昭和の初め、ラドンが富田浜へ飛来、そしてゴジラが四日市へ上陸した、と記録にあった。
壬申の乱に関しては、皆様よくご存じと思います。首謀者は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でなく別に黒幕がいたという説もあります。ロマンです。
太古の昔から、天皇の席をめぐり、殺し合いが繰り広げられてまいりました。まず、仏教導入派の曽我氏と、神道を守る物部氏の論争で曽我氏が勝利(587年)しますが、その後、曽我氏の横暴が続き、曽我入鹿(そがいるか)は天皇候補者であった聖徳太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害に追い詰めます。
頭にきた、中大兄皇子と中臣鎌足は、曽我入鹿を殺害(大化の改新645年)しますが、中大兄皇子は天皇になる間もなく、朝鮮半島では百済から援軍の要請が来ます(白村江の戦663年)。しかし、朝鮮半島への進出野望もむなしく、4回の海戦ですべて惨敗。中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)となって国内の体制固め(律令国家)に入ります。
天智天皇は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と共に律令国家建設に励みますが、大海人皇子よりも自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を後継者にと思うようになりました。それを察知した大海人皇子は、危険を感じ吉野へ身を隠します。ある日、吉野で天智天皇の死を知った大海人皇子は挙兵します(壬申の乱672年)。どちらが仕掛けた戦かはわかりませんが、大海人皇子は、吉野から鈴鹿の関を超え伊勢の地を回って(この時伊勢神宮に向かって遥拝しました)不破の関を押さえます。これは朝廷軍(大友皇子)が東国への援軍要請をできなくするためでした。朝廷内の反天智天皇勢力も挙兵し1か月で大友皇子は破れます。
天智天皇の後を継いだ天武天皇(大海人皇子)は、律令国家建設に励みます。大海人皇子がくるべ遺跡を通過の際には、我が軍に着くようしっかりと念押しがあったのでせう。
富田思い出の写真集より
ところで、この時、天武天皇が伊勢神宮へ向かって勝利を祈念した”天武天皇神宮御遥拝の碑”が立つ垂坂山の碑、昭和30年頃はほとんど禿山状態でした。家屋の建設が盛んで伐採が行われたためでしょうか?同じ場所とは思えませんでした。
手前の立つのは、国土地理院の三角点です。
追記:因みにこの碑が立ったのは、大正4年 御即位記念 とありました。
大矢知の遥拝所の碑(右側)は、昭和16年5月21日 三重懸指定 と刻んでありました。どちらにも天皇崇拝(というよりも戦争の・・・)のにおいがしております。
コメントをいただきました。感謝!ご紹介します。
パンフレットの垂坂山(御祓岡)の碑は説明書き通り大正天皇が皇太子時代に陸軍の演習の際、垂坂山を訪れたことを記念して大正時代に建てられた碑です。倒壊の恐れがある為、十年ほど前に撤去されました。碑の文字は「今上天皇御駐蹕處」で形も円柱砲弾状で富田ホームページの垂坂山の写真とは一致しません。
富田ホームページの写真と文字と形が一致するのはパンフレット額突山(ぬかつきやま)天武天皇御舊跡の写真ですよね。額突山は糠塚山(ぬかつかやま)の別称です。ですから富田ホームページで垂坂山と紹介されている写真は実のところ糠塚山(額突山)山頂の写真なんです。
尚、パンフレット中の和歌に「志氐(しで)が岬」とありますが正式には「四泥(しで)の崎」です。※ 阿倉川の志氏神社まで海が来ていて、岬になっていたんでしょうか?
シドロの松は四泥の引用でしょう。また志氐神社(しでじんしゃ)の社名もこのシデの発音が元になっております。シデは(木綿)四手でもあるのですが説明は割愛します。※ 初めは“松ドロシ”?と読んで何ノコッチャと思ってました。当時、木綿はなかった。木の皮を叩いてさらした楮(こうぞ)のようなものを着ていたのでは?とくるべ館の方のお話でした。
噴水上の聖武天皇像は聖武天皇で間違いないはずですよ。聖武天皇の和歌に出てくる「吾の松原」の候補の一つが富田浜、富洲原付近の海岸です。近くには聖武天皇社もありますし、和歌に因んだものだったものと思います。※ 飛鳥時代の昔から富田浜の海岸はあったんですね。聖武天皇社はどこにあるのでしょうか?
