映画「K-20怪人二十面相・伝」の世界は素晴らしい。舞台は昭和24年の第二次世界大戦が回避された帝都 東京。軍が制圧し、19世紀から続いていた華族制度によって極端な格差社会が生まれていた。
冒頭、飛行船から出た小型ヘリが東京上空を飛ぶ。都心へ向かって。さて、よくよく見ると、ここにも時空移動号が出現している。怪人二十面相のイチの子分チャラ助 主水丞が偵察に来ている。その目撃写真がコレダッ!
映画「K-20怪人二十面相・伝」の世界は素晴らしい。舞台は昭和24年の第二次世界大戦が回避された帝都 東京。軍が制圧し、19世紀から続いていた華族制度によって極端な格差社会が生まれていた。
冒頭、飛行船から出た小型ヘリが東京上空を飛ぶ。都心へ向かって。さて、よくよく見ると、ここにも時空移動号が出現している。怪人二十面相のイチの子分チャラ助 主水丞が偵察に来ている。その目撃写真がコレダッ!
次の写真は昭和7年4月、満州事変が半年で平定され、その凱旋部隊を諏訪公園に向かえた様子である。昭和2年金融恐慌が起き、4年には世界恐慌が勃発する。巷は不景気のどん底。ごく一部の大企業を除いては、不況にあえぐ企業が殆どだった。昭和9年、肥料や石炭を扱う実業家 村山清八は、熊澤図書館の西隣りに誓の御柱と、その南側に市民壇を建設する。満州への進出が不況脱出のカギとなることを願って・・・。この時は未だ誓の御柱は出来ていないが、こういった式典を行うには市民壇の必要性を痛感していたのだろう。
上空には巨大なタイムマシーンが飛来して、戦争に向かう日本の状況をうかがっている。隊列を見るとそれとなく式典に参加する遠藤平吉の姿がある。彼もまた時空移動号テスラ装置の搭乗者か?彼には、前回記載の通り、昭和24年に怪人二十面相との激闘が控えているのだ。<つづく>
国鉄四日市駅北側の一等地に村山肥料店が建つ。村山清八氏の店と想像できる
昭和9年以降の絵葉書より。(本町の水谷宣夫氏所有)
第二次世界大戦が回避された昭和24年の帝都東京。日本は19世紀から続く華族制度により極端な格差社会が生まれていた。そして、ここ東京では怪人二十面相が富裕層を狙う犯罪を繰り返していた。その二十面相は学術会議で革命的な新エネルギー機関・テスラ装置の模型(タイムマシンの事か?筆者談)を盗み、今度はテスラ装置を奪うと大胆に宣言したことから、警務局の浪越警部は名探偵・明智小五郎に捜査を依頼した。一方、サーカス団で働く軽業師・遠藤平吉はふとしたことからカストリ雑誌の記者に化けた怪人二十面相にだまされ、彼の替え玉に仕立てられたために二十面相として軍憲(イコール警察)から追われる羽目になってしまう。平吉は疑いを晴らすために、自らも二十面相になり、本物の二十面相と対決することになった。苦戦の怪盗!ガンバル平吉!乞うご期待!
<注>平吉は子供の頃、諏訪公園で草野球に興じてオリマシタ。昨日のブログに証拠写真が挙げられてオリマス。
<活動大写真K-20怪人二十面相伝 より>
東京のまん中にある有名なデパートで、宝石てんらん会がひらかれていました。
ちんれつ室の正面には、三重県の有名な真珠王が出品した「志摩の女王」という陳列品がありました。それは、とてもりっぱでめずらしい品物で、今から二十年もまえに、東京でひらかれた大はくらん会に、出品するためにつくられたのですが、そのはくらん会で、フランスから日本まで遠征してきた怪盗アルセーヌ=ルパンが、この真珠塔をぬすみ出し、名探偵明智小五郎が、大冒険のすえに取りもどしたという、いわくつきのたからものでした。(黄金仮面に記載)
ある朝のことです。デパートの事務所へ、「志摩の女王」の出品者である有名な真珠王(御木本幸吉?)その人が、ひとりの若い背広の男(技術者 松村)をつれてたずねてきました。真珠王曰く「志摩の女王」の中に傷のついた真珠があるので修理したいと。
ちんれつ室へ入った二人は、修理をするふりをして「志摩の女王」を抱えたまま屋上へ駆けあがり、ゾウの形をした巨大なアドバルーンに乗って空中高く去っていきました。
「少年探偵 灰色の巨人」は、月刊娯楽雑誌「少年倶楽部」に、昭和30年に連載された12作目の作品であります。それにしても、例の老人の正体は怪人二十面相だったのか? <つづく>
昭和30年5月11日、諏訪公園で草野球に興じる子供たち。現在の神社と公園の間。辻さんは、誓の御柱(石山)の建つあたりから東北東に向かってカメラを向けた。しかし、この後ろ姿は、どう考えても遠藤平吉としか見えません。4月27日画像を更新いたしました
昭和31年8月31日と記載がある辻さんの写真。ここへも円盤の老人が現れていた。地球に捨て置かれたため、香具師で生計を立てていたのだ。
もう一枚の同日に撮られた写真を見ると、前の諏訪劇場で、片岡千恵蔵の国定忠治を上映中だ。調べてみると封切りは昭和33年となっている。明らかに間違いであった、ってどうでもいいことですが・・・
それよりなにより、この徘徊老人の生末の方が心配でアリマス。
大正15年12月25日午前1時、長く患っていた大正天皇が亡くなった。同日、午前3時30分過ぎ、凍てつくような東京の街々を、東京日日新聞の号外配りが駆けまわり「元号決定」を報じていた。枢密院に於いて慎重審議の結果『光文』と決定するであろう、と。<半藤一利著『B面昭和史』平凡社ライブラリーより>
ところが、正午も近くなったころ、朝日新聞と時事新報とが「以後改メテ『昭和元年』トナス」の号外を撒いたのだ。東京日日新聞の内部は震撼した。これが正しければ大誤報となる。前から政治部には、枢密顧問の秘書課長から「“光文”になるらしい」との情報が入っており、慎重かつ早急の審議の結果、他社より早く号外発行を踏み切ることになったのだ。
では「光文」は幻の元号だったのか?宮内省は早くから草案に着手していて「昭和」「伸和」「恵和」など43の候補が挙げられていた。一方、宮内省とは別に枢密院でも選定が行われていて「光文」が一番の候補だった。この情報を日日新聞はえていたのである。そして、25日午前6時からの枢密院会議において5時間に及ぶ論議の結果「昭和」の決定をみることになる。
元号を誤って速報した日日新聞には、社の根底を揺るがす大事件へと発展する。戦争に向かう不穏な時代背景があったのか、この“誤報道”の発火点となった政治部記者は、その後まもなく退社し、完全に消息を絶った。
写真は昭和3年、中町通りを練る昭和天皇御大典の奉祝神輿である。上空には巨大なタイムマシンが飛ぶ。
昨年公開のリング リバース。女の子はかわいいね。テレビの電源を切っても消えない。そして、倒れたテレビの中からニューッと出てきた。
がしゃんこ!
すっくと立ちあがる!
麻原か??映像に無理があった。告発されるの 間違い ナシ! スミマセーーーーン
キモイ!
二日間とも好天に恵まれた4月6日・7日、エキサイト四日市・バザールは盛況のうちに終了しようとしています。葉桜が心配されていましたが、見ごろを迎え大勢の皆様に楽しんでいただきました。今回の反省点を厳粛に受け止め、次回に繋げていきたいと思っております。ありがとうございました。