ゆるキャラグランプリ2015 こ入道くん奮闘中 ただいま50位 急上昇中でアリマス
28日は49位!
韓国と北朝鮮は、昔からにらみ合っている。以前、釜山のタクシー運転手から聞かされた話を思い出しました。
幻に終わった日本分割占領計画 歴史ミステリー研究会編 終戦直後の日本より
第2次世界大戦が終了すると、資本主義のアメリカ合衆国と社会主義のソビエト連邦が睨み合いを始めた。東西冷戦である。この対立はドイツ、ベトナム、朝鮮半島でも展開された。そして日本でも同じ境遇に立たされていた。
釜山のタクシー運転手は「日本が分断される代わりに、朝鮮半島が分断された」様な事を話していたが、そうでもないらしい。
実は戦後の日本占領については、アメリカのルーズベルトとソ連のスターリン、イギリスのチャーチルとの間で、日本分割占領の密約が交わされていた。
実は、終戦までにアメリカ内部でこの話は進められていた。北海道と東北地方はソ連(U.S.S.R)。関東と中部地方はアメリカ(U.S.)。東京はアメリカとソ連・イギリス・中国の共同管理。関西地方はアメリカと中国。四国は中国(CHINA)。九州はイギリスの統治。と決められていたそうだ。実行されれば、収集できない分裂状態である。
だがこの案は廃案になった。理由ははっきりしない。
アメリカが核爆弾の実用化に成功して主導権を握ったからか、ルーズベルトの急死で対ソ外交政策が変わったからか、とにかく日本の分裂は見送られた。
アメリカの机上の話だったのかもしれません。
8月21日、小津安二郎監督“小早川家の秋”を鑑賞いたしました。
Tさんの感想です。
今回の「小早川家の秋」は前回の「浮草」同様、関西歌舞伎の大御所 中村雁次郎を主役に迎えた作品で、ヤンチャ親父振りが存分に発揮されていましたね。共演の原節子はこの時すでに41歳。地味な和服(縞や格子柄の紬など)姿で通し、控えめの演技ですっかり後ろに引いています。
それと入れ替わるように司葉子や新珠三千代が生き生きと演じていました。新珠美千代は少し影のある芯の強い女性を演じては定評のあった女優で、TVに進出した「細腕繁盛記」では大ブレークしましたね。コメディアン東京ぼん太(唐草模様のスーツ)は彼女の熱烈なファンでした。原節子と司葉子は小津作品での共演が多く(姉妹、母娘)私生活でもずーっと交流があり、司は原の入院先に訪問を許されているそうです。
作品中印象深かった場面は
① 京の町家の夏の設え・・・扇風機もクーラーも無い部屋でいかに涼しく過ごすかの工夫の数々
② 奈良 西大寺近くにあった競輪場・・かつては多くの集客があったとか
③ 100円硬貨・・・司が原に1個つまんで渡す場面がありましたが、昭和35・36年にはすでに使用されていたんでしたか?余談ですが、私が昭和45年秋鹿児島に旅行した折タクシー運転手は100円札でおつりを出しました。
④ 大番頭(山茶花究)が事務員2人にソロバンを入れさせて・・・答え合わせで「同じです」と返事した女事務員にキチンと数字で言わせていたところで、この大番頭の真面目で忠義な人となりが表現されていました。
⑤ 火葬場の赤いレンガ造りの煙突から立ち上る白い煙・・・魂が煙に乗って昇っていくであろうと皆が思いを馳せる。さて、ストーリーテラーとして起用されていた笠智衆と望月優子の夫婦に「人は死んで また生まれる」と語らせ、苔むした墓石のあちこちで憩うカラスの姿のアップで終わらせた小津監督のメッセージとは・・・一生独身で通し昭和37年に最愛の母親を看取りその1年後、後を追うように亡くなった日、小津氏は満60歳の誕生日を迎えたのでしたね。
※100円硬貨の銀貨 鳳凰柄は昭和32年、銀貨 稲穂と分銅柄は昭和34年、そして現在使われている白銅貨 桜柄は昭和42年に発行されています。地方へ行き渡るのには時間がかかったのでしょうか。
小津安二郎 晩年の作品には、昭和34年“お早よう”・昭和34年“浮草”・昭和35年“秋日和”・昭和36年“小早川家(こはやがわけ)の秋”そして遺作となった昭和37年“秋刀魚の味”と続きます。
“小早川家の秋”は、宝塚東宝作品103分。東宝の豪華俳優陣が並びます。中村雁次郎、原 節子、司 陽子、新珠三千代、小林桂樹、島津雅彦、森繁久彌、浪花千栄子、団 令子、杉村春子、加東大介、東郷春子、白川由美、山茶花 究、笠 智衆、望月優子らが出演しています。
関西の地方都市にある没落しかかっているつくり酒屋。ここのご隠居(中村雁次郎)の道楽者ぶりを中心にして、家族の人々をペーソスも豊かな喜劇タッチで描いた作品です。
若いころから女道楽だった隠居は、老いて昔の妾(浪速千栄子)と再会し、卒中の病後でしっかり者の長女(新玉三千代)から厳しく見守られている身でありながら、その目を盗んでは家をぬけ出して会いにゆく。そして妾の家でひょっこり死んでしまいます。老人の死という深刻なテーマにもかかわらず、華やいだ気分があるのは喜劇の上手い俳優が揃っているせいでしょうか。
最後に、火葬場の煙突から出る煙を眺めて、農夫(笠 智衆)が「死んだのが若い人だったらかわいそうだけれど、死んでも 死んでも、あとからあとから、せんぐり せんぐり生まれてくるわ」と語ります。この“せんぐり せんぐり”は“彼岸花”(昭和33年)でも、京都の旅館の娘 山本富士子が口癖のように言っています。
“せんぐり”は“先繰り”と書き、老いた者は去り若い者が続き、また老いてゆき次世代が続くというくり返しの仏教で言う“輪廻転生”の世界感を表しています。小津監督は、死という深刻な問題を当然あることとして明るく捉え、その後、少し寂しさが漂うような(無常観)描き方をしています。
この作品の季節は夏。“小早川家の秋”の秋は、長男の未亡人小早川秋子(原節子)から取っているのでしょうか?京都を舞台に、小津監督が東宝(宝塚映画)に招かれて撮ったただ1本の作品です。
森繫久彌と加藤大介
造り酒屋、小早川家(こはやかわけ)万兵衛(中村雁次郎)の長男は、家督を継がず弁護士(阪大の教師でした)でしたが現在は他界しています。その妻の秋子(原節子)を狙って叔父の北川弥之助(加藤大介)は、磯村英一郎(森繁久彌)を紹介しますが・・・。
浪速千栄子のところを訪れた中村雁次郎
小早川万兵衛は、家人の眼を盗んで、せっせと佐々木つね(浪花千栄子)の処へ通います。
長女の新珠三千代
酒屋の長女(新珠三千代)には夫の久夫(小林桂樹)が居て店を切り盛りしています。番頭の山口信吉(山茶花究)は店員の丸山六太郎(藤木悠)に出かける万兵衛の後をつけさせます。
旦那の小林桂樹
山茶花究と藤木悠
型にはまった演技をさせる小津監督にとって、森繁と山茶花の個性派役者は つき合いにくい相手だったそうです。
“ゆるキャラグランプリ2015”が、8月17日から始まった。このところ“こにゅうどうくん”の動きが、かわいらしくてすごく良い。ふなっシーを追い抜く勢いであります?そこで、追い抜くためには“ゆるキャラグランプリ2015”でベスト10入りを果たさなければならない。
ベスト10入りを果たすにはどうすれば良いか。答えは一つ。皆さんが、こにゅうどう君に一票を投じていただけばよいのです。
文字検索“ゆるキャラグランプリ”でゴー!
