花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

そうだ 京都へ行こう!

2012年09月30日 | 諏訪商店街振興組合のこと
9月27日木曜日、恒例の組合バス旅行が行われました。
行先は、京都。月桂冠大倉記念館。
     
     
その後一気に京都を北上。山中の高雄、もみじ家で川床料理をいただきました。
吊り橋からもみじ家が望めます
     
     激写を忘れてイタ!
その後、映画のロケ地として有名な大覚寺を訪問。
     
     
錦市場や京極商店街を散策して帰りました。
     
お天気に恵まれた初秋の京都を満喫させていただきました。
楽しかったデス!
第一観光の坂様をはじめ皆様には大変お世話になりました。
ありがとうございました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の魂のふるさとの物語

2012年09月29日 | 諏訪商店街振興組合のこと
“青い山脈”続編の感想をYさんからいただきました。Yさんは亀山からお越しいただいています
     
教頭、体育教師、そうした権力者に対して男女交際の自由を主張することは、当時としては大変勇気の必要なことだったと思う。
これは現在においても、私達は本当に権力者に対して記憶し、抗議し、生き延びることの大切さを思う。
事例として原子力発電がある。国、御用学者、電力会社など原子力村の解体をし、放射能廃棄物・原発の0化をし、地球環境の保全と、内部被ばくによる生命の危機を減らすことを、次世代に引き継ぐことが、私たちの責任だと思う。
一部の人間のためだけでなく国民全体のために政治が必要で、そのような政治家を選びたいと思った。
今後の映画を楽しみにしています。

国の内外にたくさんの問題を抱えて、近いうちに国政選挙が行われます。その時は、国民の立場に立った政治家を選びたいと思っています。Yさんありがとうございました。
     
9月28日、第4回文化の駅サテライトステーション事業“おとうと”を上映させていただきました。
会場は満席。わざわざお越しいただく皆様のおかげと、心から御礼申し上げます。
     
Mさんの感想です。
“おとうと”を始めて観させていただきました。
さすが市川崑監督。中身の濃い作品と感動いたしました。名声に違わず改めて尊敬です。
教養の低いわたくしめ、とても勉強になり感謝で一杯です。今後も内容のセリフ、対話を重視し、余韻を味わせていただきます。
有難うございました。

     
キネマ旬報社発行のシネアストに“おとうとの記録”として市川崑監督が語っています。
「家」というものは父性愛、母性愛、夫婦愛、姉弟愛といったもので成り立っているといわれていますが、どんなに愛し合っていても人間は孤独です。
孤独を前提として、いたわりあって暮らしているから、その愛情が美しいのだと思います。そして、若い魂の悩み方や飛躍のしかたは、状況の違いこそあっても、今も昔も変わりありません。
この映画は人間の魂のふるさとの物語です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火災で焼失した映画館

2012年09月26日 | レモン色の町
火災にあった映画館に「塩浜劇場」がある。建て方が“四日市劇場“に似ている。
     
塩浜劇場は、昭和38年2月16日午後6時過ぎ日活「キューポラのある町」を上映中、暖房ボイラー付近から出火。観客300人は無事だった。当時は盛況だったんだ!
私は塩浜劇場には入ったことがない。火事にあった後もポルノ系の3本立て映画を上映していたと記憶している。
昭和30年代、塩浜には「近畿劇場」と「塩浜劇場」があった。「近畿劇場」は近畿東映と改名したが40年代になってパチンコ屋になった。とある。
塩浜駅周辺に映画館が二館もあったとは驚きである。コンビナートを背景に繁華な町であったことが偲ばれる。
     
繁華な町と言えば、陣屋があった四日市宿中心の辻から東、四日市港へ向かう通りが賑わっていた。
大正初期の四日市の繁華街と言えば竪町・中町通りの「中町銀座」の商店街と、新町の「盛り場通り」であった。ここに映画館が生まれたのは当然のことであろう。
明治40年頃あった中町の「旭座」(おそらく演芸中心)は大正4年5月1日「世界館」という常設映画館となった。
新町の「湊座」は、大正3年4月9日新築落慶して関西歌舞伎の一座が上演している。新町周辺は“湊小路”と呼ばれる市内第一の歓楽街となり、映画の普及とともに、繁栄してきた。
「湊座」は。昭和17年東宝直営館の「四日市東宝劇場」となり、戦災で焼失するも再建、昭和38年10月の閉館を迎えるまで東宝系映画を上映していた。

