花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

増加と減少を辿った園児

2025年04月08日 | レモン色の町

四日市幼稚園の沿革

春は菜の花やレンゲ畑の風に吹かれて海山道さんや垂坂山に遠足に出かけた。」椙山満著“四日市市史より

昭和28年10月11日 415名の児童で行われた運動会 北条グランドと思われる

・・・5月には伊倉のいちご狩りに、七夕は笹の飾り物。夏は午起の潮干狩り。秋の運動会は第五小学校の校庭を使わせてもらう。年の瀬が来ると玉柳に初日の出や福の神や打ち出の小槌がヒラヒラぶら下がって,子供なりにも年末のあわただしさを感ずるなど、四日市幼稚園の頃の私にとって日々は、魔法の筆で彩られた双六の絵のように、楽しく続いて行ったものであった。」昭和八年卒・椙山 満

.遡ること、明治28年10月1日 幼児が小学校へ入るための予備教育の必要性が町民の間に高まり、これに応えて新丁 不動寺の一部を借用して四日市町立幼稚園が設立された。東海地区では最初の公立幼稚園だった。

.明治30年8月1日。園児の増加で、旧市役所の西側の四日市裁縫女学校内に移転。ところがこの建物が不十分であったため明治32年4月から約1年間休園となる。

.翌年の明治33年5月、改築された園舎にて再開。既に四日市は市制が敷かれており、市立四日市幼稚園としての再出発となる。

.明治37年6月4日、旧市役所東に開校の四日市市立高等女学校(現:四日市中部西小学校)の東北隅に新築移転する。

.益々の園児増加で、高等女学校の北側へ新築移転。

⑥.大正13年9月20日。大正の好景気で園児は増加、第五小学校(現:中央小学校)の敷地内に園舎を建てて移転した。大正15年4月22日。「幼稚園令」が施行され、保育五項目(遊戯・唱歌・談話・手技・観察)が取り入れられ保育は充実した。

.昭和20年6月18日 空襲による園舎消失のため一時閉鎖

<空襲の夜>昭和20年6月18日午前0時30分頃、空襲警報が発令された。この時、焼夷弾の中、園に到達した職員は2名。壹岐園長と共に重要書類を運び出すが、火の手は園舎に広がり、職員は避難させて防火を続けた園長は、遂に殉死された。

昭和21年3月 終戦直後の卒園式 幼稚園の前にあった誓いの御柱にて

.昭和21年3月1日、諏訪公園北西の演武場跡を借りて園児32名で再開。27年には入口に2階建て保育室を増設している。

昭和33年の春の遊戯会

.消防署北側へ移転、令和7年の閉園まで続く。

よく読み聞かせていただいたキンダーブック(昭和30年~34年の本 平田正男氏蔵)

明治28年に造られた幼稚園は、空襲で一時閉鎖されたものの、入園希望者は、大正から昭和にかけて増加の一途を辿り、移転と新築を繰り返している。立地に恵まれた街の子であればこそ通園が出来た。しかし、児童の減少と保育所の増加に太刀打ちは出来ず閉園となった。園児の通園圏は狭く、必死でバスの送迎をする私立保育園には叶わなかった結果だと思う。  四日市市史 ふるさと点描 椙山 満氏著より

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涙を流して ピアノを弾いた

2025年04月06日 | レモン色の町

四日市幼稚園の沿革 - 花の四日市スワマエ商店街

昭和29年春、母親に手を引かれて諏訪公園西の四日市幼稚園に入園する。この年、急増する園児数に対応しきれなくなり5歳、6歳の二年保育は廃止となった。既に、前年の入園者数は415名。飽和状態だった。

右端が担任の先生。左端が園長先生

この時の入園者数は約40名。前年からの繰り延べ組がいたから、数に制限があったのかもしれない。幼稚園から狭き門であった。

弁当籠を下げて登園する園児 昭和34年5月21日 辻 俊文氏撮影

翌日から青い色の竹かごに弁当を入れて登園する。冬場はそれをストーブで温める。弁当の時間になると忘れ難い臭気が部屋中に充満した。

優しい先生であった。キンダーブックの絵本を読み聞かせてくれたり、ピーターと狼のレコードをかけたりしてくれた。

秋は海山道神社へどんぐり拾いに出かけた。持って帰って“やじろべい”を作った。そのほとんどがうまく出来ずにゴミと化した。

卒園式を控えて浦島太郎の劇をする。浦島太郎に抜擢された私は腰蓑をつけて玉手箱を開ける。玉手箱の中にはお面が入っていて、口にくわえて顔を上げると老人になるという趣向だった。この腰蓑が嫌で数人の先生を困らせた。

