花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和初期の浜往還は?

2022年01月31日 | レモン色の町

岡野繁松先生の“旧四日市を語る”第一集より

大正11年8月の辻風景 南向き

東海道と浜往還の交差している場所を“辻”と呼んだ。辻を中心として北は北町で三滝川へ、南は南町から新田町を経て諏訪駅へ、西へ上ると西町の地蔵さん(明治橋の南下)へ、東は竪町・西中町・東中町・浜町へと商店が多く続き、辻の周辺は繁華街の感があった。
北町、南町は、東海道筋とあって遊郭、貸座敷、芸妓置屋などが軒を並べていてなまめかしさを感じさせた。肉屋、薬屋、呉服屋、小間物屋、下駄屋、そして医者ありで店舗が多かったわりには北町の夜は華やかな明るさはなかった。南町も同様だった。しかし、辻あたりになるとぐっと明るさを増した。

札ノ辻から東へ 竪町筋(昭和3年11月)ポンプ井戸と その東には まるや足袋店

西町は商店が多いわりに岡田屋の付近を除き夜は早くから暗い様に感じた。
辻から東にかけては商店が軒を並べていた。辻の北東角には大きな井戸があって、この一角だけが暗く、隣の“まるや足袋”の店の明るさと対照的であった。辻から東の“三味太楽器店”までは道幅はやや広かったが、“伊勢屋”からは狭くなり、その道幅は東中町の東端まで続いた。

西中町筋

中町筋は“中町銀座”と銘打っていたほど賑わいをみせ、その中心は“大正バザー”と“東洋バザー”であった。

実業会館から東へは道幅も少し広くなって浜町へと延びていたが、人通りも少なくなり夜の灯も消えたようであった。小学三年生の時だったか、先生に引率されて十二月の大売り出しの中町通りを見学した。

昭和2年中町銀座

昭和3年 御大典祝いの中町銀座

「歳末大売り出し」の幟の間を縫って歩き、チンドン屋に見とれたものだった。学校へ帰ってから図工の時間に町の様子を描いたが、みんなが幟ばかりを大きく描いていたのが頭に残っている。

東中町筋 山城屋が中央南側にあり その右に大正バザーが建つ  実業会館(四日市商工会議所)はその先(東)にあった

昭和10年 中町銀座通りの夜景

 

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戦前あった川村小路って?

2022年01月30日 | レモン色の町

平成元年に発刊された“旧四日市を語る”は、岡野繁松先生をはじめとする皆さんの“戦前の四日市”語りの場であった。全巻は、図書館で閲覧できるが、第1集から抜粋させていただいた。

湊座・・・新丁のすずらん通りにあった。前にある小屋で木戸銭を払うと、大人、小人と書いた木札を貰う。木戸でこの札を渡してはいる。下足番に下駄を渡すと下足札をくれる。こうして畳の桟敷に行く。舞台は額縁式で回り舞台、花道は本・副の二本あり、本格的な芝居小屋であった。西側には茶屋があり、お茶子が忙しく立ち働いていた。拍子木の音で幕が開き、閉まり、下ろされた。(後の四日市東宝劇場)

昭和3年の湊小路 正面に湊座が・・・

世界館・・・中町にあって明るかった。浅井さんという活動弁士がいた。この付近は情緒があった。

菊水館・・・中町の世界館の北にあり、下は商店で二階が劇場だった。劇場といっても寄席である。桟敷ではなく、畳が広いところに敷いてあるだけで、舞台もお粗末であった。ここで三年生の時だったか五銭出して童話を聞いたことがある。

弥生座・・・南町 西新地にあった。小林キネマ直営で、東亜、松竹を封切っていたようである。横に茶屋があった。

帝国館・・・幸町にあり、安くて映画が観られた。大人十銭、子供五銭だったと思う。情緒のある川村小路を抜けて映画を観に行った。(後の四日市劇場)

川村小路ってどこだろうか?