四日市高校の南を流れる十四川の堤に立ち寄った。注:ワタシが
富田 思い出の写真集より
幼少の頃、お袋に連れられて桜みに出かけた。途中キンカンを買った。なぜかキンカンを食べた記憶だけが残る。少し侘しい気持ちだったからかもしれません。
迹太川の特定ができず、十四川もその候補の一つに上がっています。多分!このところ自信がなくなってきたので、特定しないように心がけております。その割には、古代ロマンにひたっております。
久留倍官衛遺跡公園(くるべかんが いせきこうえん)へ出かけた。富田駅を過ぎて四日市高校沿いの道を大矢知方面へ上る。あさけプラザを過ぎると北勢バイパスの高架がある。高架の手前を左へ折れて道沿いに行く、バイパスに乗らずに左へ入ると駐車所場が広がっていた。北勢バイパスを造っている途中でこの遺構が見つかり、迂回させて保存された。
駐車の車は3台だった。“くるべ古代歴史館”へはいると、説明される方が付きっきりで話をしてくれた。なんとここは聖武天皇と天武天皇が主人公でありました。知りたかった壬申の乱や聖武天皇の徘徊のことを説明頂いた。
思わず尋ねる「ところで垂坂山の山頂に、天武天皇の遥拝碑は今でもあるのでせうか?」答へは「いまでもありますよ。富田山城線沿いに北警察署が新しく出来ました。手前の細い道を上ると小さな駐車場があります。そこへ車を停めて、山道を少し登ると山頂に碑が立っていませう。」館内の説明を聞いた後、“くるべ歴史公園”も観ずに遥拝の碑を目指した。
簡易トイレが立つ砂利敷の駐車場から、一気に登山道となっていた。ロープ伝いに登る。“まむしに注意”の看板が点々とある。マムシに嚙まれたら北警察署の人が来てくれるかな?と思いつつ進む。おお!山頂に碑がみえた。
撤去されたと思っていた遥拝の碑がそこにあった!
木々の間から伊勢湾が望める。大友皇子を倒して、政権をとるため立ち上がった大海人皇子(後の天武天皇)の軍勢は、朝廷軍と東方面を寸断するため鈴鹿の関を超えた。そして、この久留倍の役所へ立ち寄ったのは、わずか2日間だった。
※ 訂正:通りがかり様からコメントをいただきました。2日間居たのは聖武天皇だったそうで、大海人皇子は通りかかっただけだそうです。通りがかり様からでした。
カメラの操作間違いで ジオラマモードで撮ってしまった。歴史館へは再訪問の必要有!
本日、大発見があった。本町の水谷宣夫氏が富田浜海水浴場の俯瞰図をお持ちだった。写真集“四日市の100年”ではモノクロであり明確ではなかったが、これは本物であった。
付近名所旧跡
垂坂山御野立所跡
垂坂山は霞ケ浦西方約十町 眺望絶佳にして杖を曳く遊客四時絶えず 殊に四日市の咽喉を扼し 軍事上亦枢要の地点なれば明治43年陸軍大演習の砌(みぎり)今上陛下駕(駕=のりもののこと)をこの地にとどめられ 三軍を統べ給ひし所なり。 けふはまた誰が御祓岡志か岬 木綿(ゆふ)とりしでて浪もみすらむ(名寄) ナンノコッチャ!垂坂山山頂の天武天皇の碑は、富田ウエブページの碑と一致する。
富田の思い出の写真より
垂坂山(御祓ケ岡)より四日市港を望む
これは垂坂山山頂
天武天皇御旧跡
壬申の年 天武天皇この地の乱を避けたま給ひし時 遥かに伊勢大廟御遥拝献穀奉弊戦勝祈願を遊ばされし所なり。(霞ヶ浦西方約八町)
遅れにし人を思はく志氏が岬 ゆふとりしでて 住まむとぞ思ふ(萬葉集)
- パンフレットの碑と、垂坂山の碑が一致しました。
額突(ぬかづき)山 天武天皇御旧跡
付近にある米洗(よない)川は、御祓(みそぎ)ガ岡、志氏(しで)ガ岬と共にいずれも天武天皇の御旧跡なり。
そして極め付き!備考として 1.表面絵画中 聖武天皇とあるは天武天皇の誤植なり。2.シドロ松は志氏(幣)の松の転化俚稱(りしょう)なり。
左下は間違いで、天武天皇御遥拝の松 とあり、ここは大矢知のように思えます。
聖武天皇は天武天皇の間違いです!と簡単に認めております。なぜ、分かっていながら訂正しなかったのでしょうか?では、富田浜は聖武天皇でいいのか?オセーテ。そして、富田浜海水浴場入り口南側にあったシドロ松は、そういう種類の松だったということでした。
富田浜の、噴水の上に立つのは、聖武天皇なのでしょうか?
前田憲司先生の登場でございます。前田さんにお聞きしたところ「詳しく存じず、スミマセン」ということでしたが、きちんとお答えをいただきました(実はこの人、詳しいんです)。
天武天皇の迹太川遥拝の碑ですか?遠保神社(「とお」と読むつながり)で、そのあたりを流れる川の上流ということで、垂坂を遥拝所とする説があったんですよね?それで建てたけど、迹太川が特定されなくなった。
垂坂山の碑は、自信がなくなって撤去されたんでしょうか?
富田浜は碑というか、噴水の上に乗ってたのですかね?