卒園式の日、担任の優しい先生は涙を流してピアノを弾いた。涙の意味が分からなかった。

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軽便鉄道 終着駅

2025年04月04日 | レモン色の町

お天気だったので いなべ市へ桜を見に出かけた。十数年前 親父の除籍謄本をもらいに阿下喜へ来た。

そして、員弁の藤原岳は大橋屋敷跡で紹介したことを思い出す。

2023年4月28日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

いなべの阿下喜駅は、北勢線の終着駅。

駅舎もレトロ風に改修され 黄色い列車が出発を待っていた。西桑名駅から運賃510円

その横には記念館があって 転車台と昔の車両が展示されていた。

北勢線は四日市の軽便鉄道より取り組みは少し遅く 昭和になってからだ

転車台は おもちゃの鉄道模型のようでかわいらしい

さくらは七分咲きで 藤原岳山頂にはまだ雪が残り 山から来る風は冷たい。この日 はるか先の伊吹山では スカイライン開通に向けての除雪作業が 急ピッチに進められていると聞いた。

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ベストテン!番外編 ①

2025年03月27日 | レモン色の町

このところ 一気に急上昇。それは、月光仮面は誰でしょう!

昭和30年代クイズ ③月光仮面の正体は! - 花の四日市スワマエ商店街

ボクラのヒーロー代集合!月光仮面の遊び方 - 花の四日市スワマエ商店街

月光仮面プロマイド集 その一 月光仮面とどくろ仮面

ぼくら団塊の世代にとって月光仮面は正義の味方、ヒーローでした。いまだ家庭にテレビがあるかないかの時代に、テーマ曲と共にオートバイに乗って出現する月光仮面は、ワクワクする至福の瞬間でした。

月光仮面プロマイド集 その二 普通のオートバイと月光仮面

床屋の木戸くんちに出かけ、店の隅に取り付けてあるテレビジョンの、すぐ下の三畳の部屋に寝転んで始まるのを待ちます。細かい内容はあまり理解してなかったでしょう。とにかく”観ました”と云う満足感だけで帰路に就いたと思います。

月光仮面プロマイド集 その三 普通のオートバイとおもちゃのピストルを構える月光仮面

最後に月光仮面が仮面を取るシーンがありました。しかしその正体を見た男は断崖から墜落死をして、遂に真の顔を知る者は、いませんでした。月光仮面は 誰でしょう~♪    つづく

 

 

 

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稚拙ブログベストテン!第1位

2025年03月24日 | レモン色の町

さて、いよいよ第1位の発表です。1位は“昭和の食と商店街 明治オレンジジュース 2017.10.2”です。

2017年10月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

このサイトがなぜアクセス回数が飛び抜けて多いのか?良く分かりません。

明治天然オレンジジュースは、昭和29年4月28日東京地区限定で発売されました。当時は缶切りで穴をあけていて、写真の缶ジュースには穴あけがついていません。

サッポロビール新発売の広告にも、缶切りで穴をあけた様子が伺えます。

各家庭に缶切りは必需品で様々な形がありましたが、子供にとって缶詰を開けるのは大変な苦労が必要でした。弁当のおかずに缶詰を持参したことがありましたが、缶切りも持って行ったのでしょうか?

やがてプルトップ式の缶ジュースが発売されることになりますが、自販機の前には抜き取った無数のプルトップ金具が散乱することになりました。

かくして、現在の形になった訳ですが、缶詰の缶を巡って様々の知恵と工夫が展開されたことになります。ま、便利になったものです。缶切りなしで缶詰を楽しむことができるのですから。

ベストテンを 終わるのは惜しいので、次回は番外編を発表することにいたします。

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一枚の写真シーズン2 ⑭ どくろ仮面の回答

2025年03月02日 | レモン色の町

2025年2月16日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 月光仮面からの宿題!とは?

怪獣アゴンは四日市でロケをしていたと思われるシーンが多数あった。Kさんに「怪獣アゴン」をみせていただき確認した。それは何処だったか?

このシーンはKさんが学生時代に走り回っていた場所、大協石油正門であるに違いないと話された。

これは、正面に大協石油の煙突がみえるので、三滝川あたりで、堤防沿いに東向きに撮られたのだろう。

これが分からない。感じでは、日本板硝子の前を南向きに撮ったと思う。先日、車で走ってみたが、時代が経っているので、建物の様子はすっかり変わっている。

昭和43年お正月のテレビ放送

この風景は、昭和35年に日活映画「電光石火の男」の次のシーンに似てはいないだろうか?

昭和35年5月14日封切りの映画 どうやら曙町らしい?

8年ほどの隔たりを考慮に入れて・・・似ておりませんか。がっくり! Kさんの感想をお聞きしようと思っておりますが、まだ連絡が取れません。

さて次回は、私の過去のブログからベスト10を発表いたします。乞うご期待!

