花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

わが町 諏訪 その12

2024年05月29日 | レモン色の町

昭和35年公開の“ヨーロッパの夜”。観には行けなかったが、このポスターには感動した。横目で見て往復した。

黒の緞帳(どんちょう)を裸身に巻き込む美女

オラが浜田小学校への通学路は、東海道沿いに南へ進み、新しく出来た駅前の70メーター道路を横断する。左に崇顕寺、右に(当時は右側)浜田郵便局、同じく右にダイヤパンを通過。竹屋(竹がたくさん立っていた)の四つ辻を左に曲がり1号線を横断すると学校があった。学校の手前のドブ川にアメリカザリガニがたくさんいたので、捕まえて国道の真ん中へ次々と放り出したことがある。

参考写真

学校前に駄菓子と貸本の店があって高学年になるとしばしば利用した。ところが、ある日借りた本を紛失してしまった。友達からは賃借料が積み重なって何千円にもなっているとおどかされた。そんな時に限って神棚と仏壇に手を合す。勝手の良いものである。かわりに家にある古い本を何冊か抱えて駄菓子屋の前をうろついた。うろついていた記憶はあるが結末は覚えがない。本屋のおばさんはにっこり笑って、それでおしまい、だったのかも知れない。多分そうだったろう。

参考写真

休み時間になると学校の前の道路に、奇妙な物売りが来ていた。プリズムを通して手を見ると骨が透けて見える・・なる代物を売っていた。つまり、古い卵が判別できるというのだ。青木君は教室から飛び出して行って早速その代物を買い求めてきた。その後の効果の程は不明だったし、物売りも二度と見ることはなかった。

先の割れたスプーンが懐かしい

今日も雨。校舎の屋根から落ちてくる雨がいろんな音に聞こえてくる。教室の窓から運動場をぼんやり見ていると、東の給食室からおかずを作る匂いがしてきた。アメリカさんから輸入した?脱脂粉乳(牛乳の脂肪を抜いて粉末にしたもの)が段ボールで出来たドラム型の大きな容器に入ってくる。それを溶かしたもの。これは冷めると表面に皮のようなものができるのでそれを除いて息を殺して飲んだ。そしてコッペパン。コッペパンはパン屋で買うのと比べてちっとも甘くなかった。二つに割って中をくり抜き、食べた残りを片方の空洞に詰め込む。お袋は朝、給食で残してきたパンを、炊きあがったご飯の中へ放り込み、湯気でおいしく温める、はずだったが、熱々のコッペパンは皮だけだった。キャラメル包みのマーガリンが付いた。そしてメインのおかず。カレー、揚げたちくわ、竜田揚げ(クジラの肉)、マカロニサラダ等が、下がまっすぐなアルミの容器に配られられた。

犯行現場写真

4限目が終わると6年生が白の前掛け姿で、給食室から大きな鍋を吊って各教室へ運ぶ。年を経て高学年になると、コッペパンは食パンになり、脱脂粉乳は瓶に入った牛乳に変わっていった。その時いただいた牛乳の味には感動した。

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わが町 諏訪 その11

2024年05月27日 | レモン色の町

Bing 動画 「ミスターロンリー」 レターメン

Bing 動画 「モア」 ジュリー・ロンドン “世界残酷物語”のテーマ曲でした。これがヒット!“続 世界残酷物語”から“世界の夜”“日本の夜”と、ちょっとエッチでドキュメンタリータッチの映画が次々と公開されました。ちっともドキュメンタリーじゃなかったんだけどね。エッチはエッチでゴザイマシタ 

Bing 動画 「ロシアより愛をこめて」 マット・モンロー 当初のお題は“007危機一発”。ご存じ007シリーズの第2弾!最高傑作です!かつらをかぶったショーン・コネリーが素敵!