私は「四日市東宝劇場」の存在を全く知らなかった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“よつげき”は幸町にあった

2012年09月24日 | レモン色の町
四日市劇場は幸町にあったか?の疑問は、大正時代(訂正 昭和15年)の地図から解決できそうだ。
     
下にあるのが国鉄四日市駅、線路は上(西)に伸びて3本の線路に分かれる手前の丸印が諏訪駅、旧東海道沿いにあった。
線路に沿って左(南側)の線が拡張以前の中央通り。中央通りと線路の間に小さく“幸町”とある。
その上に市役所があるから、四日市劇場はもう少し下(東)に建っていた。
中央通りが広く整備されるまでは、このあたり一帯が“幸町”だった。
昭和6年、幸町に「泗水キネマ」が開館した。
昭和8年、名前を「帝国館」に変えるが経営不振となり、
昭和11年名古屋の水野栄三郎に経営者が変わるが、所有者と経営者の間でトラブルが起き休館。
昭和16年7月に、所有者が変わり(経営者が勝利!)「四日市映画劇場」と改称、県下一の設備という宣伝での再出発となり、振興キネマ作品の「大都会」「葉隠大名」で開場した。
空襲で全焼、翌々年には改装オープンをしている。

私も、小学生の頃“よつげき”へ友達と出かけた。(かまぼこを置いたような建物だった)
“よつげき”は東映の二流館で3本立て。いつも労務者風の人で一杯、トイレの臭いと煙草の煙が館内を充満していた。休憩となり館内明るくなると、空席を探す人が通路を走る。その間を、アイスクリームの売り子さんや、煙草の吸い殻を拾う人が行き交った。
3本立てで1本約90分とすると、朝10時ころの開始は2本目から始まり、昼過ぎに1本目。昼の部が17時ころ終わり、夜の部の終了は21時30分ころだったと思う。
子供たちは席に着けそうもないので、場内の周りを囲む通路の手すりに腰をかけて観た。
仁木悦子原作の「猫は知っていた」(1958年映画化)を友達と観ていたら、怖くなって帰ろうということになり、残念な思いをした記憶がある。
この映画は大映作品だから、東映に限ってなかったようだ。
敷地の奥まった処に建物があり、両側は駐輪場になっていた。
昭和42年5月19日火事で全焼。この時が閉館となったようだ。
現在、劇場跡地は駐車場になっていて当時の広さが想像される。
栄町にある劇場跡地。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローカル映画館史

2012年09月22日 | 諏訪商店街振興組合のこと
第10回 三重映画フェスティバルが、文化会館 開館30周年記念として10月20日(土)開催される。
その準備として実行委員会の中村さんと林さんが当店に訪れたのは10日ほど前になるでしょうか?
昭和30年以降の四日市市内にあった映画館を知りたい、それを当日ロビーに掲示して、皆さんの映画館に対する思い出を自由に書いていただこうという企画でした。
ネットで調べると、昭和32年にあった市内の映画館は、
東映の諏訪劇場・3本立ての四日市劇場・東宝の弥生館・洋画の三重劇場・新東宝で成人向きのぼたん劇場・新町にあった四日市東宝劇場・呉服町を入った処の四日市日活劇場・洋画二流館のロマン座・後の塩浜劇場である近畿劇場・宝塚劇場の前身である四日市松映・松原町にあったパラダイス劇場・富田東映・富田劇場
とあった。
林さんが置いていかれた宿題は、各映画館の開館時と閉館時。
嫌と言えない性格上、記憶を辿ればなんとかなるかと引き受けた。
以前に弥生館の経営者だった玉置さんは、今でも映画館跡の漫画喫茶 裏に居を構えてみえる。営業期間がわかるかとお邪魔したが御留守だった。
途方に暮れ、この件はお断りしようかと思いつつ帰り道にふと思い出した。
      フルハウス
諏訪新道にあるフルハウスの経営者・藤井君は、父親が映画館の売店への菓子類卸を一手に引き受けていた関係上映画館のことは結構詳しかったはずだ。
尋ねると、県内の映画館の隆盛を記した面白い本がある。劇場関係者にのみ限られて頒布されたらしいとのことだった

