花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

松山善三監督“名もなく 貧しく 美しく”

2015年07月28日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

松山善三監督の“名もなく貧しく美しく”は、昭和36年の東宝映画。秋子(高峰秀子)と道夫(小林桂樹)の二人のろうあ者が、終戦前後の厳しい時代を懸命に生きるストーリーで、事実に基づいてつくられた心洗われる映画です。夫婦揃ってのろうあ者であるため、兄弟に騙されたりして苦労しながら、一児をもうけ助け合って生きていきます。

ようやく落ち着いた生活をむかえ、ふたりは手話で話し合います。

「僕たちは 幸せですか?」

「ハイ あなたは?」

「僕はこの頃 家にいると 耳が聞こえるような気がします あなたや一郎やお母さんのことなら 全部わかります 僕はこの家さえあれば どんなに辛いことがあっても生きてゆけます あなたはどうですか?」

「世間の人は 私たちに同情はしてくれても 理解してはくれません 私もこの家だけが天国です」

「僕たちは10年かかって やっと一人前の夫婦になりました 世間のことや政治のことは目をつぶって 二人だけの平和な世界をつくろうと努力してきました

でもこれだけで私たちの努力が終わったわけではありません

これからは一郎のためにも 僕たちのためにも もっともっといろいろな事を 知らなければならないと思います」

過酷な終戦直後を体験してきたからこそ云える言葉です。


小津安二郎監督“浮草”鑑賞

2015年07月26日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

7月24日、小津安二郎監督“浮草”を鑑賞いたしました。

Tさんの感想です。

ロケ地は志摩でしたね。冒頭を白い灯台と黒のビール瓶の対比で始めたこの作品。監督好みの“赤”がいたる場面で見られました・・・

〇 提灯に書かれた文字

〇 バーの入り口のガラス戸の市松模様

〇 庭先に植えられた葉鶏頭

〇 芝居小屋の消火器セット

〇 アイスキャンディー、かき氷(苺シロップ)。そしてとどめは汽車のティルランプの赤でした。

その、撚りを戻した二人の行く先が“桑名”だったのはちょっと残念。JR四日市駅近くには当時“みなと座”という名の芝居小屋があったらしいので・・・。

他にも“昭和を切り取った”場面のいくつかを挙げますと・・・。

〇 和服・・・昭和30年代はまだ普段着にキモノを着る人が多かったようです(歩きながら帯を結ぶなど朝飯マエ)。笹竹やトンボ柄浴衣は涼しさを呼んでいる。

〇 下駄・・・カラッ コロッ カラッ コロッとリズミカルな音は無言で歩く人の心模様を表しているようです。

〇 団扇と蚊取り線香が夏の風物詩。扇風機でさえまだまだ贅沢品でした。

〇 床屋の剃刀研ぎのベルト(鮫の皮?)・・・阿倉川駅近くで昭和40年頃まで営業していた「山口理容店」を懐かしく思い出しました。

〇 煙草・・・男女共にどんどん吸っていたが、三井弘次が器用に輪っかをポッポッと吹き出すのには驚愕。京マチコの擦ったマッチの捨て方も絵になっていたし。

〇 風呂敷包み・・・昔の人達は、旅をする時でも最小限の荷物をたった一枚の風呂敷包みで。現代人は、何が詰まっているのか大きなキャリーバックをガラゴロと曳く。

俳優について

 

①京マチコ・・・魅力全開。当時彼女は34歳で、抜群のスタイルと美貌に裏打ちされたあの艶やかさはどうだ。現代の女優で彼女に匹敵する者がいるだろうか?国定忠治は余興(おまけ)で得した感じ。

②バーの女給役の賀原夏子のストリップ(スリップ姿の間違いでした。自分ながら転記間違いに笑ってしまいました。陳謝)はド肝を抜かれた(作品の中では唯一人セミヌード)

③子役・・・台詞の有る子も無い子も実に活き活きしていた。チンドン屋の後ろをついて歩く子、祖母に連れられて芝居小屋に来ている子。3等車の固くて狭い木製の座席に臍を出して眠りこけている子等々。中でも一座の子役の男の子は名脇役。彼は同じく34年製作の「お早よう」でも起用されていた芸達者な“島津雅彦”という人で、子役だけで役者を卒業したとか。今頃(63歳くらいか?)どうしているかしら。

④若尾文子・・・この夏、東京で彼女の出演映画作品が60本上映されているとか。「健康も芸のうち」と言われますが、ずーっと現役を続けている彼女にエールを!

※ 子役の島津雅彦さんは、昭和27年鹿児島で生まれています。日活の撮影隊がロケーションに来た折、当時5歳だった島津が月丘夢路に花束を渡したのがきっかけで映画界入りし東京へ出ましたが、小学6年生の時学業専念のため鹿児島へ戻りました。松竹大船製作の「喜劇満願旅行」昭和45年が出演の最後となっています。当時17歳でした。


リニア・鉄道館へ!