川村鉄工所沿いの道(郵便局から南へ入る)踏切には、ふみきりさん がいた。この地図は大正初期のもので、当時まだ帝国座はできていなかった。

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昭和4年3月の四日市地図②

2022年01月29日 | レモン色の町

<昭和4年四日市マップクイズ その2>

昨日のクイズの第2弾です。マップのどの位置にあるでしょうか?細かくて見づらい場合は前回の地図をご覧ください。

・大正バザー・・・札ノ辻を東へ、浜往還通りの“中町銀座”にあった“大正バザー”。洋館建ての建物は、賑わいの中心となるマーケットだった。竪町・中町通りに「銀座通り発展会」が結成されたのは、翌昭和5年のことである。

昭和2年

・湊座・・・大正3年4月9日、湊小路で賑わう“湊座”は、関西歌舞伎上演で新築落成した。4月17日より活動写真を上映している。映画は、フランスの文豪ユーゴ作“噫無常”。鑑賞料は一円で高額だった。昭和17年“四日市東宝劇場”となる。

湊座(椙山満氏所有)

・千歳橋・・・四日市港の第二期修築工事が完成した昭和11年3月25日、埋立地の千歳町で“国際振興大博覧会”が開催され、120万人の来場者が千歳橋を渡って訪れた。

・掖済会・・・明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。明治期までは海水浴というレジャーはなく、海水に浸かる行為は医療用とされていた。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場としては最初に開かれた場所で、明治41年この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんだ。

・諏訪駅・・・新田町の南端の東海道筋に線路を挟んで昭和4年に建てられたと言われている南と北の駅があった。線路は東海道と直角に通り、両駅舎とも東海道筋の西側で人通りが多かったので如何にも遠慮して建っているようだった。

・商業会議所・・・浜町から中町方向を望む。通称“中町銀座”にあった二階建ての洋館“商業会議所(実業会館)”は、明治38年に建てられた。

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昭和4年3月の四日市地図

2022年01月28日 | レモン色の町

昭和4年(戦前)の旧市街地図があったので掲載いたします。旧町名の記載になっております。

これだけではつまらないので、クイズにしてみました。お楽しみください 尚、字が細かくて読みずらい方は、四等分に拡大しました。

<昭和4年四日市マップクイズ その1>

下記の場所を地図の中から探し出してください。

  • 堀木停泊所・・・四日市鉄道の諏訪駅の次の停車場。田圃の中にポツンと小さな駅があって、すぐ北には斎場があった。昭和47年、西の大谷斎場へ移転され、ここには図書館が建てられた。
  • 演武場・・・諏訪公園の片隅に戦前建てられた。空襲後の昭和21年3月1日、四日市幼稚園がここへ移転してきた。
  • 崇顕寺・・・丹羽文雄生誕の寺。

2021年11月8日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

  • 女学院・・・四日市高等女学院は、明治32年に設立された市立裁縫学校の校舎を移設して明治34年に開校された。本科4年制で、明治39年から専攻科が出来た。戦災で焼失。
  • 世界館・・・明治40年頃、中町銀座にあった“旭座”が、大正4年5月1日、常設映画館の“世界館”に改名した。5月15日の演目は、『演劇:乃木明神霊験記。新派:生かさぬ仲。軍事活劇“獄屋の船”(弁士)と“競争” 外に実写、滑稽等優等写真数種』午後5時より1回上演。入場料:十銭。昭和20年空襲で焼失。
  • 昌栄橋・・・第一期築港工事で完成した末広町と尾上町との間に架かる橋。稲葉三右エ門翁を顕彰して、橋の北詰めに銅像が立てられたが、供出で撤去されている。
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昭和51年の弥生館は?

2022年01月26日 | レモン色の町

明治36年、東京の“浅草館”が、日本初の映画専門館として開業した頃、四日市に桟敷席の実演劇場“新地座”が出来ます(昭和35年1月)。地方に映画館が出来るのは後のことになります。大正10年10月1日になると新地座は、新興キネマ系の“弥生座”で出発、畳敷きとなります。昭和10年には“弥生館”となり、県内で映画館の老舗は伊勢の“世界館”とここだけでした。創業者の鈴木啓吉氏は、四日市の生まれ。戦後は県議会議員として活躍、県の興行環境衛生組合の初代理事長を務めています。

昭和20年の空襲を受けるも即再建し、昭和31年3月になると、新東宝上映の「ぼたん劇場」を併設。昭和51年には大改修しました。県下初の集中映写方式でシネコンの先駆けとなります。弥生館は、山口百恵の“風立ちぬ”、四日市スカラ座は三船敏郎の“ミッドウェイ”、ぼたん劇場は“特選各社映画”でオープンしました。ぼたん劇場は、その後“弥生館2”となります。しかし、時代の波には勝てず、平成9年2月28日“ニューシネマパラダイス”で劇場の幕を閉じました。

昭和40年代から映画界は下降線をたどり始めます。弥生館が大改修をした昭和51年、どんな作品が上映されているのでしょうか?