著者の故 久保仁さんは、新聞記者を経て映画界に入った。戦前戦後の映画業界の興亡を目の当たりに見てこられた方だ。
三重県興行環境衛同業組合発行“ローカル映画館史は”三重県内の映画館の歴史を網羅している貴重本だ。
昭和18年から20年にかけての空襲で焼失したのは、
中町の世界館・南町の弥生館・幸町の四日市映画劇場(前 帝国座)・新町の四日市東宝劇場であって、
空襲を免れたのは、富田一色のツバサ劇場(前 豊富劇場)・富田町の衆楽館と富田劇場だった。

ここでフルハウスにみえたお客さんからこんな疑問があがった。
「四日市劇場、通称“四つ劇”又は“かまぼこ劇場”は幸町ではない、なぜなら、私が生まれ育ったのが幸町だから」と・・・

おことわり
ナニブンニモ 若い私の書くこと 訂正があればコメントにてご指摘ください
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和菓子とわたし

2012年09月19日 | おいらの商店街
今年5月、表参道スワマエを舞台に“お菓子フェスタ”が開催されました。
予想以上の好評を得、ご尽力いただいた石崎先生はじめ四日市商工会議所の坂下さん、水谷さん、そのほか大勢の関係者の皆さまには、商店街としましても感謝の気持ちでいっぱいです。
第2回お菓子フェスタは、平成25年5月を予定しています。第1回の実績を持つ第2回はタウン誌(フリーマガジン)のお力を借りての開催が有効であると考えられます。
     
そんな中、三重の女性情報誌“freek”9月号に「和菓子とわたし」と題して特集が組まれていました。
“丸井屋老舗”さんは、創業嘉永年間、150年の歴史を持つ老舗で、滋賀 近江八幡から四日市・富田浜を結ぶ八風街道沿いの大矢知町にお店を構えてみえます。
ご主人の加藤陽太郎さんは
「日本には四季があり、二十四節季・七十二候がある。それぞれの四季や風情の移り変わりによって、デザイン・素材も代わっていきます。そういった日本文化や四季と密接不可分な関係にあることが和菓子の一番の魅力」と、話してみえます。
     
上段左から“よわい草”“尾花”“初もみじ”“竜田川”“鹿の子餅”“初雁”
下の段左から“初雁”“宮城野”“深山の紅葉”“萩の露”“栗きんとん”
「和とは人と人とを結ぶという意味もあります。甘いものを食べて怖い顔をする人はいません。人と人との間に和菓子があり、人と人との心を結ぶ。それこそが和菓子の効果なのです」
歴史ある和菓子の奥は深いデス。
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スマイル アゲイン

2012年09月18日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
先日、九州へ出かけたおり「ゆふいんの森号」車内でいただいたハガキがでてきました。


博多から由布院を経由して別府まで走るこの列車は、北九州豪雨の為1ヶ月半不通でした。
そして、8月28日開通の日を迎えました。

車内で乗客一人づつに配られた葉書には、ひまわりの種が添付されており、1枚1枚に丁寧な手書きで異なる文面が書かれていました。
皆さまと ゆふいんの森の再開を 共にお祝いできて 大変うれしいです。ありがとうございます
庭に咲くひまわりを見るたびに、車窓から眺めたひまわりの花を思い出す。
心憎い演出でアリマス
思い出しましたが、昨夜NHKで“時手紙”のことが放送されていました。蒲郡の竹島へ渡る橋のところに蒲郡文学館が出来てるんですね。そこで1000円を出して10年後の自分に手紙を書きます。開封を望まない人もいれば、再び文学館を訪れる人も居る。不在で帰ってくる手紙もある。10年の年月から人生を感じます。
手紙を書く静かな環境が必要ですが、これもお金のかからない良い演出と思います。(時間の責任は生じます)
ちいさな感動の集まりが、楽しい旅の思い出を作ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤猫異聞