2015年07月24日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

昨日は、夏休みに入ったことだし・・・ということで、孫のお供で愛知県方面へ出かけました。

鰻をいただいて気が付き、孫の分を取り上げてパチリ!ここの鰻は肝がついたままで焼かれてあります。ホロっと苦く、精が付きそうですが、子供たちには人気がなさそうです。背開き?

ここで見かけたプレミアム付き商品券のポスター。さすが豊田市、11億円規模です。

鞍が池のサービスエリアのトイレには、あちこちで燕が子育ての最中でした。段ボールで囲われ大切に守られていました。

その後、以前から一度訪れたかった金城埠頭の“リニア・鉄道館”へ。

規模の大きい会場に大満足でした。

日本最大のジオラマはいつまで眺めていても飽きることがありません。

近場でお気軽に出かけられるスポットで。入場料は1000円。くじで車掌が当たると500円取られ、おまけにトホホの車掌体験ができます。是非ドーゾ。

 


小津安二郎“浮草”

2015年07月22日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

過去4年間にわたり、古い映画の鑑賞会を行ってきました。今年も楽しみにしていただいている皆さまからの要望に応え、ごく限られた方のDMのみで、映画会を実施させていただきます。

作品は、小津安二郎監督の“浮草”です。小津監督が10代の頃過ごした伊勢志摩が舞台です。“秋日和・彼岸花の間違いでした。”で山本富士子さんをお招きした御礼に、大映で撮影されました。中村雁次郎や京マチコ、若尾文子、川口浩などが顔を揃えています。小津監督にしてはテンポのよいセリフが交わされたりして楽しめる作品になっています。

   

このポスターは、会場案内の為、入口にのみ貼らせていただきました。

 

 

 


北海道でのイザベラ・バード3

2015年07月19日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

函館へ渡ったイザベラ・バードは、領事館でフォン・シーボルトの息子一行と出会っています。

現地調達、身一つの軽装で北海道奥地へ出かけるイザベラ・バードに対して、シーボルト一行は、大量の物資とともに隊列を組んで出かけます。その後、こう書き残しています。

彼らはその探検に完全に失敗し、クライトネル中尉に逃げ出されてしまった。私はシーボルト氏に、これからもてなしを受けるアイヌ人に対して親切に優しくすることがいかに大切かを伊藤(横浜で雇った案内人)に日本語で話してほしい、と頼んだ。伊藤はそれを聞いて、たいそう憤慨していった。「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」。それから彼は、アイヌ人について村でかき集めた悪い噂を残らず私に話すのであった。

日本人にはすごい差別意識があったのです。しかし彼女は、アイヌ人の方が、蚤や虱が少ないとか悪臭がしない、裸では居ないなど冷静に判断しています。

講演者である西本常一氏は、イザベラ・バードの紀行文についてこう結んでいます。

これを通してみている限りでは、アイヌの世界は習俗の上では割合に我々に共通するものがあるのですが、気風の上では違ったものがある。イザベラ・バードが行っても皆が物見高く集まるということはなく、無関心である。ところが一方、東京を出て青森の間では、どこへ行ってもわんさと人がおしかけ彼女を見ている。未開とか進歩とかいうのはその差ではないかという気がするのです。物見高さというかおっちょこちょいというか、他国には見られない現象が起きる。そのおっちょこちょいの気質が明治以後、外国文化をすごい勢いで吸収する力となっているのではないかと、これを読んで感じたのです。


“日本奥地紀行”イザベラ・バードの旅2

2015年07月15日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

イザベラ・バードの旅は続きます。会津盆地の山裾にある坂下(ばんげ)という村に着いたとき、人口5000の小さな田舎町に2000人の見物人が集まっていました。珍しい外国人を見るためです。

私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとした時であった。群衆の大脱走が始まって、老人も若者も命がけで走りだし、子供たちはあわてて逃げる大人たちに押し倒された。伊藤(横浜で雇った案内人)が言うのには、私がピストルを取り出して彼らをびっくりさせようとしたと考えたからだという。やさしくて悪意のないこれらの人達に、少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。

純朴な田舎の人達の慌て振りが想像できます。そして、

ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすり取られるのであるが、ここでは私が、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金を取られたこともない。群衆に取り囲まれても、失礼なことをされることはない。

馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、細心の注意を払う。

ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かをあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事に届けるのが当然の仕事だ、と言って、どうしてもお金を受け取らなかった。彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。

と書き、そのすぐ先に、

伊藤(横浜で雇った案内人)が私に対する態度は、気持ちのよいものでもなければ丁寧でもない。

素朴な田舎の人たちも、都会に出ると擦れてしまう。当時はもっとはっきりしていたようです。


“日本奥地紀行”に出てくる店舗とは?

