花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

GoTo商店街 コロナ退散編に向けて

2020年12月15日 | おいらの商店街

旧東海道筋に位置する“表参道スワマエ商店街”の歴史は古く、明治時代にさかのぼります。スワマエ、じつは東海道の43番目の宿場である四日市宿の外。つまり南のはずれであり、職人が物づくりを続けながら商いをする静かな通りでした。

昭和30年代初めのスワマエ通り

 戦後、街の再構築化とともに高度成長期に乗り、中心市街地からはややずれていたものの、駅と繁華街を結ぶ通りとして、いつもたくさんのお客様で賑わっていました。

昭和20年代後半のスワマエ通り

 ところがモータリゼーションと大型店の進出により、商店街通りは静かになっていきます。そして、2010年2月になって始まったコロナ禍でますます人の流れは少なくなってしまいました。

 今、商売を続けている店舗は、20年前には40店舗以上でしたが、現在は22店舗となっています。店主の高齢化、店舗の老朽化、来店手段が悪い等、衰退の原因を挙げればきりがありません。実入りの少ない商売を次世代に譲る自信がなかったからでしょう

しかし、私たちは知っています。どうして今まで営業を続けてこられたかを。よりお店を知ってもらい、愛着を持っていただき、お客様との対話を大切にしながら、お客様の立場にたった商品を提供していけば、必ず存続の道は明るいものになることを信じています。

私たちは今回のコロナ禍を、チャンスととらえています。各店舗が、密を避けながら、マスク、消毒等の対策はもちろんですが、GoTo商店街を活用して、商店街の成り立ちを紹介し、各店舗に親しみを持っていただけるような“動画”を配信出来れば、必ずお客様は来店していただけます。地元のメディアとして定着している“四日市CTY”での放送、並びにフェイスブック、ブログ、ツイッター等のあらゆる配信手段を使って動画の広報に努めます。動画が面白くなければ、役に立たなければ、感動しなければ、二度と見ていただけません。そこでインパクトのある動画を作成。題を“花の四日市 スワマエ商店街 新型コロナ退散編”として、2部構成で公開します。

第1部は“スワマエ通りの歴史編”で、冒頭、巨大な機関車が、スワマエ通りの諏訪神社方向から汽笛を鳴らして爆走してきます。これは静止画面をつなげて機関車の接近を音響とともに表現。続いて、通り中央を横切る動画を挟んで、南方向へ静止画を重ねて去って行くシーンを作ります。静かになった通りをゆっくりと映します。ここで音声と画像で解説が入ります。

商店街の紹介の後、第2部は“個店紹介”です。約1分間の動画でお店の強みや一押し商品を紹介します。店主は妖怪のコスチュームで登場し、コロナ退散を念じます。念じ方は様々。念仏を唱える、タップダンスを踊る、口パクで歌をうたう、黙ってひたすら仕事をする、フラメンコを踊る、ラジオ体操をする、上を向いて早口言葉を叫ぶ、一回りして自分の名前を繰り返す、空中を浮遊しながら“おいで おいで”をする等、各々が愛嬌のあるしぐさで“コロナ退散”“来店ウエルカム”を発信します。

後日、「動画、面白かったよ!」と言って来店されたお客様には粗品を進呈します。粗品は、諏訪神社でご祈祷済みのコロナ退散のお札と植物の種で、環境にやさしく手渡すときに話題が生まれるような品であればと思います。

GoTo商店街をチャンスととらえ、商店街のメンバーが笑いで団結できるように頑張ってまいります。


「新しき土」最終回

2020年12月11日 | レモン色の町

昭和4年に始まった世界恐慌は日本の社会にも深刻な影響を与えていました。昭和5年、柳条湖事件に端を発した満州事変で軍部の力は増大し、日本は大陸進出へと向かいます。昭和7年、リットン調査団は日本軍の満州からの撤退を勧告、これを不服として国際連盟から脱退します。かくして日本は孤立の度を深めていくのです。昭和9年、溥儀を皇帝に立てた満州国が誕生。昭和11年には二・二六事件が起こります。そして11月、軍の革新派と、外務省の新ナチス・反英米革新グループ主導により日独防共協定が締結されるのです。

昭和12年になると日本の軍需景気は軌道に乗り、経済的にも明るさが見え始めました。そして、近衛文麿内閣が誕生すると軍の政治介入は排除され、国民はつかの間の希望が持てるようになりました。『新しい土』はこのような時代背景に完成した作品です。

ドイツに留学していたエリート青年輝雄は、恋人であり記者でもあるゲルダを引きつれて日本に帰国する。しかし、輝雄には許婚の光子がいた。光子や義父である巌は彼を暖かく迎えるが、西洋文明に浸った輝雄は光子に愛情を向けるどころか、許婚を古い慣習として婚約を解消しようとする。そうした輝雄の姿勢を非難するゲルダ。絶望した光子は、花嫁衣装を手に浅間山に身を投げようとするが、輝雄の必死の捜索で助けられる。

こうして、二人は開拓団として満州での新しい生活を始める。(ウィキペディアより)


「新しき土」②

2020年12月09日 | レモン色の町

昭和十二年三月十日夜,東京駅の東海道下りホームは,おびただしい数の群衆でうずまっていた。大群衆のお目当ては十六歳の新進女優だった。その少女の名前は原節子。

この日,原はスターへの道を約束してくれた主演映画『新しき土』のドイツ・プレミアに出席すべく,東京駅を出発することになっていたのである。目的地はドイツの首都ベルリン。 汽船,満鉄,シベリア鉄道を乗り継いでユーラシア大陸を横断するには二週間あまりを要する。旅行者にとっては難儀な行程であるが,それをみずから経験することのかなわぬ群集にとっては,想像力を刺激する大旅行であった。見送りの歓声は夢の世界に繋がっていた。

映画「美しき土」は、日本の山々の美しい景色が映されている。

一方で、東京市街を阪神電車が走っていたり、夜景のシーンは東京と大阪の夜景が混ざっていたり、

日出子(ドイツ帰りの男の妹)の勤め先が大阪の大阪紡績(現・東洋紡)だったり、

光子の家の裏が厳島神社であるなど、

地理感覚に乏しいシーンも多い。

なお、現在は廃線となった愛宕山鉄道が映っており貴重な記録となっている。(ウィキぺディアより)

「新しき土」は、ドイツ人から見た昭和12年の風景が映し出されていて貴重であります。

 


『新しき土』①

2020年12月08日 | レモン色の町

満州を走ったあじあ号。狭い日本から脱出して大陸への進出を促す。

某氏からお借りしたDVD。すごい映画が残されていた。「新しき土」は、1937年(昭和12年)公開の日独合作映画だ。初主演である16才の原節子がウリという触れ込みだが、満州事変(昭和6年)以後の、国際連盟を脱退(昭和8年)、日独防共協定を締結し(昭和11年)大陸進出へ向かう日本の世相が、ドイツ人からの観光目線で描かれている。

海外留学から帰国した青年を主人公に、彼と対立する家族や許嫁の葛藤、彼らを包む日本の地理や文化を、ドイツ人であるゲルダ・シュトルムの視点から描いた作品である。

8年ぶりに日本へ帰る船内。日本とナチスの旗が並んでいる。

“新しき土”とは満州のことを指しており、唐突なラストシーンも日本の満州進出を喧伝するものになっている。一方でこの映画の製作背景には、日本とドイツの政治的・軍事的接近の目論見があった。ナチス党の人種主義では有色人種を良く思っていなかったため、ドイツ側は日本のイメージを持ち上げることで同盟の正当性を主張しようとしたのである。1936年2月8日の撮影隊の訪日には日独軍事協定締結交渉の秘密使命を戴したフリードリヒ・ハックが同行、同年11月25日に日独防共協定が締結に至った。 (ウィキぺディアより)

映画が日独防共協定締結に一役買っていたのだ。ただし、内容はいたって陳腐。殆どが日本の観光映画で、最後は噴火する山(富士山か?浅間山を設定?)を彷徨するシーンが延々と続く。しかし、昭和12年の日本は、空気が澄み渡り自然は美しかったのかと驚かされる。観光風景を探して、監督は日本全国を歩き回ったのか、名所旧跡は大阪の阪神電車、鎌倉の大仏、広島の厳島神社、静岡の富士山と三保の松原等、転々としている。

船内の機関室を見るドイツ人女性

日本人男性は独逸を持ち上げる

戦前がすべて否定されている現代日本に、こんな作品が残されていたことに驚く。

 


我が愛しの映画館㉕シネマとグランド

2020年12月06日 | レモン色の町

近鉄名古屋営業所(所長 吉田龍作)は、諏訪駅の大拡張によって、駅前一等地を最大限に活用して二館を建設、大映系の「四日市グランド」と洋画の「四日市シネマ」を32年9月23日に開館した(近鉄四日市駅の完成が昭和31年9月だから、即着工したと思われる)。他館より優れた冷暖房設備、高さ26尺、幅50尺の大スクリーン、大きさは県下一。二館とも700人を収容する大劇場、設備も近鉄経営だけにりっぱなモデル劇場であった。グランドでは実演も公開、新しい魅力に誘われて諏訪劇場のお株を奪った。久保仁著「ローカル映画館史」より

樹林舎刊「四日市の今昔」より

昭和53年の近鉄四日市駅前

小学校3年生の頃に開館した四日市シネマとグランド。昭和32年9月から、ベガ・スピカ・リゲルに譲る昭和59年7月まで、私の青春時代とちょうど重なる時でした。昭和34年、町内のおもちゃ屋さんが劇場を借り切って“双頭の殺人鬼”を無料で公開したことがあります。こわかった!