昭和26年に建てられた浜田小学校 

おっかぁの手を引かれて浜田小学校へ連れて行かれた。小学1年生の入学式の日である。おっかぁは、出来るだけ車の通らないところを歩いたが、すぐ自分の勝手の良い道に変更することになる。職員室の二階が講堂になっていて、入学式はそこで行われ、そのあと各教室へ移った。1階の便所に一番近い教室だった。仙田婆ぁのクチャクチャの笑顔が思い出される。しかし、親が帰るや鬼のような顔に豹変した。

翌日からは正ちゃんと誘い合いランドセルを背負って浜田小学校へ向かう。南へ商店街を進むと踏切になる。ここに男の人がドブの溝に顔を突っ込んで倒れていた。しばしば倒れていた。迂回するように踏切を渡る。昨夜飲んだアルコールが悪かったのだろう。当時、酒の品質は最悪だった。酒というよりもメチルアルコールに近かったんじゃないのか?倒れていた人が同じ人物だったかどうか?ワカラナイ。

ここからは新田町から江田(えんだ)町になる。進むと右が清水油店。その奥が書道教室になっていてしばらく通った。「習字屋へ行ってくる」と晩ご飯を済ませてから正ちゃんと出かけた。真っ暗な倉庫のような店を抜けると、奥に明かりが灯った一軒家(映画のサイコか?)。そこには生徒が8名ほど入る教室になっていた。墨汁はなかったので、まず墨を摺る。おしゃべりをしながらひたすら手を動かす。最後の最後に、朱で書いてあるお手本を写して限定5枚の作品をパパッと仕上げる。それを持って先生のところで並んで待った。授業代を払う親の気持ちが分かっていれば、もう少し真剣に出来たものを・・・。

昭和30年 辻さんの撮った70メーター道路 左に市役所 この道(東海道)をまたいで学校に通った

その先は70メートル道路(中央道路)の横断カ所になっていた。鈴鹿山脈からの吹きおろしをまともに受け、体をチジコメ(縮込め?方言か?)ながら思い切り走り抜けた。講和記念博覧会の跡地は、自分の背を越すような草ぼうぼうの空き地になっていてバッタを取りに出かけた。それは、大きなトノサマバッタだった。エエッ?食べない 食べない

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わが町 諏訪 その10

2024年05月26日 | レモン色の町

絶好調!第4回の辻さんと巡る昭和30年頃の諏訪のまち ゴヒイキニ!アリガトゴザイマース

「写真で見る昭和30年代の四日市/四日市を掘り起こし/第4回」 (youtube.com)

“引き潮”は、高校生時代、片恋をするたびによく聞いた曲です。なつかし~い

Bing 動画 フランクチャックスフィールド 引き潮

Bing 動画 マントヴアァーニ 引き潮

戦後の焼け跡に商店が並びだす。店舗イコール住居という造りが多かった。店番をしながらラジオを聞いたりテレビを観たりしてご飯を食べ、交代で風呂に入る。夜になると客も来ないし暇になってくるので、近所同士が行き来して雑談が始まる。大人同士の話を、その横で子供たちは遊びながら何となく聞いている。七夕の飾りを家族総出で作ることができたのも、こうした雰囲気があったおかげだった。

人通りがなくなった午後9時閉店。通りの明かりは消えて静まり返る。そこを蕎麦屋がチャルメラを吹きながら通っていく。この音が異様な淋しさに聞こえた。土曜日の夜は映画鑑賞の日。映画の終了は午後9時30分だった。暗い商店街を急いで帰る。急いで帰って、急いで風呂に入って、急いで寝る。遅くても11時までには床に就いた。夜が恐ろしかった。一番恐ろしいのは何時かなあ?と布団の中で考える。商店街は静かでも、西の飲み屋街からは嬌声が聞こえてくる。深夜、近所の子供が寝ションベンをしたらしく、母親の鬼のような怒声が響く。そう考えると一番静かになるのは午前4時か?けれど、泥棒が闊歩するのは4時では遅いだろう。牛乳屋さんや新聞配達さんはすでに起きているはずだ。そんなことを考えた。

風邪を引いた。タウリンエキスを裏の早川薬局で買ってきて飲む。ガラスのカプセルになっていて添付のハート形のヤスリでくびれた白い線の部分をこすりポキッと折って飲む。これが難しかった。氷嚢に氷水を入れて頭の上に吊り下げる。しかし、すぐ外してしまった。風邪を引いた夜は風呂に入らずしっかり布団に潜り込んで汗をかく。汗だくになったら乾いたタオルで体を拭き、寝間着を着替えてさっぱりする。これにて風は治ることになる。学校を休むことは出来ず、残念無念でありました。母親は、学校を休むことは大罪であるような考えの持ち主だった。