2015年07月14日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

英国夫人のイザベラ・バードは、明治初期に日本を訪れ、母国へ送った書簡集の“日本奥地紀行”を残しています。当時の日本がどんなだったか?観光ルートではなく、東北から北海道のごく一般の日本人の生活が記録されて、興味深い紀行文となっています。この中に当時の“店”の様子が書かれており、日本観光文化研究所の所長“宮本常一氏がこのように話してみえます。

彼女がいたるところで書いていることは、店の前を開けひろげているということなのです。これは確かに驚きだったと思うのです。これについて私の感じることを話してみますと、日本の“店”というのは“見せる”ことだったのです。それは品物を見せるだけではなく、仕事を、作っているところを見せた。見ると安心して買えたし、声もかけられたわけです。それが家の前を開け放すこととつながって来るのです。こういう店の在り方が、今度の戦争が終わる(太平洋戦争)まではあったのですが、戦争の少し前から日本でもショーウインドウというものが発達しはじめるのです。東京でショーウインドウが飾り物として生かされたのは高島屋だそうです。そういわれてみると、戦後三越にも白木屋にもなかったが、高島屋のはみごとだった。そしてすみっこに花が生けてあった。これがみんなの心を引くようになり、物はウィンドウへ並べられて、人間が奥へはいりこんでしまう。その時日本の伝統工芸品が滅びはじめたのだと思うのです。下駄屋が衰退し、まんじゅう屋が駄目になったりというのは、自分たちで作っているところを見せなくなってしまったからで、見せないことが良いことだと思い始めたのです。

近年、飲食店に限らず工房型店舗が見直されています。お寿司屋さんしかり、作っているところが見えると安心できます。物を売る場合でも同じことが言えるでしょう。

一人一人が顔を合わせるということから、店とお客との間にコミュニケーションが取れる。これから先もう一度、もとのような店が復活し始めるのではないか。少なくとも小さな店の場合、こうした日本人の中にある人間関係を抜きにしては成り立たないのではないかと考えるのです。


キターッ!

2015年07月12日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

昨夜、以前孫がお世話になった幼稚園の教師約2名が持参。野良の親猫が、子供3匹までは非難させたが、1匹を忘れ残していったそうな。

どうみても鼠の子供としか見えない物を、孫がくっついて世話をしている。猫神様のタタリじゃ!

※ 追記

 翌日の夕刻、子猫は死にました。一時体温が下がっていたので湯たんぽで温めミルクを注射器で与えると、とても元気になったのですが、あれは 断末魔の喘ぎだったのでしょうか?数日間の命。胸に迫るものがございました。ナ~ム~(冗談言ってる場合と違う)


プレミアム抽選会

2015年07月11日 | おいらの商店街

プレミアム付き商品券を朔日恵比寿に取り入れようと、ポスターを作りました。我ながらよく出来たと思っていますが・・・・いつも抽選券を出していただけないお店やプレミアム付き商品券を扱っていただけないお店もあります。お申込みは11月まで可。ということで、これを機に拡大を希望しておりますが、如何?


第1回 福祉とにぎわいのまちづくり事業推進会議開催

2015年07月05日 | 諏訪商店街振興組合のこと

少し以前のこととなり申し訳ありません

7月2日(木)午前10時より、スワセントラルパーキング2階会議室に於いて、第1回 福祉とにぎわいのまちづくり事業推進会議が開かれました。今後のサンシ前罹災地再建事業に関する会議です。

集まっていただいたのは、地域環境デザインの石崎先生、青山里会から7名、地権者から2名、商店街 諏訪栄地区まちづくり協議会代表、1番街振興組合1名、諏訪西振興組合2名、諏訪振興組合2名、四日市市商工農水部1名、都市計画課1名、商工会議所1名の皆さんでした。

平成28年4月の整備・着工に向けて当会議発足にあたっての規約を検討した。後、役員選出に入り、代表 諏訪西振興組合理事長 野村愛一郎氏、副代表 社会福祉法人 青山里会理事長 川村陽一氏、地権者会議代表 森 直正氏、事務局長 諏訪商店街振興組合専務理事 水谷武生 と決まりました。

初めに、円頓寺の“西アサヒ”と一身田の“ぼんぼり”の視察報告が石崎氏より為されました。続いて、新しい施設1階と2階の一部分について討議され、商店街内の施設にふさわしい“にぎわい創出のスペース”を造るための検討がなされました。

石崎氏よりコミュニティカフェ、レストラン、多目的ホール等を設置した場合、国の補助金導入と補助金なしで行った場合の試算説明がありました。とりあえず補助金の導入如何にかかわらず、三重銀総研に委託してアンケートによる市場調査を行うこととしました。

今後“福祉とにぎわいのまちづくり事業推進会議”は、毎月1回の予定で実施されます。