止める。しっかりしたシナリオを作り、訴えたいことを明瞭にする」だったと思います。キャストの方のかっこよさばかり目立った気がしました。

“サイキッカーZ”→作っている皆さんが楽しそうで、その楽しさが伝わってくるようでした。

“同性物語”→丁寧によくできた映画でした。テーマが同性愛と重いので、その分、画面にテンポがあるとしんどくないなあと感じました。

“4DAYS CITY”→映画祭の最期を飾るにふさわしい作品でした。見慣れている街が、通りが、見事画面に組み込まれていて驚かされました。鬼才と云う名にふさわしい杉田一豊監督です。

皆さん本当に楽しそうにつくられていました。ありがとうございました。

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昭和の食と商店街 駅前とオカダヤ

2017年10月07日 | レモン色の町

第29回 駅前商店街とオカダヤ

四日市市の今昔 DVDより 樹林舎刊

昭和43年頃、駅前の商店街の様相はどうだったか?

昭和32年に近鉄四日市駅が完成し、諏訪新道にあったオカダヤは、昭和33年4月駅前に移転、925㎡の2階建て店舗をつくった。そして昭和38年3月、売り場面積5000㎡の5階建てに増床し総合百貨店となった。44年2月にはジャスコが設立される。

オカダヤの2階西南の隅に小さなニュース劇場があった。ここで“ナヴァロンの要塞”(封切りが昭和36年)を観た記憶がある。おそらく総合百貨店となる38年までニュース劇場は存在していたのだろう。

四日市シネマとグランドの間の路地を抜けて高校に通った。途中、角源があり調理場から出る湯気が通路に噴出していた。早朝だったから、かつお節で出汁をとっていたのだろう。

イメージでござりまする

その東にある岡崎洋傘2階の喫茶 醍醐(だいご)は有名で、女子学生があんみつを食べるのに利用されていた。その隣のコーヒーのエリーゼ、駅前のみつや(階下がケーキ売り場で2階が喫茶ではなかったか?)、大鯛寿司2階の珈琲の中南米、マルミヤ2階のスミルナと、駅前には喫茶店が多く点在していた(八百屋の愛汗屋2階も喫茶ではなかっただろうか?)。

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