松竹唯一のドル箱、寅さんシリーズの“男はつらいよ 葛飾立志篇”と“男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け”で絶好調。東宝は、“続・人間革命”、“不毛地帯”、“犬神家の一族”。山口百恵の“絶唱”“エデンの海”“風立ちぬ”の3作品がヒット、文芸路線を確立しました。

東映は、トラック野郎シリーズの“トラック野郎・爆走一番星”と“トラック野郎・望郷一番星”、春と夏のまんがまつりは安定しています。キネマ旬報は、ヤクザ路線の低迷について、観客に飽きられたこと、広域暴力団壊滅運動の影響、社会が明るい映画を求めていることを理由に挙げています。

日活は、“嗚呼!!花の応援団”が大ヒット。昭和46年に幕を開けた、ロマンポルノは安定していましたが、今後の伸びが期待できない頭打ち状態のため、ポルノ一本やりから一般映画も混じえた配給に方針を転換しています。昭和63年になると、日活ロマンポルノも終焉を迎えます。

洋画では“ジョーズ”がヒット。上映権を得た中映では、座席を改装しています。他に私のお気に入り、ジャック・ニコルソンの“カッコーの巣の上で”“ミッドウェイ”

“オーメン”。“エマニエル婦人”のヒットに続く“続エマニエル婦人”が上映されています。ウィキペディアより

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昭和32年の四日市グランドとシネマは?

2022年01月25日 | レモン色の町

現在のスターアイランド跡地(現 図書館建設予定地)に、近鉄興業が四日市シネマと四日市グランドをオープンさせたのは、昭和32年9月23日のことでした。近鉄四日市駅が出来て1年後のことです。駅前に70メートル道路が敷かれ、オカダヤが進出するなど、北側には商店街が形成されつつありました。

大映の大作「釈迦」の上映中(昭和36年)です

昭和32年の開館記念に上映された作品は何だったのか?小学2年生でしたのでほとんど記憶にありません。この年、洋画では“十二人の怒れる男”(=三重劇か?)“戦場に架ける橋”、邦画では東宝の“地球防衛軍”(=弥生館)日活の“嵐を呼ぶ男”(=四日市日活)が封切られていますが、シネマ上映の可能性は“戦場に架ける橋”だったでしょうか?

地球防衛軍 真ん中に小さくモゲラが立っています

当初、我が家の横にずらり並んだ映画の看板にグランドとシネマはありませんでした。向かいの小沢さん側に立ったのです。「必ず、こちら側に立ててみせる」というお袋の固い信念に妥協する如く、やがて我が家側に移りました。つまり、招待券が入るようになったという事です。

ベンハーのチャールトン・ヘストン

“ベンハー”が四日市シネマで封切られたのは昭和35年、これは学校から出かけました。大映の大作“釈迦”は昭和36年のことです。駅前の劇場入口に大きな描き絵の看板が立てられました。

大映オールスターの釈迦

館内各700席を誇る県下一の大劇場にふさわしい作品が上映されました。その後、中学 高校とこの二館にはよく通いました。シネマは、007シリーズ。昭和41年に観た“サンダーボール作戦”は、お正月興行の満席状態でスクリーンのすぐ下で立ち観をしました。まだ、娯楽の王座は映画だったのです。グランドは、松竹の寅さん、大映の眠狂四郎や座頭市シリーズで、市川雷蔵の眠狂四郎は、少しエッチなだけに楽しみでした。仲代達也主演の“人間の条件”6部作が9時間一挙に公開されたのは昭和43年のこと、丸一日がかりの鑑賞でした。終わる頃には、隣席の他人と友達になっていたものです。

昭和40年代になると、テレビの普及と娯楽の多様化で、映画産業は下降線を辿り始めます。東映は時代劇から任侠路線に移り、大型劇場も維持が難しくなって、昭和59年7月25日、グランド、シネマは閉館。ベガ・スピカ・リゲルに移ります。