本日の中日新聞に、ろうあ者が体験した終戦のことが掲載されていました。
9月上映の作品が、松山善三監督“名もなく貧しく美しく”で、同じ境遇の話なので、紹介します。
この映画は、昭和36年に作られた東宝作品です。私が小さいころ母親と弥生館へ出かけました。赤ちゃんが亡くなる場面を悲しく記憶しています。なぜ、ろうあ者という社会的弱者同士が夫婦になるのか堪らない気持ちでしたが、再度鑑賞して、前向きに、助け合って生きる二人の姿に感動しました。
松山善三は木下惠介監督に認められ“カルメン故郷に帰る”のシナリオに携わっています。奥さんは高峰秀子。この作品で監督デビューして毎日映画コンクールとブルーリボン賞を受賞しています。
その他の作品に「ふたりのイーダ」「典子は、今」「人間の条件」「人間の証明」「恍惚の人」などがあり、美空ひばりの歌唱により知られる「一本の鉛筆」の作詞も行っています。
主婦の秋子(高峰秀子)は、幼い頃に病気で聴覚を失っていたが、ろう学校で手話を学び、人の唇の動きを見て会話することもできた。太平洋戦争の末期、空襲に合い、焼け後で赤ん坊を保護し、嫁ぎ先に連れ帰った。だが、冷たい家族は明子の留守に赤ん坊を孤児の収容所に入れてしまった。この赤ん坊が立派な青年になって最後に顔を出します。松山善三監督の“名もなく貧しく美しく”は9月25日に上映いたしますので、是非ご参加ください。
今回の映画鑑賞会は、来年3月まで続けさせていただきますので、どうかよろしくお願い申し上げます。次回の上映予定は、9月25日“名もなく貧しく美しく”・10月23日“祇園囃子”・11月27日“第三の男”・12月18日“三十四丁目の奇跡”を予定しています。28年1月~3月はいまだ 楽しく 決めかねていますので、ご希望があればお聞かせください。
名古屋タイムス昭和28年7月12日号に、こんな記事が載っておりました。
“邦画の良心 独立プロ”悪条件もなんのその!漲る覇気、端役の一人一人まで
「原爆の子」
近代映画協会が「原爆の子」を製作している最中、工場を改造したバラックのセットの中で、夜更けまで撮影をやっていた。窓ガラス1枚無く夜風は吹き抜けていた。それでも全員意気軒昂に働いていた。この気配は、普通の大会社のスタジオでは中々見る事の出来ない雰囲気である。五所平之助監督は「既成会社は、泣いても笑っても最低1年52本の映画がいる、だがわれわれはただ製作したい。いいものを作りたい気持であるので、どうでもいい封切りのためだけの映画はいらないのだ」といっていたが、これが独立プロ作品とそうでない作品との本質的な別れ道であろう。
「雲流るる果てに」「煙突の見える場所」
今年になってみても、独立プロ作品は、多くの封切り映画の中で瓦礫にまじった珠のように光っている。スタジオ・8プロの五所作品「煙突の見える場所」は国際コンクールでイリア・カザンの作品とイタリア映画に続いて三等に入賞したし、重宗プロ「雲流るる果てに」はすばらしい入場者を得た。これらは大会社の企画圏以外から斬新なプランを掘り出してきた結果が生んだ功績に違いない。
「縮図」
もう一つの例で「縮図」の製作予算は二千五百万円程だったが、スタッフ全員はいかにしてこの予算を切り詰めるかに腐心した。この会議にはスターの乙羽信子まで出席し、熱心に検討している。ロケーションで雪に埋もれた高田市に行った時も、乙羽は「この調子じゃロケ費用が超過しすぎやしないだろうか」と新藤兼人監督に相談していた。つまり、現場の者のこの心構えは、作品全体を一本の情熱の線でしっかり貫き結び付けている、と感じられるものだ。そして、「縮図」も興行的に立派に成功した。この近代映画協会は、いま吉村公三郎監督で「夜明け前」の撮影を続けている。
「蟹工船」
一方、現代プロダクションでは山村聡が監督になった第1回作品として「蟹工船」のために真っ黒になって仕事をしている。
佐分利信を表面に立てた東京プロダクションも映画化するのに骨な「広場の孤独」の準備にかかった。この独立プロは、下手をすると、大資本に飲まれるおそれがあるが、佐分利が彼の持つ政治性と芸術家としての精神がこれを防ぐだろう。
これともう一つ、今井正監督が、群馬県の田舎町で文化活動を続けている。真摯な若い音楽家たちの実際の記録を映画化すべく「ここに泉あり」に着手した。こうして、日本映画の輝かしい功績はすべて独立プロに持って行かれそうだ。
“名古屋タイムス”昭和28年7月12日発刊には、諏訪公園周辺の様子も書かれていました。
“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園
〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。僕の家というのは、名古屋桑名町で同名の店を出して有名だった。主人は年うつり、いまやまるハゲとなった。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと後楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。
公園南のとおり 左前方にサルの小屋が見える
〇 諏訪神社は信州の分身、9月25日から27日までが祭礼で有名な大入道やクジラ船の山車が出る。裏は公園、サルが飼ってある。のどかな雰囲気である。近所のパチンコ屋から軍歌が流れてくる。パチンコはさかんで満員「出やん、出やん」とガラスを叩いている。名古屋より甘いので、名古屋から出稼ぎに行ったらいかが?