記念の碑というよりも、モニュメントだったんでしょうか?天武天皇が富田浜あたりをうろついた痕跡は、何かに残っていたんでしょうか?昭和の初めですから、天皇をあがめる傾向は強かったんですね。海水浴をしていても、天皇さんのありがたさを忘れてはいけないよ、とかなんとか。 前田様、ありがとうございました。
さて、手抜き工事で聖武天皇について調べさせていただきました。
聖武天皇(しょうむてんのう)は、日本の第45代天皇(在位:724年-―749年。文武天皇の第一皇子として生まれ、24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。ところが729年に長屋王の変が起きた。この変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、740年には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約5年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられていて彷徨五年と呼ばれている。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。
752年、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会っている。
ウィキペディアより
彷徨五年、徘徊癖は聖武天皇のようでした。富田浜に、現在でも碑は残っているのでしょうか?調べてみる必要がありそうです。さて、時代はさかのぼります。天武天皇登場、壬申の乱でゴザイマス。
第38代 天智天皇(中大兄皇子)・第39代 弘文天皇(大友皇子)・第40代 天武天皇(大海人皇子)・第41代 持統天皇(天武天皇后)・第42代 文武天皇・第43代 元明天皇(草壁皇子妃)・第44代 元生天皇・第45代 聖武天皇
追記:取り急ぎのブログでございましたので、お見苦しいページになりました。心より陳謝いたします。当時は、天皇即位の争いが盛んで、おっかやんや娘が登場したり殺し合いをしたりと、大変な時代でございました。面白いのは、そこにバックがいて、お尻をつついたり、娘を嫁がせたりと、マ、天皇家には間違っても生まれなくてよかったと、安心の日々でございます。ヒガミ???
富田浜海岸(ガイドマップの上、中央)に『聖武天皇御旧跡』とあり、
シャワーの上にも聖武天皇が立っていた。
そして、垂坂山の山頂にも『天武天皇神宮御遥拝所』の碑が立っていた写真がある。
富田の思い出の写真より“垂坂山”
出かけたときは、残念ながら見つけることができなかった。
Webで調べると大矢知にあった。後ろに小高い山はあるが、なんでもない場所である。ただここの地名が“斎宮”と訳有り地名である。
県指定記念物 史跡 天武天皇迹太川御遥拝所跡(てんむてんのうとおがわごようはいしょあと) 昭和16年5月21日指定
壬申の年(672年)、奈良県吉野に隠棲していた大海人皇子(おおあまのみこ・ 後の天武天皇)は、近江朝廷と皇位の継承をめぐって、兵をあげました。世にいう壬申の乱です。
吉野から名張、鈴鹿、伊勢へと進んできた大海人皇子は、朝明郡迹太川(あさけぐんとおがわ)の近辺で、伊勢神宮を遥拝し、戦勝を祈ったということが「日本書紀」に記されています。
この地が遥拝所の推定地として指定されたのは、「天武天皇のろしの松」と伝承されている老松があったことによります。
樹齢500年を超えたこの松は、今も指定地のシンボルとして市民に親しまれています。 平成11年3月31日 四日市教育委員会
ところが、平成20年にはこう書き換えられていました。
付記:「のろしの松」は、平成14年に枯死したので、管理者の大矢知斎宮自治会が、平成18年に槙を植樹されました。
平成20年3月31日 四日市教育委員会
垂坂山の碑を移設したわけでもなさそうだ。文字が違う。見つけられなかっただけだろうか。
天武天皇さんは、富田浜、垂坂山、大矢知とかなり徘徊されたご様子だ。
訂正!:後期高齢に成り上がったせいか、聖武天皇さんと天武天皇さんが、ごちゃごちゃになってしまいました。徘徊呼ばわりされた天武天皇様、ならびに、誤解を招きかねない状況になった、後期高齢者を含む、御厚意を頂いている皆様には、深く陳謝申し上げます(舌)。ところで、下総人さんからもコメントいただきましたが、ヤマトタケル氏も四日市を通過いたしております。またまた、宿題が増えました!
合成写真でございます
現在の垂坂山の山頂は、昔の面影はなく、木々が生い茂り下界を見渡すことはできない。坂道を上り詰めた南側に墓碑が立っていた。
垂坂山古戦場の史跡
一、北畠系譜によると南北朝の頃、文中元年(1372年)北畠の重臣大宮親子入道が二千騎を率いて同山に陣取った。
一方、足利派の伊賀、伊勢の守護仁木義長 富田の豪族南部左京亮頼勝は。五百騎でこの山に攻め上ったが、大宮父子入道の戦略にかかり囲まれて谷底に追い落とされ さんざんに打ちのめされ全滅した。
一、また、戦国時代織田信長が伊勢を攻めた時付近の女子供農民たちが同山上にあった寺院に逃れたが滝川一益らのために焼き討ちされて多くの死者を出したという。 昭和33年4月20日
ここから北方面、四日市を含む北伊勢地域は、古代より発達をみ、遺跡等も多く発掘されて歴史の様々な舞台となった地域である。
四日市学講座③“戦国時代の北伊勢”へ つづく
垂坂山山頂にて
富田地区 懐かしの写真集より
※ この写真が、遥拝の碑が立つ糠塚山なのか垂坂山古戦場跡なのか、分からない。