大脱走 スティーブ・マックイーンはスタント無しでバイクを走らせた

昭和38年と39年のヒット作品を列記します。如何に映画が生活と密着してしていたか、馴染みの深い作品が並びます。

<昭和38年>邦画:“にっぽん昆虫記”・“武士道残酷物語”・“宮本武蔵 一乗寺の決闘”・“五番町夕霧楼”・“新吾二十番勝負”

洋画:“史上最大の作戦”・“アラビアのロレンス”・“大脱走”・“クレオパトラ”・“地下室のメロディ”

<昭和39年>邦画:“東京オリンピック”・“愛と死を見つめて”・“越後つついし不親知”・“香華”・“怪談”

洋画:“マイフェアレディ”・“007危機一髪”・“ローマ帝国の滅亡”・“シャレード”・“大列車作戦”

マイフェアレディのオードリー・ヘプパーン

殆どの作品をDVDで鑑賞できます。良い時代に生まれたものです。

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平成9年の弥生館は?

2022年01月24日 | レモン色の町

<再掲載で申し訳ありません>

福ちゃんとヤナさんのお手伝いで、商店街新聞を作っていたのは平成9年頃、ここに弥生館のことが載っていました。

屁呂之進さんとは ひろっさんのことです。こう云っても誰やらわからないと思います。

今や時効となっていますが、1番街さんのコピー機を使っていて、ページの順番を間違え、多量の無駄紙が出来てしまった思い出があります。恐る恐る福ちゃんに報告したら「ええやんか」という簡単な返事のお許しをいただきました。懐かしいデス1

 

 

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昭和43年 お正月の映画館は?

2022年01月22日 | レモン色の町

昭和43年1月3日の中日新聞です。映画欄の上に、寿観光さんとトルコセンターさんの広告が目に付きます。トルコセンターさんには“スモッグの工都に新魅力”とあります。四日市公害の結審が下りたのは昭和47年ですから、この頃は、四日市の空はスモッグが覆っていた頃でしょう。また、この年は市制70周年にあたり、中央緑地に体育館が完成しています。全国では、川端康成がノーベル文学賞を取り、12月に東京 府中の3億円事件が起こりました。いざなぎ景気が続き、成田空港建設反対運動が、マスコミを騒がした頃です。

四日市シネマでは、“荒野の用心棒”(昭和47年公開)のヒットに続き“夕陽のガンマン”の続編“続 夕陽のガンマン 地獄の決闘”の上映中です。黒澤明監督の“用心棒”(昭和36年)をセルジオ・レオーネ監督がリメイクしたのをきっかけとして、マカロニウエスタンブームが続きます。

チャールトンヘストンの“十戒”は封切りが、昭和31年ですから、宝塚劇場では、再映か再再映だったのでしょう。3時間45分という大作です。上映も日に3回で、9:35・13:40・17:45からでした。通常の2本立てでは4回転だったと思います。

大映(四日市グランド)は“座頭市シリーズ”、東宝(弥生館)は、加山雄三の“若大将シリーズ”と植木等を持ってきています。中映での“ミクロの決死圏”は、昭和41年の封切りですから、正月興行として話題作を再映で持って来たようです。医者のチームが、小さくなって体内に入り、手術をするというSFでした。

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昭和38年 お正月の映画館は?

2022年01月21日 | レモン色の町

昭和38年は、名四国道が開通した年であり、四日市市がロングビーチ市と姉妹都市提携を結んだ年でもありました。お正月の映画興行はどうだったでしょうか?テレビの普及で、昭和四〇年代になると、映画界は下火に向かいました。

東映は、この先ヤクザ路線へと入ります。四日市シネマは、ウエスト・サイド物語、三重劇は、世界残酷物語を上映中です。お正月だけあって』、話題作が並びます。

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映画館跡ツアー

2022年01月19日 | レモン色の町

四日市劇場跡にて、2018年「伊勢新聞」に掲載していただきました

例年3月には、男の囲炉裏端様にはお世話になっております「懐かしの映画館跡巡り」シリーズ、2017年第1回が始まって、映画館跡巡りは、今年で5回目のお世話になりますか・・・。毎回お越しの方もお見えです。さて、今年は、どんな趣向にいたしますやら。

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