花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

ぶらり四日市 その十七 玉井兄弟の情熱①

2023年02月28日 | レモン色の町

2月28日朝の“チコちゃんに叱られる”で、四日市市立博物館副館長の広瀬毅さんが出演、解説されていました。お題は、“なぜ羽田に飛行場が出来たのか?”

四日市の浜田に生まれた玉井清太郎は、竹とんぼからヒントを得て飛行機の制作にかかる。

大正1年2月18日、四日市末広町埋め立て地において、清太郎は発動機試験のため滑走路を走る実験を行う。

大正1年11月、千葉県稲毛海岸試験場にて、水上機の失敗を教訓に陸上機の試運転を行う。

大正6年5月20日、日本初の3人乗り機を完成させて、東京芝浦埋め立て地にて飛行するも墜落。兄は帰らぬ人となった。

こうして 翌 大正7年、兄の遺志を継いだ弟 玉井藤一郎は、羽田飛行機研究所を芝浦埋め立て地に設立した。

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ぶらり四日市 番外 刃傷事件 ⑨

2023年02月26日 | レモン色の町

四日市宿での刃傷事件 最終章

最後に、16名の関係者を約14日間かけて江戸へ護送した経費だが、明確な記録が無いとありました(ナンヤ!)。ただ、付き添った同心1名につき1泊180文の賃が出ている。これは、四日市へ出向いた時よりも3割増しとなっている。遠路であるためだろうか?

さて、旅に出るとき前もって借り受ける内借金というのがある。旅費の前借りにあたるわけだが、2人いた宰判は22両、同心2人も10両借りているが、足りなくなって江戸でまた10両借用している。ちょっとした武家様は、江戸へ往復に一人10両はかかったという事でした。

結びとして上野秀治氏は、一つの問題点を挙げている。

それは、庄助への対応であります。庄助は、事件当日、惚源新田の安兵衛と尾州春日井郡の浅之助らとで武装し、大塩の泊まる徳右衛門旅籠へ乗り込んでいる。そして、現場では火鉢の灰をぶちまけて逃げ出したり、最後には吉五郎が連れ出した花香を駕篭で桑名宿へ送ったりしている。桑名藩は、庄助を重罪とみて、江戸への護送の折、庄助だけを目籠(竹で編んだ檻で重罪人)に入れて運んでいる。しかし、江戸の幕府道中奉行は、無罪放免とした。これを上野氏は、幕府法と藩法の違いから来ていると書いてみえました。この記録は、私領である桑名宿の人間が、幕領(天領)である四日市宿で起こした事件の記録で、大変貴重なケースであると記してありました。

<後記> 自分なりに咀嚼して書いたつもりでしたが、結果は上野氏の丸写しに近い形になってしまったことをお詫び申します。

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ぶらり四日市 番外 刃傷事件 ⑧

2023年02月25日 | レモン色の町

GGシニアのまち歩き第3回は、皆様のご協力の成果です。楽しい動画がでけました。

(59) 「たけちゃんの四日市街歩き/第3回、四日市、四つ(数えたら五つ)の橋の物語」 - YouTube

四日市宿での刃傷事件 出納帳編

天保5年10月10日、四日市宿の旅籠屋徳右衛門方で起きた刃傷事件。桑名藩は事件発生後四日市宿に役人を派遣し、その後被疑者16名の江戸護送に携わっている。要するに、事件調査の運営は、桑名藩によって行われた。その経費明細が現在も残っていると上野秀治氏は“四日市市史 第1号”で述べている。

事件直後から翌月にかけて、桑名藩士7名が交代で四日市宿に赴いている。この出張費は使用人も同額で1人1泊 銀1匁2分。他に雨具や駕篭持ち人足の費用も発生していて、総計40両近い金が藩から支払われている。

次に、すべてが終了したのちに慰労金が藩より支払われている。表にまとめていただいてあるので掲載する。

事件発生以来、四日市宿に足を運んだ労をねぎらう意味で、藩士らに慰労金という項目でお金が与えられている。100疋(ひき)が1分の計算になり、身分によって差が出ている。表の下2列の中嶋 庄右衛門が何者なのか分からないが、丹後縞の袴地1反を買い与えてられている。また、東富田村見廻り役の藤吾は、40日ほど四日市宿に詰め、信楽代官所の使い走りも行ったため5貫文を賜っている。こうして慰労金の合計は3両ほどになる。

次、交際費であるが、桑名藩主の松平定永から直々に出張してきた信楽藩の斎藤立蔵へ20両が送られている。「殿直々であるから内々に」と渡されたそうだが、20両という多額の金であったため一旦断っているが、結局 懐へ入れている(素直さに欠けるヤッチャ)。

ほかに藩より、“肴代(一席設けたのだろう)”、“時雨蛤(名産品のお土産でアリマス)”、“菓子代”、“謝礼”、“お茶代”、“酒肴代”と、慰労をねぎらって食事をしたりお土産を渡したりしている。この中で、宿逗留世話代として宿扇屋に1両3分、宿の下男に1分、同心を泊めた桧全屋 茂右衛門には茶代として3分支払われている。どうやら武士からは宿泊料としては取らなかったようだ。結果、交際費は、藩主が斎藤へ渡した20両プラス8両ほどになる。  いよいよ最終章へ つづく  フーッ!

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閑話休題 GGシニアのまち歩き 兜鉢のこと

2023年02月20日 | レモン色の町

時間稼ぎのため、鵜の森神社に残る兜鉢の事もご紹介いたします。

十六間四方白星兜鉢(じゅうろくけん しほうしろのほしかぶとばち)

兜鉢の遺物は非常に少なく、この兜鉢は『日本の美術』、『日本の甲冑』など、わが国の甲冑に関する書籍には必ず所載される代表的な一点である。かつて日本甲冑会の権威であった山上八郎氏は、三重県が全国に誇り得る物の一つだと述べられた。

そして文部省において詳細に研究調査の結果、重要文化財に指定された。

鵜の森神社は、田原(俵)藤太秀郷をはじめ、浜田城主であった浜田家四代の霊を祀る神社で、この十六間四方白星兜鉢は、田原家にゆかりのあるものとして奉納されたといわれ、現在、鵜の森神社で社宝として保存されている。

これはかつて万治二年(1659)に奉納されて以来、鵜の森神社にあったが、同社は神主不在で盗難の恐れがあるため、寛保二年(1742)8月8日諏訪神社に預けられた。その後、184年後の大正15年8月16日、鵜の森神社に金庫が設置されたのを機会に返納されるに至った。その間の、明治30年に諏訪神社の生川神主宅が火災に遭い、保管箱、布などを焼失して、今は兜鉢のみが残っている。

参考資料:頭のポツポツが少ないので、かなり安物と思われます。菊千代さんゴメン!

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閑話休題 GGシニアのまち歩き 第2回

2023年02月19日 | レモン色の町

(46) 「たけちゃんの四日市街歩き/第2回、近くで中世の城跡が見られる公園」 - YouTube

まち歩きご案内の第2回が配信されました。GGシニア様のおかげでゴザイマス。良いめぐり逢いを頂戴して、感謝!感謝!であります。お時間の許される方は是非ご覧ください。そこで、鵜の森神社境内に掲示の、俵藤太物語を、再掲載させていただきます。(今、四日市宿で起きた刃傷事件で、経費の出何処がどこなのか勉強中です。今しばらくお待ちください。)

  • 秀郷 父から太刀を譲り受ける

醍醐天皇の時代に、俵藤太秀郷という有名な武士がいました。大織冠(だいしょくかん)藤原鎌足の末裔、阿部左大臣魚名公から五代の孫、従五位上(じゅうごいじょう)村雛朝臣(むらおあそん)の嫡男でした。14歳で元服、その名を藤太秀郷と称しました。秀郷は若いころから朝廷に仕え、下野国(しもつけのくに)(栃木県)の領主となりました。ある時、父の村雛朝臣は「わが家には鎌足大臣から伝わる霊剣がある。もう私も年老いたので、そなたに譲ろうと思う。この剣を持って名を上げなさい」と三尺あまりもある黄金造りの太刀を秀郷に譲りました。

  • 秀郷と三上山の大ムカデ

その頃、近江の国の瀬田の大橋には20丈(60メートル)もある大蛇が横たわり、渡ることができませんでした。それを聞いた秀郷はその橋に行き、大蛇の背中を踏み越えてみせました。が、大蛇はびくともしません。秀郷も、振り返りもせず橋を渡り終えました。その夜、秀郷の宿に美しい女が来て「わたしは昼間の大蛇です。琵琶湖に長く住んでおりますが、三上山の大ムカデが獣や魚を食い散らすので、これを退治する勇士を探そうと、瀬田の橋をふさいでおりました。あなたこそ有志です」と秀郷に大ムカデの退治を頼みました。

  • 秀郷のムカデ退治

秀郷は瀬田の大橋で弓矢をかまえ、大ムカデを待ち受けます。五人張の弓に十五足三伏(じゅうごそくみつぶせ)の矢という、大変強い弓矢です。秀郷は天孫降臨(てんそんこうりん)三十二神の内の武神を祀る御神神社(みかみじんじゃ)に祈願して、弓矢の秘伝を授かったと言われています。やがて三上山からやってきた大ムカデに、秀郷は矢を放ちますが、なかなか打ち取ることができません。最後の一矢に唾をして、一心に祈りを込めると、矢は見事にムカデの眉間を射抜き、ムカデは倒れました。

  • 秀郷竜宮でほうびを受ける

秀郷が見事に大ムカデを退治したので、琵琶湖の竜神は大変に喜び、米俵、巻絹、鉄兜、釣鐘など、数々の宝物を秀郷に与えました。その米俵からは尽きることなく米があふれ続け、秀郷は「俵藤太」と呼ばれるようになりました。また。兜は「拾六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんしほうしろかぶとばち)」というもので、田原家に伝えられました。田原家が四代のあいだに居を構えた浜田城の跡が、この鵜の森神社です。兜は盗難、火災にも遭遇しましたが、今も鵜の森神社に保管され、国の重要文化財に指定されています。

 

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ぶらり四日市 番外編 刃傷事件⑦

2023年02月15日 | レモン色の町

四日市宿での刃傷事件 お裁き編 その二

天保6年7月7日、道中奉行 曽我豊後守から仙助・花香・けい・甚平の四人に7月27日までに江戸へ来るよう命令が下った。仙助は飯盛り女花香を取り戻そうと画策した事件の張本人。けいは、桑名宿で旅籠屋をしていて、無宿人と知らずに浅之助(脇差で大塩を負傷させている)を雇っていた。無宿甚平は、花香を仙助宿に売り込んだ男である。しかし、けい花香は病気のため代人を立てている。腐心と旅の疲れで病気になったのか?こうして8月9日、ようやく、江戸にて判決が下されている。

歌川広重 東海道五十三次 日本橋

“次に判決内容を示す”と、上野秀治氏は、四日市市史 第1巻で記してみえます。

ゑい(大塩安五郎の下女、花香を大阪へ売り飛ばすため安兵衛とともに同行)→江戸払い=居住地域から追い出される

浅之助(大塩と切り合いお互いが傷を負った)・惚源新田の安部衛→敲き(たたき)の上、人足場へ労働に出された

仙助(事件の発生源)・又兵衛(仙助に頼まれ、大塩との折衝にあたった)→手鎖(鎖をつけて自宅監禁)

花香(仙助のところにいた飯盛り女)→急度呵=𠮟りの重いもの ただし仙助へ引き渡す

利兵衛・平八(大塩に頼まれ、花香もらい受けの交渉に立つ)→急度呵

けい(浅之助を無宿と知らずに雇った)→過料銭3貫文

与八郎・紀作(桑名宿の問屋で、けいの処に無宿者が居たことを放置していた)→過料銭3貫文

甚平(花香を仙助の元へ口入をした人物。津島の生まれで、娘の桑名宿旅籠ぶんの元に厄介になっていた。機会を逃し、事件当時は無宿だった。事件当日は怖くなり逃走)→お構いなし(桑名宿の宿役人 太田源十郎の願いで引き渡しとなり、源十郎は甚平を人別長に加える手続きをすすめる)

大塩安五郎(尾張藩の武士)→病死の為、遠島のところ申し渡し

下男安兵衛(大塩から刀を預かったため剣劇に参加)→病死の為、江戸払いのところ申し渡し

それ以外の物は、桑名藩から「以後、こうしたことがないように」との申し渡しで済んでいる。

箱根

刀を振り回したものにはお咎めがきつい。刀傷がもとで死んでしまったが、武士である大塩安五郎には遠島が言い渡されている。浅之助も死んでいるのは、当時の治療方法に限界があったのだろう。無宿者に対してもきびしい。甚平が無宿者と分かっていながら黙っていた、桑名宿の与八郎紀作は、あまり関係がなさそうであるが罰金刑を受けている。甚平には、温情が与えられたようだ。お咎めなしである。人別帳に登録しなければと思っていた矢先の事件、しかし、四日市宿の者には“花香”に逃亡癖があると言いふらしたはずでしたが・・・。大塩安五郎は、それに対して癇癪を起こしていました。さて、もう一仕事残っております。お金の動きです。つづく

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"昭和のくらし”企画展

2023年02月14日 | レモン色の町

本日付の中日新聞北勢版に掲載されていました。

「現代は、SDGsの考えが広まり、便利さだけを追求してきた社会の在り方を考え直す岐路に来ている。昭和のくらしに立ち返り、豊かさとは何なのか、考える機会になれば」と職員の野口さんは語っております。

 あーー お裁き編 その二は、さぼらせてもらいました。ホッ

 

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ぶらり四日市 刃傷事件⑥ お裁き下る

2023年02月13日 | レモン色の町

歌川広重 東海道五十三次より 桑名

天保5年10月10日、四日市宿の旅籠屋徳右衛門方で起きた負傷者4名(大石安五郎 訂正:大塩安五郎・下男安兵衛・浅之助・七右衛門)を出した事件だったため、幕府信楽代官所の(四日市宿は天領だった)四日市出張陣屋に届け出がなされた。14日、取り調べのため信楽代官所から手代 斎藤立蔵がやってきた。そして、大塩安五郎の尾張藩、仙助らの居住する桑名藩、事件の舞台となった四日市宿の三か所から16名に上る事件関係者が集められた。10月15日のことである。また、事が東海道の宿場で起きたので、五街道を管轄する江戸にある“幕府道中奉行所”へも届けられ、翌 天保6年2月17日には桑名藩の江戸屋敷留守居がやってきて、吟味取り調べのため江戸まで護送するように命令が下された。

東海同五十三次より三島

これが総勢58名の大護送集団となって江戸へ向かうことになる。手鎖腰縄付きの16名に同心、足軽、中間、吟味役、宿役人ら42名で、4月7日の朝出発、21日にようやく品川へ着いている。ここで心配してしまうのは、掛かった経費は誰が出したのか?ということである。60名近い集団が、ぞろぞろと14日間東海道を行き来したのでアリマスからねぇ。

東海道五十三次より 品川

吟味取り調べは進み、警護に付き添って行った藩士たちは、4月末には江戸を発って中仙道経由で桑名に帰っている。そして、6月5日に“道中奉行”に呼び出された16名の内、仙助と花香以外の者は、取り調べの上、帰村を許され6月22日に桑名宿へ帰っている。また、7月中旬になると、仙助と花香も傳馬年寄に付き添われて帰った。帰ったといっても、判決待ちの状態である。 再度江戸から呼び出しがかかり、判決が出た!  つづく

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ぶらり四日市 刃傷事件 ⑤惨劇の朝!

2023年02月12日 | レモン色の町

9日夜、ついに大塩安五郎自らが、仙助らの泊まる七右衛門旅籠へ乗り込んできた。そして、栄助伊三郎に向かって張本人の仙助と口入屋の無宿人甚平をここへ出せ!と二人へ迫ったが、生憎、仙助はいなかった。『隠すと為にならんぞ!』と激高した安五郎は、栄助らを打擲(ちょうちゃく)。二人は逃げ出してしまった。安五郎についてきた下男安兵衛も、安五郎から預かった刀を振り回し、宿へ帰ったばかりの宗吉を追いかけたので宗吉も逃げ出してしまった。ことの惨劇にたまらず七右衛門は、両方引き払うように四日市宿の役人に願い込んだ。

これで七右衛門旅籠に残ったのは、庄助と、ことの次第に同情した惚源新田の安兵衛尾州春日井郡の浅之助となり、(肝心の 仙助を忘れておりました)翌10日の早朝、三人(訂正;四人)は武装して大塩の泊まる徳右衛門旅籠へと乗り込んだ。事件発生でアリマス。

この三人のほかに、吉五郎、四日市宿旅籠の又兵衛重助平八も加わった。まず、又兵衛重助が交渉の為、二階の大塩の居間へ入る。間もなく下男 安兵衛が出てきて吉五郎と口論になり、安兵衛は二階へ戻って刀を持ち出してきた。迎える吉五郎、旅籠主の七右衛門、惚源新田の安兵衛浅之助の四人も刀を抜いた。ビビった安兵衛が二階へ戻ろうとするところを四人は追いかけ、吉五郎が下男 安兵衛を切りつけた。この時、安兵衛は七右衛門の持っていた鳶口を取り上げ、七右衛門に致命傷を負わせる。この修羅場を見た庄助は火鉢の灰をぶちまけて逃げ出した。この時、大塩浅之助が切り合いをはじめ、切られた浅之助は脇差で大塩に切りつけた。交渉役のつもりだった又兵衛も恐怖で手元にあった棒を振り回したところ大塩の頭に当たり傷を負わせた。この間、深手の七右衛門と惚源新田の安兵衛は、刀を持ったまま呆然と立ち尽くしており、大塩の下女ゑいと下男の友吉は恐怖のあまり物陰で震えていた。

こうして惨劇が終わり、吉五郎花香を連れ出し、逃げる庄助を捕まえて花香を預けた。庄助は花香を駕篭で桑名宿へ送ったのだった。天保5年10月10日早朝での事件だった。

<補注> 10日朝、徳右衛門旅籠へ出かけた連中の中に、戻ってきた仙助の記入漏れがありました。今回の原因となる人物ですから、先頭切って出かけるのが当然でしょうが、おそらく「えらいことになったワィ」とおもいつつ出発したのではないか?と想像できます。

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“昭和のくらし”昭和のおもちゃ展Ⅱ 開催

2023年02月11日 | レモン色の町

今日から四日市市立博物館で、昭和のおもちゃ展Ⅱ が始まった。注目は、四日市代官所跡出土品展 が同時開催されることでアリマス。

代官所跡地展は常設展(白里亭)ですので、ここだけ見るのは無料ですカナ?(まぁ、そんな連れないことをおっしゃらずに、上の階も見て行ってください)一般400円です

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