 

大映大作“釈迦”。“ベンハー”は中学校から行きました。007シリーズ。浜美枝出演の“サンダーボール作戦”は劇場内が満席で、スクリーンの真横で鑑賞した記憶があります。

“大魔神”、“座頭市シリーズ”“男はつらいよシリーズ”“トラック野郎シリーズ”、“仁義なき戦いシリーズ”。“人間の条件”は約9時間の6部作一挙公開でした。四日市松竹が無くなったので、松竹系の作品も四日市グランドで上映されたのでした。

高校時代は電車で通っていました。シネマとグランドの間のうどんの“角源”さんから噴き出す湯気の間を通勤していました。映画の看板を気にしながら・・・。

 


我が愛しの映画館㉔日活&宝塚劇場

2020年12月05日 | レモン色の町

終戦直後の昭和22年、新田町に800人収容の「ラジオ劇場」が出来た。当時は実演劇場だったが、昭和31年「四日市日活劇場」となり、日活映画専門の上映館として営業が続けられた。写真は、昭和32年の日活劇場。月岡夢路の“白夜の妖女”が次週封切りとなっている。石原裕次郎らが活躍する青春路線以前である。

やがて映画産業も下降路線をたどり、日活は昭和46年11月ロマンポルノ路線を打ち出す。その後、昭和56年11月、諏訪栄の大鯛ビルに移転。昭和63年7月「ロッポニカ・四日市」に改称された。現在もポルノ映画を上映しており、全国でも“ロッポニカ”と名の付く劇場が残っていることは、珍しいのではなかろうか。

昭和30年代、日活の西側に松竹直営の「四日市松竹劇場」が建つが、昭和41年、三重劇場のスタッフによる経営に変わり洋画専門の「四日市宝塚劇場」に改名、昭和61年8月31日、「ローマの休日」と「陽の当たる場所」の上映で別れを告げた。昭和37年の四日市松竹。リメイクされた“愛染かつら”を上映中だ。

上の写真は、昭和61年、閉館を迎えた宝塚劇場。

・日活の前、宝塚との間は雨があたらない様に屋根があった。だからいつも暗く屋内といった感じがした。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」等の青春アクション映画を上映、心酔していた兄がよく出かけていた。昭和30年5月封切りの「緑はるかに」は浅丘ルリ子のデビュー作、カラー作品。姉と観に行った記憶があるのはテーマ曲を覚えているからだ(緑はるかな、地底の朝よ~)。14才の浅丘ルリ子が洞窟から空を眺めたシーンだけが記憶にある。ところが出かけた劇場は三重劇のような気がしてならない。日活の直営館になったのが昭和31年。「緑はるかに」はその前年公開だからその可能性もあるか。

  •  昭和38年、宝塚劇場でアーサー・ペン監督、パディ・デユークの“奇跡の人”の試写会に出かけた。昭和30年代“四日市日活”と“四日市松竹劇場”は、地主である相葉岩松氏が建てる。40年松竹が撤退。中部興業(東宝系)に移り、41年、三重劇場のスタッフに変わる。ということは松竹の間に試写会が行われたことになる。

我が愛しの映画館㉓幻のパール劇場

2020年12月04日 | レモン色の町

再掲載で申し訳ありません。少し昔の話になります。平成29年3月23日“男の囲炉裏端の会”でお世話になり、映画館跡巡りに参加させていただきました。このとき話題になったのが“パール劇場”でした。

昭和61年12月24日、元新町に『パールシネマ』と『プラザシネマ』が開館した。伊勢市のパール劇場のオーナーで志摩半島出身の松井克己の経営による。ひとつの建物に複数の劇場を収容するシネコン形式(二館とも椅子席100)パールは「アナザー・カントリー」。プラザは成人映画でスタートしたが、63年6月15日、わずか2年半の短期間であっさり廃館してしまった。

久保 仁著“ローカル映画館史”より

この本だけが頼りとなっている。平成29年の“懐かしの映画館巡り”で、元新町のパール劇場跡前(現在は、ライオンズマンション元新町 竣工平成2年)に立った時、議論百出した。(少し大げさか?)まさに2年少しの寿命であったため、「本当にあったのか?」「もっと以前ではなかったのか?」等の意見が出た。明治の頃、このあたりは職人町で、製材所跡に映画館が建った。昭和61年晦日、“アナザー・カントリー”が上映されたとある。この映画は1984年のアメリカ映画で日本公開は1985年(昭和60年)8月1日とあった。地方上映だから少し遅れて、公開のタイミングは合っている。

そして63年閉館。速やかにマンション建設に取り掛かって、平成2年にマンションが竣工となった。今や幻の“四日市パール劇場”である。


映画“黒い司法”

2020年12月01日 | 映画の名言、映画の迷言

映画“黒い司法”は、黒人への偏見が根強いアラバマ州で、差別意識と闘った一黒人弁護士の事実に基づいた作品である。

ウォルター

近場でリンチ事件も数多く起きたが

今では誰も語らない

 

そんな町で 北部の黒人の若造が

黒人の冤罪を晴らそうと戦っているとはな

彼を連れ戻すと約束したのに

状況を悪化させた

 

ジェイミー

依頼人と親しくなるのはよくないと聞いていた

距離を保てと

でもあなたはまるで違う

一人ひとりに近づいて

家族のように愛するわ

家族が傷つけば一緒に傷つく

あなたの葛藤は私の想像を超えている

でもあなたはもうこの町の大切な人よ

証言を逆転させたのは 青年弁護士の誠意が通じたからか

事実の持つ重み 素晴らしい逆転判決でした