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わが町 諏訪 その9

2024年05月24日 | レモン色の町

昭和31年頃、朝はパン食である。とにかく料理づくりを面倒がったお袋は、町の中の利点を利用して周辺商店からの調達第一を考えた。わが家から北へ、1号線へ出たところに“ダイヤパン”があった。浜田にもあったが、ここにもあった。幅の広い店で奥にはズラーっとガラスケースが並んでいて、左にあった食パンを切る機械で、1斤を厚切りで4枚、薄切りで6枚に切ってもらった。それを1本ごと買うので、3斤が4斤あったと思う。隣がとんかつの“すわとん”。超有名店で店の前に観光バスが停まっていたことがある。店頭で親父さんがカツを揚げながら道行く人に大きな声で挨拶をしていた。串カツとわらじのカツのみ。店内でビールのつまみにする時はキャベツがついた。

当店の斜め前が“嶋口屋”である。昔は、鈴鹿方面から馬を引いてきた人が、四日市宿の入り口でひと休みに利用したと聞く。ここの徳利は2合入りで有名だ。ここからは“志の田うどん”を晩御飯のおかずに取り寄せた。35円の蒲鉾、ネギ、揚げの乗ったシンプルなうどんだ。少し豪華になると50円の肉うどんやてんぷらうどんになる。映画を観に行くときは、親父が肉うどんを食べさせてくれた。風邪をひいたときは、鍋持参で素うどんを買いに行く。うどんが伸びるからと汁は別で持ち帰った。いつも“嶋口屋”の“志の田うどん”ばかりだったから、たまに変わったところで食べた。1号線に出たところに“ママ家”があった。ここでラーメンを食べに行った。しょうゆベースのシンプルなラーメンだった。打ち水がしてある店の外は、まぶしく光り、1号線を車が走っていった。

洋食の“ひふみ食堂”へは、小さい頃あまり出かけた記憶はない。オムライスがめっぽうおいしかった記憶がある。“ツルヤ洋菓子店”の鉄板スパゲッティを食べるのはもう少しあとになってからである。昭和38年頃のお正月2日の夜、ツルヤで濃縮ジュースを買い求めた。入口を入って左が2階へ上がる階段、右にはケーキが並ぶガラスケースで、バックには缶詰やジュースの瓶が並んでいた。店内は明るく近代的だった。

中央通り沿いの青苑で餃子を始めて食べた。

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新図書館構想 断念!

2024年05月23日 | おいらの商店街

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わが町 諏訪 その8

2024年05月21日 | レモン色の町

わたしが浜田小学校の小学生だった昭和30年代は、まだまだ貧しい家庭が多かった。というよりも、平均して貧しかった。学校を休んだ同級生に給食のコッペパンを届けた。雨の日、宮下君の家を訪れた。二階家の横の黒い板塀には、長いコンクリートのつっかえがしてあって、家の倒壊を防いでいた。入口の戸を開けると、部屋のいたるところに茶碗が並べられていて、ぽちゃんぽちゃんと雨粒が降っていた。当店近所の青木君の処は、板張りの倉庫のような建物に生活していて、その隅に畳が6枚ほど並べられ布団が敷いてあった。青木君の顔が青く見えた。

昭和30年頃の諏訪前 この先の右側が当店

我が家はどうだったかというと、決して裕福な暮らしではなかった。トマトを薄切りにしてソースをかけおかずにした。それが嫌いだった。大橋君の家に遊びに行く。そこでおやつにトマトが出た。薄く切ってあるところまでは我が家のトマトと同じだが、その上に信じられない量の砂糖が乗っていた。それでうれしかったことが忘れられない。そもそも 商売その他の家事に忙しいお袋は、食事を作るのがおおざっぱだった。ナスに切り身を入れ、焼いて醤油をかけただけとか、エンドウ豆を鍋一杯煮たりとか、豆腐は1丁なり鰹節と醤油をかけただけがメインだったり、きゅうりの漬物だけをおかずにしたこともあった。祭りにつくったちらし寿司が5日間ほど出たこともあった。まわりのご飯はパリパリだったので文句を言った。申し訳なかった。あとは近所の食堂からから取り寄せる“てんやもん”で済ませた。

“社宅”と云う居住地は比較的裕福であるという印象をもっていた。転勤族イコールエリートだった。商家はよその子供が出入りしようと無視であるが、社宅ではお母さんが居て、ちゃんとおやつを出してくれる。そこでは“おもちゃ”が豊富で、遊んだおもちゃが欲しくてたまらなかった。

昭和30年代は何もない時代で、何でも欲しい時代だった。それに応えるように まちなかは いろんな珍しい食や誘惑にあふれていた。

懐かしのオールディーズ(20選)女性歌手 (youtube.com)

(3) 懐かしのオールディーズ(20選)男性歌手 - YouTube

わたくしの大好きなコニーフランシス 哀愁がありますよね

「ボーイハント ~渚のデート」コニー フランシス Connie Francis (youtube.com)

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わが町 諏訪 その7

2024年05月20日 | レモン色の町

大人のBGM…今夜は昔なつかしいムードミュージックといえばベルト・ケンプフェルト!を楽しみましょか (youtube.com)

床屋の木戸くんちへもテレビを観に行った。店の奥に3畳ほどの部屋があって、高いところのテレビジョンは、店からもその部屋からもどちらからも観るようになっていた。小さな部屋で寝転んでの鑑賞は格別である。ここで“月光仮面”を観た。昭和33年のことである。全くの低予算で10分枠の放送だったが、視聴率が上がるにつれ、翌年は日曜日の午後7時からのゴールデンタイムの放送となった。その画像は今でも見ることができるが、お粗末なものだった。しかし、我々団塊の世代を含め当時の子供たちには大好評で映画化もされた。

宣弘社によるテレビ放送は、昭和33年2月24日からで、桑田次郎による漫画は“少年クラブ”に昭和33年5月号から連載が開始された。

当時のエピソードを読むと面白い。

月光仮面 - Wikipedia

あと、諏訪中央商店街(現:グリーンモール)の“せいちゃん”の処でもテレビジョンを観た。友達と4~5人で、「こわい こわい」と大騒ぎだった。そういえば学級委員の“せいちゃん”は“超こわがり”だったようだ。みんなで四日市劇場へ出かけた時も、仁木悦子原作の映画『猫は知っている』を観ていて、「こわいのでもう帰ろう」と言い出したのは“せいちゃん”だった。

堀木君の誕生日に“およばれ”した。その時観たテレビジョンは、相当初期の物だったような記憶がある。何とか写っているだけがやっとこさだった。それでも珍しがられた時代だった。当時、誕生日のお呼ばれは、“ええとこの家”だけの行事だった。お祝いを持たずに行ったのも、貧しい家の子の特権だったのか。

清水くんちも誕生日に呼ばれたことがある。清水君の家は、商人宿をしていたようだった。がらんとした部屋の上がり框に座り、荒地のような庭を観ながら座っていると、おかあさんが、自家製のちらし寿司を皿に盛ってやってきた。二人は僕たちの前に正座すると食べるのを最後まで眺めていた。清水君は食べなかった。お母さんも勿論、食べなかった。後でたんまり食べたのか?同じ寿司を食べたのか?もっと良いものを食べたのか?とにかく、その時は、居こごちの悪さを感じながら帰ってきた。子供の頃、誕生日の“およばれ”を受けたのは、その2件だけだった。どの家庭でも、子供可愛さに背伸びをしていた時代だったのだろう。おそらくそうだったのだろうと思う。

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わが町 諏訪 その6

2024年05月18日 | レモン色の町

「今年の秋のイベントまでには、とんま大使をメジャーにするように!」との至上命令が下り(どこからかわからない!)ミックスしてアップしていただきました。ご当人たちは楽しんでやっております。何事であれ それが何よりでゴザイマス。

四日市でウワサの“四日市とんま大使”とは?/四日市を掘り起こし!」 (youtube.com)

我が家にテレビが導入されたのは遅かった。それまでは、近所へ観に出かけていた。おもちゃの“ささや”さんには、早くから店の奥の高い棚にテレビがあった。昭和32年から33年迄『不二家の時間』は“マイティマウス”のマンガである。スーパーマンのネズミ版といったところで、午後6時から15分くらいの放送だった。「あー、これが終わると またあしたは学校か」とイヤーな気持ちでみていた。浜田小学校1年の時は仙田先生で、学級参観の時は、しわくちゃの笑顔だったが、親が居ないときは、ものすごい顔で怒っていた。あだ名を“せんだばばあ”とつけられていた。

同級生の清水さんは、私をいじめた。愛情の裏返しであったことを知ったのはズーッと後のことである。だから低学年の時は学校が嫌でしかたがなかった。

当時のテレビジョン よくぞこけなんだ

番組の15分が経過してマイティマウスが終わると、ささやのおばあさんが、「としや!ご飯やぞ」と呼ぶ。これがお家へ帰りなさい!の合図だった。

この画像はイメージでゴザイマス

同い年で幼稚園が一緒だった“テルミ君”の処にも早くからテレビがあった。店の奥の座敷でお父さんを交えてテレビ観戦をした。番組の内容は記憶にない。夜の(訂正:も)遅くなってきた(注:子供の感覚で)ので「もう帰る」というと、眠気の出てきたテルミ君は、「帰ったら あかん!」と駄々をこねだした。店番をしていた母親がやってきてなだめる。そんな困った記憶がある。

小さい頃から、帰る潮時というものを、しっかり勉強させられた。

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電気洗濯機史

2024年05月14日 | レモン色の町

とんま大使が、今話題のイーヤン・クロスポートへ潜入した!私の勝手な俗称!コンテナハウス!

「四日市とんま大使が紹介!/四日市の新スポット/E-YAN CROSS PORT」 (youtube.com)

我が家は早くから電気洗濯機を買い入れた。洗濯機が一番早く、トースター、冷蔵庫、掃除機、テレビジョンの順だった。おっかの力が強かったためと思われる。「おとうちゃん!男坊主がようけ居るで、洗濯もんがえらいことや。店も手伝わんならんし。洗濯機 買うて!」こうして我が家が買い入れたのは円形の洗濯機。中心に羽根が立っていて、右へ左へと動く。

昭和31年頃。この段階で結構使い込んである雰囲気だ。次に買い替えたのは、ローラーを手で回し、洗いあがった洗濯ものを絞る。遊んでいてゴムローラーに指が挟まり痛かった記憶がある。

次は二層式の洗濯機。左で洗い、右に移してドラムを回転させ水を切る。その後1層式になるが、なぜか水の無駄使いになると言う訳の分からない理屈で、おっかあは2層式の大ファンだった。

我が家にテレビジョンが来るのはずっと後のことで、それまでは日曜日の夜になると近所の店へ観に出歩いた。  つつく

オマケ:八百屋のしろちゃんと家の西南の角で遊ぶ。夕刻になると、塀の向こうを通勤の人が騒がしく通っていった。西隣の北勢堂からウエスタンの音楽が流れてくる。(昭和31年頃)

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人生エロエロ

2024年05月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

「四日市とんま大使が乱入!/沖縄料理・がちま家さん」 (youtube.com)

今回のお店訪問は、“がちま家”さんに飛び入りました。クリックしてみてください!

みうらじゅん氏の週刊文春に掲載の“人生エロエロ”というコラムをご存じあるか?この書籍は、強調しておくが図書館にあった本で、あくまでもわたくしの意に反して借りてきた書籍です。

人生の3分の2はいやらしいことをかんがえてきた。

ぼくは美大受験のために上京して1年が経とうとしていた。予備校で知り合った君は歳上で、女優の東てるみに似ていた。僕は浪人生の立場もすっかり忘れ、恋に落ち、童貞も落としてもらった。

ある夜、布団を出そうと押し入れを開けた時、ひた隠しにしていたSM雑誌群が同時になだれ落ちてきてちょうど君の膝のあたりで止まった。「友達が置いてきよったんや」と、必死に言い訳した僕に向かって君が言ったセリフ、

「縛ってもいいわよ」

でも僕は咄嗟(とっさ)に聞かなかったフリをした。

わたくし、二十歳くらいの時だった。サークル仲間の女性と二人で、名古屋へ滝沢 修の“ゴッホ”の舞台を観に行ったことがあった。なぜ二人だけで出かけたのか記憶にない。

劇中、全裸の女性がゴッホの絵のモデルをしているシーンなんかがあって、そこそこ興奮した。

その帰りに、電車の中で、彼女から「うちへ寄っていく?」と言われた。彼女は下宿のひとり暮らしであることは分かっていた。自分は、根はスケベだったが、女性崇拝の傾向が強く、思わず「帰る!」と言ってしまった。後で先輩に聞いたことは、「あの女はえらい御仁だぞ!」ということを聞き、まっすぐ帰ってよかったと思った。ま、普通は断りますよね!皆さんも、そんな 思い出深い 青春の危ない経験は、ございませんか?あんま あぶななかったか!

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