〇 キャバレーやレストランもないが港へ入った外国船の船員が遊びに来る。町の人もなれていていい商売になるそうだ。だが、中にはタクシーの運賃を払わなかったり、酔っ払ってケンカしたりするのもあるとか。ベラベラッとやると言葉のわからないせいもあって、
こちらはおとなしくなるそうだ。ノルウェー人が多いという。国際親善はうまくいっている、というのだろう。(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)
やや乱暴な文章で、戦後間もない乱雑とした雰囲気が良く出ています。
新田町の西に連鎖街があったのでこの記述はまちがっています。
諏訪産業というのも初めて聞く社名で、公園周辺に家が建ち始めた経過に興味がわきます。
諏訪公園内に四日市幼稚園があり、公園の西に広い庭のカトリック教会がありました。正ちゃんと忍び込み築山に上り、はか南方を眺めると龍宮城のような建物、後楽園が望まれました。公園と幼稚園と赤線が混在した町、外部の方には不思議な光景に映ったのでしょう。
1号線舗装工事の様子 角に三重交通のバス乗り場
昭和36年諏訪新道水害 岡本総本店、前には広告塔
前回ご紹介した昭和28年7月12日発刊の名古屋タイムス“四日市新地図”より、ご紹介します。
「望みは高し“水郷ベニス” このドブ川がいつの日か」より 諏訪新道が紹介してあります
銀行は七つ、商店街のところどころに新しい建物で威容を放っているが、商店街を分断する点で困ったものだと云っていた。郵便局は昔の兵舎のお古みたいなうらぶれた姿を道路に出っぱってさらし、完全に商店街を二つに区切って建っている。市役所に通じる大通りはまだ整備されていない。道の真ん中に約1間のドブ川が流れている。将来は三滝川の水を引き、ベニスのような水の都にするのだそうだ。このドブ川の上に映画のカンバンが一杯ある。地所代がほとんどいらないからだそうだ。何でも年に600円とか。セチがらい世の中ダネ。
諏訪新道は飲食店が少ない。客寄せの上からはミスだが、“うまいや”というのはヘノヘノモヘノの看板で宣伝に成功している。浅井というびっこのサンドイッチマンは浪花節狂、報酬なしで毎日エヘラヘラとサンドイッチマンをやっている。同じく大衆食堂舞子屋のサンドイッチマンも同類で女の恰好をして“日本一の美人”と張り紙をして歩き、二人とも町の人気者になっている。鈴木屋、岡田屋は洋品の大店、羽田も古い店、キャノンは1階カメラ、2階はちょいと気の利いた喫茶店。三重交通のバス乗り場の裏には松坂競輪の場外車券売場がある。ヨシズの下にヒゲ帽などをかむった大勢の若い男がごろごろしている。松坂からはレースのたびに放送する「イチバン」の「イ」にアクセントをおいた伊勢言葉である。
“名古屋タイムス”昭和28年7月12日号に「四日市新地図」が掲載されていて、当時の諏訪新道のイラストが紹介されていた。
西側(1号線付近)
中央(東京三菱UFJ付近)
東側(三滝通り)
「アプレ建築、揺ぶって ガーガー広告放送塔 はためく幟がまた古風」と当時の諏訪新道の賑わいぶりが書かれていた。
四日市は夏場の景気が良いそうだ。富田方面への海水浴客がドッと旧市内にも入って金を落していくからだ。四日市商人はソロバンをはじいて用意おさおさ抜かりないところだろうか。さて、その四日市ってどんな街なんだと聞かれても返答に困る。中心は諏訪新道から諏訪神社前の連鎖街と呼ばれる一角だが、何も特色がない。ただどこにもある大都市の盛り場をちょっと小さくちょっとチャチにしただけのものである。
とあり、最後に
南側にはズラリ百軒以上にもなろうと思われるセンイ品の露天商、おおむねアッパッパや子供服などの格安品、近在の農家のおかみさんからの需要が多いとか、店を出しているのは一富、津島あたりの人が大半であるため人寄せにもなる点から地元商店では痛し痒しの存在、道路に出す日よけは立派である、鉄枠ガラス張りのは南側、木製ヨシズ張りは北側、故に客の割合は南七、北三と対照的、またそれ故に北と南は発展会を異にしお互いの仲はよろしくない、ということになるそうだ。