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一枚の写真シーズン2 ⑱ 迎え撃つ秋草新太郎

2025年03月01日 | レモン色の町

辻俊文さんが昭和33年7月24日この場所で35ミリカメラを構えました

ここは、四日市の赤線地帯(訂正:数か月前までは赤線地帯でした) 港楽園です。子供たちと草野球を楽しむスナックのお姉さん方。

左に建つのは バー加茂。売春禁止法が施行されたのは、昭和33年4月1日のことでした。

どうしても思い出すのが昭和28年発行の名古屋タイムスの記事です。そこには、飲食店街へと賑わいをみせる諏訪のまちの様子が記録されていました。

諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後(満州からの引き揚げ者用の住居と聞いた)、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい(つまり赤線地帯)。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。(文・川太郎)

売春禁止法施行以来、赤線地帯は、飲食店や待ち合い旅館へと変貌していきました、街の賑わいはそのままに・・・。

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またまたまた又 閑話休題かいッ!

2025年02月28日 | レモン色の町

大変申し訳ありませんが 昭和のま~君の動画をご覧いただければ うれしいと感じる次第です 

Bing 動画

たった一度のご無理を どうかお聞きいただきますようにお願いいたします。かしこ

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一枚の写真シーズン2 ⑱ 甲賀竜四郎の挑戦

2025年02月26日 | レモン色の町

甲賀13人衆・・・やったかなぁ?のひとり甲賀竜太郎からの問題でアリマス

さーて ここは何時頃のどーこか? ヒントは「バー加茂」・・・バー  カモン! エエッ!バカモンとちゃいまっせぃ

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一枚の写真シーズン2 ⑰ その時 七色仮面は答えた

2025年02月24日 | レモン色の町

垂坂山に立つ「遥拝の碑」のお答えです。出題の写真は、下総人様が富田のウエブサイトを見つけていただき、ここからの盗用であることを思い出しました。

当時、木々の茂りはなかったようです

遠足で出かけた垂坂山がきっかけとなり、壬申の乱へと広がりを見せてワクワクしながら思いを馳せた記憶があります。

発見!垂坂山遥拝の碑 - 花の四日市スワマエ商店街

壬申の乱とくるべ遺跡 - 花の四日市スワマエ商店街

壬申の乱とくるべ遺跡 ② - 花の四日市スワマエ商店街

徘徊する天武天皇 - 花の四日市スワマエ商店街

徘徊の謎は解けるのか? - 花の四日市スワマエ商店街  よろしければご覧ください。

さて、幼少の頃に風邪をひいたときはどうしたか?というお題です。

小さい頃は、しばしば風邪を引いた。病気で学校を休むなどとんでもないことで、家の陰から集団登校する友達を見送っていた。夕刻近くになると友達が学校の帰りに給食のパンを届けてくれた。

さて、風邪をひくと裏の早川薬局で“タウリンエキス”を買ってくる。箱にガラスの容器で6本ほど入っている。付属のハート形ヤスリで首のところを擦り、親指をかけてポンと割ったらストローで飲む。これが難しかった。風呂は休み。前の嶋口屋へ鍋を持参して素うどんを買ってくる。熱いうちにうどんを食べたら布団をかぶって寝る。熱が高い時には頭に氷嚢を乗せる。深夜、汗がどっと出たら「熱が下がった」と喜んでシャツを着替える。

やや重症の時。1号線沿いの角に川村薬局があった。店に入るとお爺さんが友達と碁を指していて、「熱があって、頭が痛くて、咳が出る」とお袋に言われた通りに告げると、お爺さんは名残惜しそうに碁盤を眺めながら調剤室へ入り、瓶から粉を取り出してはかりにかけて小さな紙に分けて積み分ける。大切に家に持って帰ると、さっそく粉薬をオブラートに包んで飲んだ。このオブラートがなかなかの曲者で、口へ入れてもたもたしていると破れて苦い薬が口中に広がる。こんな時は葛湯を作ってもらう。熱湯を入れないと透明にならない。砂糖を入れて完成だが、あまりおいしいとは思えなかった。

沖の島の森医院へも連れて行かれた。お袋の後をついて諏訪新道をタラタラ歩くと15分は掛かる。扉を開けて三和土で履物を脱ぐと、先客さんらの目が一斉にこちらを向く。小窓で受付を済ませ畳敷きの隅で熱を測って待つ。やがて来る注射が恐ろしくて神妙に待った。

前出の川村薬局の息子さんが、その後に川村医院を開設した。午後は往診に回ってくれた。“罹りつけ医”そのものである。先生の診断を思い出す。「なあ、風邪やろ?風邪やなぁ?風邪の薬だしとくわ!」

今や 川村先生も亡くなり、森医院跡地も駐車場になり面影はない。思えば、小さい頃はよく風邪をひいた。

 

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