2012年09月17日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
浅田次郎著“赤猫異聞”新潮社

時代は明治元年。師走に起きた江戸の火事(赤猫)で、伝馬町牢屋敷の囚人たちは「解き放ち」となる。約束の日時までに戻れば罪一等を減じ、一人でも戻らないと全員死罪の約束で三人の罪人 信州無宿繫松、岩瀬七之丞、白魚のお仙は意趣返し(復讐)の為に闇を走る。
浅田節絶好調!人の語り口を通して江戸大火の日がよみがえる。そして最後は泣かせる。
しかし、殺さなければ許せないほどの悪人っているのだろうか?
この話のテーマのひとつは、神仏のあり方だと思う。○○は吐露する
 私も遅ればせながら人の親になりやした。
新学制のおかげで小学校に通っている倅と、その下に娘が二人ござんす。
血の通ったおとっつぁさんになって初めてわかったんですが、
親は子供に何かしてくれなんて、思やしません。
何をしてやれるんだろうかって、そればっかり考えます。
神さん仏さんの本音も、同じでござんしょう。
できることなら何でもしてやりてえんだが、苦労させなきゃなりやせん。
手取り足とり育てて、ぼんくらにしちまったんじゃぁかわいそうだ。
 だから、泣かれても知らん顔をしたり、ときには怒鳴りつけたり、尻を叩(はた)いたりもいたしやす。
そうして、まっつぐに、真正直に育って、どうにもこうにもならなくなったときには、手を貸しやす。
 神さん仏さんは、そうして下すった。だから私も、子供らはそう育てます。

そして最後の語り部、曹洞宗のとある僧は・・・
 艱難(かんなん)に際して神仏を恃(たの)むは、けだし人情であります。
そして人はあらたか、神も仏もないものだと嘆きまする。
 しかるに、神仏はなまじの艱難に御手を差し延ぶるほど甘くはありませぬ。
なぜなら、艱難こそが人を強くするのだと、神仏はご存じだからであります。
なまじの艱難ではのうて、まこと如何ともし難き艱難、しかも人の力をふりしぼったのちでなければ、神仏の顕現はありませぬ。

人情を絡めながら、神仏のありようを、まことにうまく書いております。
このことを話した友人から「浅田次郎の“天切り松 闇がたり”シリーズ読んだ?」との返事がありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“男はつらいよ”はタイムリー

2012年09月16日 | 諏訪商店街振興組合のこと
10月26日上映の第4回文化の駅サテライトステーション事業は、山田洋次監督昭和44年8月公開の“男はつらいよ”です。
先日、109シネマズで“山田洋次監督50周年”のチラシを見かけました。記念事業として京都南座にて山田監督全作品を上映中です。今回の上映会はタイムリーであったと喜んでいます。

昭和43年から44年にかけて、フジテレビが製作したテレビドラマ“男はつらいよ”では、寅次郎が奄美大島へハブを取りに行き噛まれて死んでしまい、これに対して視聴者からは抗議が殺到、当時テレビの地位は低く映画化への難色を示す松竹を山田監督らが会社を説得しての映画化となりました。まさかこのときには48作まで続くとは思いもよらなかったでしょう。
第1回は妹さくら(倍賞千恵子)の結婚と、御前様(笠智 衆)の娘である冬子(光本幸子)への片思いがテーマです。(冬子は第46作“寅次郎の縁談”で再登場)
ダメな寅次郎に向かって「ばかだねぇ」とあきれる、おいちゃん役の森川信。(第6作まで出演)、さくらとの結婚をなかなか言い出せない博(前田吟)、おばちゃん役の三崎千恵子、タコ社長の太宰久雄、寅次郎を兄貴として慕う津坂匡章、源公役の佐藤蛾次郎とおなじみの顔が並びます。
そして特別出演として、博の結婚式に出席する父親役に志村 喬が演じています。
     
     
     
さくらの結婚でテレビドラマからの再スタートとなった記念すべき第1作“男はつらいよ”にご期待ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通販の未来

2012年09月14日 | 諏訪商店街振興組合のこと
中日新聞“紙つぶて”より、通販社長のハリー・A・ヒル氏が“通販の未来”と題してこう書いています。
     
どれだけ通販での買い物が主流になったとしても、今後はリアルな店舗はなくならないと思います。
なぜなら店舗には時間を使って足を運びたいと思わせる質の高い商品、満足のいくサービスなど付加価値が存在しているからです。
お客様は、いつの時代でも信頼のできるサービスを求めています。

そして、通販ならではの付加価値を築き上げたいと結んでいます。
商店街は個々のお店が努力をして、時間をかけて足を運びたいと思っていただける質の高い商品とサービスを目指さなければ、生き残ることはできないでしょう。
勝ち目はないと、自分の人生あきらめるか、出来る限りの、納得のいく努力をするか、どちらかですナ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする