甲賀13人衆・・・やったかなぁ?のひとり甲賀竜太郎からの問題でアリマス
さーて ここは何時頃のどーこか? ヒントは「バー加茂」・・・バー カモン! エエッ!バカモンとちゃいまっせぃ
甲賀13人衆・・・やったかなぁ?のひとり甲賀竜太郎からの問題でアリマス
さーて ここは何時頃のどーこか? ヒントは「バー加茂」・・・バー カモン! エエッ!バカモンとちゃいまっせぃ
垂坂山に立つ「遥拝の碑」のお答えです。出題の写真は、下総人様が富田のウエブサイトを見つけていただき、ここからの盗用であることを思い出しました。
当時、木々の茂りはなかったようです
遠足で出かけた垂坂山がきっかけとなり、壬申の乱へと広がりを見せてワクワクしながら思いを馳せた記憶があります。
徘徊の謎は解けるのか? - 花の四日市スワマエ商店街 よろしければご覧ください。
さて、幼少の頃に風邪をひいたときはどうしたか?というお題です。
小さい頃は、しばしば風邪を引いた。病気で学校を休むなどとんでもないことで、家の陰から集団登校する友達を見送っていた。夕刻近くになると友達が学校の帰りに給食のパンを届けてくれた。
さて、風邪をひくと裏の早川薬局で“タウリンエキス”を買ってくる。箱にガラスの容器で6本ほど入っている。付属のハート形ヤスリで首のところを擦り、親指をかけてポンと割ったらストローで飲む。これが難しかった。風呂は休み。前の嶋口屋へ鍋を持参して素うどんを買ってくる。熱いうちにうどんを食べたら布団をかぶって寝る。熱が高い時には頭に氷嚢を乗せる。深夜、汗がどっと出たら「熱が下がった」と喜んでシャツを着替える。
やや重症の時。1号線沿いの角に川村薬局があった。店に入るとお爺さんが友達と碁を指していて、「熱があって、頭が痛くて、咳が出る」とお袋に言われた通りに告げると、お爺さんは名残惜しそうに碁盤を眺めながら調剤室へ入り、瓶から粉を取り出してはかりにかけて小さな紙に分けて積み分ける。大切に家に持って帰ると、さっそく粉薬をオブラートに包んで飲んだ。このオブラートがなかなかの曲者で、口へ入れてもたもたしていると破れて苦い薬が口中に広がる。こんな時は葛湯を作ってもらう。熱湯を入れないと透明にならない。砂糖を入れて完成だが、あまりおいしいとは思えなかった。
沖の島の森医院へも連れて行かれた。お袋の後をついて諏訪新道をタラタラ歩くと15分は掛かる。扉を開けて三和土で履物を脱ぐと、先客さんらの目が一斉にこちらを向く。小窓で受付を済ませ畳敷きの隅で熱を測って待つ。やがて来る注射が恐ろしくて神妙に待った。
前出の川村薬局の息子さんが、その後に川村医院を開設した。午後は往診に回ってくれた。“罹りつけ医”そのものである。先生の診断を思い出す。「なあ、風邪やろ?風邪やなぁ?風邪の薬だしとくわ!」
今や 川村先生も亡くなり、森医院跡地も駐車場になり面影はない。思えば、小さい頃はよく風邪をひいた。
本日、ひろ助東海道と四日市東海道がコラボして東海道四日市のイベントが開かれました。
東海道沿いに巨大幕(富田 焼蛤・四日市 三重川・追分の鳥居・采女の杖突坂)と、北と南にひろ助東海道の計6枚を吊り下げていただき、郷土史家の前田憲司さんと小鈴さんに この浮世絵を見ながら説明をお聞きしました。
他に、風船堂の佐藤さん(久方ぶりです)や、りんご飴やベビーカステラ等の出店もあって、賑わったお諏訪さん市となりました。
大勢の方で東海道沿いはにぎわいました。北岡様、長谷川様、前田先生、佐藤様、堀木様その他、皆様のご協力のたまものでした。寒い中、本当にありがとうございました。
君はコブラ仮面を知っちょるか?では、挑戦状を受けたのは だれか?
ハハハハハッ これだけでも問題として充分じゃないか?諸君!
さて、お待ちかね 今日の問題じゃ
山の上ですね 由緒正しい山なんです これが・・
スビバセン 何処からの引用か 記憶があいまいです この中の大ぜいの皆さんの中には 今、老人となっておみえの方もご存命とお察し申し上げます。教えていただけるとありがたいのですが・・・
店頭に巨大行燈
巨大暖簾(ここは東街道:訂正 東海道)が下がります
エリアプラットホーム四日市さま、諏訪栄地区まちづくり協議会さま、四日市市商店街活性化イベント事業補助金さま、皆様のご尽力で巨大暖簾6枚と巨大行燈二基を、商店街東海道沿いに装飾していただきました。明2月23日は、東海道でのイベントを開いていただく予定でゴザイマス。おおきに おおきに
「ハハハハハ! 紅こうもり君からの問題は じつに簡単だった」
中町 昭和8年~19年 樹林舎刊 四日市の今昔 より 水谷宜夫氏 提供
旧東海道と交差し(浜往還)当時は中町銀座と呼ばれて多くの店舗が軒を連ねていた。西方を望むこの写真の、最奥には老舗御菓子屋『栄昌堂』がある。
昭和13年の地図
ここは東海道の札ノ辻から港へ伸びる「浜往還」。東海道と並んで最も賑わいのある通りだった。中町銀座も当時は西中町と東中町があったのだ。
増田武夫氏による浜往還 昭和3年
注目すべきは、写真中央にドッカリと建つマーケット「大正バザー」。キリンビールや玉突きの看板もあるところから、マーケット以上の店舗だった。しかし、戦争の激化と共に閉店の命令が下された。店内を見たかった!
「前回の月光仮面からの質問は、ひとまず宿題といたします」曰く、どくろ仮面。
ここは(曙町?)
いったい(大協石油?)
どこでせう(日本板硝子前?)
ということで、紅こうもりからの質問です。
ここは、いつの どこでしょう?「わかるかな?まぼろし探偵くん」
だれですか?『リスク体温計』と読む人は?
だれですか?『伊藤は 着物』と読む人は?
Kさんからの情報。『幻の大怪獣 アゴン』には、四日市ロケが敢行された風景が所々に見受けられるというものだった。
『幻の大怪獣 アゴン』は、昭和39年 『ウルトラQ』と同時期に製作されたが、提供がつかずそのままお蔵入り、ようやく昭和43年お正月番組として1月2日~5日フジテレビ系で4回に分けて放送された。
幻の日本特撮怪獣ドラマ“アゴン”。40年の歳月を経て、遂にDVD化。深海より突如出現し、放射能物質を求め、咆哮する大怪獣アゴン。迎え撃つ自衛隊との行き詰まる攻防戦。そして日本は炎と化した!ゴジラとパターンが似ております。
アゴン登場!阿含宗とは関係ありません!アトミック ドラゴンからきているそうです。
尾上町に住んで居たKさんは、小学6年生の頃自転車であちこちを走り回った。そのため当時の下の画像にある原子力研究所は、大協石油正門の風景に違いないとおっしゃる。
スポーツカーで入る
正門看板が付け替えられている
続いて諏訪新道を西から東へ疾走するパトカー。
タカラヤ家具店のビルから三﨑屋、長谷川洋服店、岩崎ミシン店
福田メガネ、酒重・・・
服部教育品店
谷楽器店、岡本総本店と並ぶ
映画 電光石火の男より
鞄のタケコシ角でパトカーを見に出る人々
パトカーは諏訪新道を左から右へ走り抜ける(昭和43年マップ)
ところで、次に出る風景は何処だろう?忘れていてはなりませんゾ 月光仮面からの問題です
さてこの風景は?電光石化の男によく似た景色が出ていたような?手前の白い建物は社宅?とすると曙町か?
パイプが渡されているが 何処か?
日本板硝子前の通りか?
三滝川南側の堤防のようにも見える
三滝川河口の南側付近、大協石油付近のロケが多いような気が致しますが・・・・
相合橋ではなくて、相生橋でした。
大正13年西詰
高砂町と袋町の間の納屋運河に架けられた相生橋は、港新道(12間道路)の完成と同時の大正13年10月に竣工した。中央部の車道は砂利だけで未舗装、両側の人道は板張りのまま。対岸の白い洋館九鬼紋十郎氏邸。明治23年創設の初代相生橋は、このすぐ右手(北側)に架かっていたので、対岸に橋の跡と、旧袋町の狭い通りの入り口が見える。
相生橋が出来たのは明治23年でした。稲葉翁の築港事業も一段落、市の四大事業で諏訪新道が敷かれることとなります。諏訪神社から四日市驛までは順調でしたが、四日市驛から相生橋までの十二間道路は大正期の完成となります。
明治39年の消印がある相生橋(ロシア兵)俘虜通過の光景 水谷宜夫氏提供
昭和35年の日活ロケの風景
電光石火の男
現在の相生橋です
昭和40年8月5日には、駅西にあったはずの「労働基準監督所」。この建物の西側を通って中部中学校へ通学(昭和36年~昭和39年)していたので、それらしき建物の記憶はある。早速、たいじゅさんからメールがあり、調べていただいた。おつきあい、ありがとうございました。
右に建つ2階建てが監督所・・・昭和40年8月撮影とあった。
『労働基準監督署』は昭和30年~35年まで浜町にあったが、昭和36年に表記がかわり「四日市市都市計画復興土地区割整理地内」となり、推測ではこの時、この場所に移転しているのではないだろうか。 昭和42年になって『諏訪西441-2番』の記載が確認できる。そして、昭和46年になると高架事業の為か西浦へ引っ越すが、その間の10年ほどが、駅西にあったと推察される。
昭和43年の住宅マップより
労働基準監督署が昭和36年から46年まで建っていた。ここで大きな勘違いを思い出してしまった。
昭和43年の住宅地図
労働基準監督署はもっと北にあった。ヒェーッ!これで謎が解けた。すべて私の勘違いだった。ゴメンね ゴメンね ゴメンして チョーダイ すると、労働基準監督署と勘違いしていた(駅の敷地内に建っていた)のは三重交通の建物だったか? 敷地内だから地図に記載がなかったのだ!
(勝手に)気分を変えて 昨日の中日新聞に穴太のことが出ていた
ここで気付いたのは「・・昔は(穴太(あのう)には)七堂伽藍が立ち並んでいた・・」の記述である。北勢線の中間駅であり、桑名と阿下喜間の途中に位置する田舎かな?くらいにしか印象がなかったが、歴史があって寺院が乱立する境内では、さぞや地元のヤクザによる博打が盛んだったのだろう。そんな金の臭いのする土地なら、穴太徳が生まれて当然と思った。穴太徳は後に、鈴鹿の荒神山で吉良の仁吉と一戦交えることになります。
余談が過ぎました。さて、今日のお題は
ヒント:対岸に見える白亜のお屋敷は、九鬼門十郎(訂正:紋十郎)氏が邸宅 さて、いつのどこか?
先ほど写真を撮ってまいりました
初代諏訪駅跡を東進する下り列車
電車の後方に見える二代目諏訪駅を出発して四日市駅(現:JR四日市駅)へ向かう緩行列車。二代目諏訪駅は昭和17年~31年まで使用された。現在のスーパーサンシ付近から(昭和31年撮影吉田 勬氏)樹林舎刊「四日市の昭和」より
彼方に見えるのは「北岡時計店」さん。踏切の側には時計塔が立っていたとお聞きしました。遥かにまあるく見えるのは、時計塔ではないかと思います。こうして眺めるとゆっくりカーブしていたんですね。一番街の真ん中を電車が走っていたことを話すと、驚く方が見えます。随分昔のことになりますから・・・。
初代諏訪駅跡と書かれていますが、昭和17年以前は、東海道沿いに諏訪驛はありました。旧四日市を語るに諏訪驛の様子が描かれています。