花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市祭り その14 今昔話⑪

2022年08月29日 | レモン色の町

明治42年発行の「四日市祭案内記」より(意訳)

県社諏訪神社大祭は、9月25日に始まり、27日に終わる先例で、神社にて、25日に西町へ神輿渡御の式が行われた。26日還御(神社へ戻り)、27日三重県より祝いの出向があり、神社で式の後、昼夜神楽の音絶えず、最も殷賑であった。

4台の大山

町々にては、25日より町練りとなり、居町は勿論 隣町互いに練りあいて足揃えをした。26日は試楽にて竪町に祭礼委員の詰め所あって、その前を西より東へ練行先例にて、幕府時代には代官役所の前に桟敷を設けて役人の詰め所に充て、その前を練行した。当時これを御陣屋前といって特別丁寧に演技が為された。

27日は“神社前”といって諏訪神社へ練り込んだ後、浜田方面へ練行し終了とした。

椙山 満氏蔵

どの町でも“練受”と大書した掲示のあるところでは総て練り物を観ることができたが、26日だったら竪町、27日だったら諏訪神社で26ヵ町のすべての練りを観覧することができた。

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四日市祭り その13今昔話⑩

2022年08月28日 | レモン色の町

中納屋町 屋形付きからくり人形山車 唐子遊び 唐子の肩の上に唐子が乗り、逆立ちをして太鼓を叩くからくり人形でした。

「旧四日市を語る」第9集より 伊藤氏のお話

「中納屋の稲葉さんの家は旧家で、「ねりうけ」の看板が出ていて、各町の練りはそこで演技をしました。中納屋の小山は標準の練りでした。前デックは紋付袴の和服姿です。道行の時は左右に采配を振っていましたが、練り受け所に近づくと、くるくると腕を回して采配を振っていました。受書(訂正:受所)前では、座って扇子を広げ扇ぎながら居眠りを始めます。その動きが巧妙でした。上では、唐子が親の肩に片手で乗り逆立ちをします。そして、もう一方の手で親の持つ太鼓を叩くと、親が喜んで回るというものでした(甕こそ割りませんが、甕破り山車と同じです。中納屋の唐子遊びが“標準の練り”といわれる所以でしょう)。

四日市市市制111周年記念誌「四日市祭」より

桶ノ町 露店からくり人形山車 大入道 日本で最大のからくり人形。明治2年に鯨の髭を使ったからくりにより、首がS時に曲がるようになりました。

図版提供 前田憲司氏

昭和31年9月26日付 伊勢新聞 座談会 四日市祭り今昔話しより 

M氏「今のような大入道が初めからあったわけではなく、いろいろな変化や苦心が払われてきました。当初は、大小いくつかの入道オバケが並んでいたし、御鏡から手が出たり、傘から手が出たりする七化けが混じっていました。(この様子は現在の大入道の台に彫られています)

花井昇氏の記録より

明治初期の大入道は首が真っ直ぐにしか伸びませんでした。伸びきってぐるっと曲がるところに凄みがあるわけで、セミクジラの骨(髭)をばねに使うまでは苦労がありました。着物も、天保時代は小判ジマだったのを大きく見せるため縦ジマにしたといわれています。お祭りも、町の変化や人の移動、経費の面で昔の面影を偲ぶことは出来なくなりましたね。

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図書館移転!

2022年08月26日 | おいらの商店街

少し前の記事になってしまいました

四日市市と近鉄不動産との間で 駅前スターアイランド跡地への図書館建設が契約されたということです なんとなく遅いような気もしますが 今後スムーズに進めていただきたいものです

なるほど ナルホド なるほどナ!と思った本より

現在の四日市に マイカー来四を無視していいことはないと思いますが 邪推か?

 

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四日市祭り その12 今昔話⑨

2022年08月24日 | レモン色の町

続いて、中村さんが“旧四日市を語る”で、このように話してみえました。

「祭り当日は、親戚が祭り見物に来ます。家では、巻き寿司、揚げ寿司、押し寿司などでご馳走をして迎えました。子供たちは奇麗に着飾ってお化粧をしてもらいました。祭りになると呉服屋さんが繁盛したものです。各町の山車や大名行列、富士の巻き狩り、釣り練り等、立派な練りばかりでした。印象に残る27日夜の『帰り山』は見事なものでした。昼、神社に練り込んだ各町の練りが、夜になると工夫を凝らした変装で各町へ帰っていくのです。南町の通りは黒山の人だかりになり、警察官が大勢出て交通整理をしていました。

 また、祭りになると神社の境内や西の諏訪公園、それに公園の南の空き地にはサーカス(曲馬団)・見世物小屋(ろくろく首、牛女、蛇女等)・のぞき・賭け将棋・おもちゃ・風車等の店(露店)が出ていました。サーカス小屋からは“天然の美”の音楽が流れて、テントの前には象や馬が繋いでありました。時々幕が上がって中の様子を覗かせ、客が入りたくなるようにしていました。“のぞき”は2mくらいの箱が横にして置いてあり、上には屏風のようなものが乗っていました。箱にあけてある10糎くらいの穴から中をのぞくと『不如帰』や『石童丸』、『金色夜叉』が絵物語にしてあり、台の横では男の人が鞭を叩きながら口上を言っていました。クライマックスになると上の屏風が広く開かれておしまいとなりました。

大正11年8月の四日市港付近の図

私「昭和30年代にもサーカスは来ていました。小学校へは、その期間だけサーカス団の子供が入学してきました。お祭りが近づくと丸太が立ち、縄で繋がれた大きなテント小屋が造られます。巨大な球体の枠が小屋の前に組み立てられていて、プログラムに合わせて会場内へ引き込まれます。すると大きな音でオートバイがその中を回る音がしました。しかし、何といっても花形は、空中ブランコでした。下には安全のため網が張られていて、道化が落ちたりしていました。最後は一人ずつ網に落ち、くるりと体を交わして最後の挨拶をしていました。あ、今思い出しましたが、入場通路途中で、強制的に座布団が5円でレンタルされているのを不愉快思った記憶があります。

北納屋町 船山車 鯨船 勢州組 張りぼての鯨を豪華な鯨船の山車が追いかけて銛でしとめるさまを演技する、「勢州組」と称して、嵐の日の鯨取りを現しています。

前田憲司氏談

蔵町 露店からくり人形山車 岩戸山 天宇豆売命(あまのうずめのみこと)に化けていた狸が、鉦鼓の音に驚き正体を現し,腹鼓を打ちながら睾丸を膨らませるというユニークなからくり人形。大入道と同じ人形師が作ったと伝わっています。

本町さんが復元してみえます

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四日市祭り その11 今昔話⑧

2022年08月22日 | レモン色の町

お祭りになると、店の商品(仏壇)に幕を張って屏風を立てました。一番広い座敷には赤い毛氈が敷かれ、すっかり祭りの雰囲気です。三日間は店が休み。日ごろの感謝で“おもてなし”の日になります。梨と渡り蟹を仕入れ、母親は、巻きずし、稲荷寿司、押し寿司の準備に大わらわでした。父親は祭りの間は、新田町の小山“天岩戸”のお囃子(笛担当)に付きっ切りで帰ってきません。昼前になると弁当をもって父親を捜しに出たということでした。新田町の練りの助っ人には、松本村の衆が来てくれたそうです。年に一度の“ハレ”の日を、子供たちも大いに楽しみました。

明治44年の町割り図  補足:辻を中心に、竪町、中町の通りを「北浜往環」。その南に並行して通る 上新町(かみじんまち)から下新町(しもじんまち)までの道を「南浜往還」といったそうです。

下新町(しもじんまち)の小山“弁慶と牛若丸” 山車に屋根がなかったので“露天からくり人形山車”といいます。京都五条の大橋で牛若丸と弁慶が戦ったからくりです。これより以前の形、昭和初年の頃は、鞍馬山で天狗から剣術の教えを受ける牛若丸のからくり人形でした。(前田憲司氏談)

下新町の“弁慶と牛若”

浜町の釣り物“傘鉾 時代人形”は担いで練られました。①浦島②武内宿禰(たけのうちすくね)古代天皇に使え、日本統一に尽力した大臣、③靭猿(うつぼざる)狂言の一つ、大名の命に従わなかった猿回しと猿が、命と引き換えに舞を舞う、④石橋(しゃっきょう)、⑤加藤清正⑥牧童、豊臣秀吉の幼児時代のこと ⑦俵藤太、近江の国瀬田の唐橋で百足退治をした豪傑 藤原秀郷の別称、

2022年3月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

⑧頼政、平安時代末期の武将 源頼政のこと ⑨小鍛冶(こかじ)、能楽の一つ。一条天皇の命を受けた、刀匠の三条小鍛冶宗近は、稲荷明神の狐の助けを借りて名剣“小狐丸”をつくりあげます ⑩為朝、鎮西八郎為朝が弓勢を琉球人に射る図 ⑪諏訪大神萬度祓 一万度祓いの式典の図 の11の人形が傘の上に飾られ、傘の下には赤い布が貼られ、吊り下げられた鈴が練り歩くたびにチリン チリンと鳴り響く優雅なものでした。浜町は、神社前の幟旗立てを担う町で、現在にも引き継がれています、と思います。

浜町の傘鉾“時代人形” 大人が子供たちに練りの説明をしたのではないでしょうか?

新丁の小山“菅公謫居(かんこうたっきょ)の状” 「謫居」とは、罪によって遠いところへ流されることです。学問の神様と呼ばれている菅原道真が、流罪先の九州大宰府で子供たちに習字を教えている様をからくり人形が演じます。筆を持った子供が、もう一人の子供が持った額に字を書きます。明治23年から菅公になりましたが、それ以前は、謡曲から漢の武帝時代の学者 東方 朔 の人形だったそうです。昭和20年の空襲で焼失しましたが、戦後再建されました。(前田憲司氏談)

“祭神”と書かれました 文字は毎年変わります街道のような家の並びの向こうには 松林があるようです どこで撮られたのか??皆さんおしゃれをしているようですね

<追記>

“大名行列”の人練りで、久六町は“江戸へのぼる行列”(足を前へ上げて練る)と、比丘尼町の“江戸から帰る行列”(後ろへ足を上げる)がありますが、気になるのは明治42年発行の“四日市祭案内記”の“久六町”にこう書いてありました。

久六町の大名行列の図

「此の町も、前町(比丘尼町)と同じく大名行列なり 但し この町のは“引き行列”と唱へ足の踏み様 少く異なりて 退却の時の式なりといふ 共に当地に於ける 一種の時代祭といふべし」

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四日市祭り その10 今昔話⑦

2022年08月21日 | レモン色の町

中新町の小山“湯立て神事”とはいかなる練りか?それは、お祓い儀式の一つだそうです。神前の前で大釜に湯を沸かし、巫女や神官が・・・というあたりで不謹慎なことを考えそうですが、さにあらず。その大釜に笹の葉を浸して、自分の体や参詣人に振りかけます。現在も火の粉や水を振りまく神事があります。写真の練りの幕は、正面が当時の堀木四日市町長の篆書、両脇には伊東代議士の文字が刺繍されており明治26年に新調されました。それにしても引手の衣装がユニークですねェ。

写真提供:前田憲司氏

一般に、故事や伝説、能楽や長唄などからヒントを得た山車が多いです。時代を感じます。しかし、今聞くと「それ、何なの?」と思われる練りが多くあります。何度も言いますが、焼失は惜しい限りです。

四ッ谷新町の小山“石橋(しゃっきょう)”は、髪洗いの活動人形です。能楽の“石橋”を題材にしてあり、中国の清涼山を訪れた寂昭法師の前で、文殊菩薩の化身と思われる獅子が勇壮な舞を披露、獅子が髪を振り乱すさまから“髪洗い“と呼ばれています。紅白二頭の獅子で舞われる場合もあって、お祝いの意を込めて演じられました。

四ッ谷新町の石橋(しゃっきょう)当時は、子供が大切にされていた様子が分かります

写真提供:前田憲司氏 オーッ 四ッ谷新町の引手の衣装もユニークです お隣さんの中新町の練りを意識していたのでしょう 

北条町の人練り“魚づくし”。小山が多い中、北条の人練りは印象的です。「芸もなく、昔は貧乏人が多かった。それで紙と竹で出来る物を・・・というわけで魚になりました。」と“伊勢新聞”昭和31年9月26日の座談会にありました。

“旧四日市を語る”に中村さんが“魚づくし”のことを書いてみえます。

「昔(昭和以前)は、8月がお祭りだったのが、ご馳走がいたむので9月になったそうです。25日が町練り(幟立て)・26日 各町の練り受所回り・27日 諏訪神社への練り込み・28日 各町での山車おろし(やまおろし)で、開催の決定は9月初めでした。北条町には、魚問屋や行商の魚屋さんなどがたくさんあって、その関係でしょうか?魚の練りでした。たい・ひらめ・あじ・さば・たこ・いか等の張り子の魚を頭からかぶって、あちらこちらと練り歩いていました。一番大きいのは人魚です。27日夜の“帰り山”では、人魚が美人コンテストの美人になって帰ってきたことを覚えています。

前田憲司氏談「玉取姫の伝説にちなんで、宝珠を抱いた大きな人魚があり、人がかぶって練り歩きました。ドラと太鼓で囃したといいます。また、先頭には“おかめ”と“福助”が先導の道化を務め、錫をシャラシャラと鳴らしながら伝えたそうです。

昨日神社へ伺い、改めて“明治天皇御歌の碑”の位置を確かめたところ、一本足の灯篭が、お祓い処の所 の右(北側)にもあることが判明しました。岡野さんの手作りマップの位置が正しかったと思われます。

神社南の車入れの入り口

2022年8月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

少し進んだ位置から お祓い所の右に一本足の灯篭の並びがみえます

 

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四日市祭り その9 今昔話⑥

2022年08月20日 | レモン色の町

前回掲載した南町のからくり山車は“年によって変わった”とあり、“旧四日市を語る”の第9集で、竹野さんがこのことを話してみえました。

竹野新衛氏「南町の練りは、明治時代に浦島太郎・天岩戸・大蛇退治と3回変わっています。印象に残るのは“浦島太郎”で、三体の人形が立ち、真ん中の人形が三番叟を踊ってひっくり返ると袴が左右に開いて海辺の景色になり浦島太郎が出てきました。そして、玉手箱を開けると煙が出る(この煙はたばこでした)。すると、浦島太郎の胸元が開いておじいさんになるという趣向でした。私は、昭和9年の小学3年の頃に練り引きに出ました。年によって岩戸山になったり大蛇退治だったりしましたが、大蛇退治が最後だったと記憶しています。ほとんどのお囃子は練りの中で演奏されたましが、北町と南町は、芸子衆が“底抜けやかた(枠の中でお囃子をしながら歩いて進んだ)”で練りについたので、芸子さんを見ようとみんなが集まってきました。

南町の小山「大蛇退治」

久六町の大名行列、村上さんが頼朝になった体験を話してみえます。

村上 正「私が頼朝さんになったのは3年生の時で6年生までさせていただきました。各町の受所では“殿さん”と言われて優遇されました。行列の“槍”は、行きは立てていますが、帰りは倒して歩きます。辻にある岡田屋さんの前まで来たとき、馬の頭に槍の毛があたり、乗っていた僕は落馬しました。幸い軽い脳震盪で済みましたが、北町の山田医院へ連れて行かれた覚えがあります。

司会「頼朝さんのとっておきの話があります。休憩時になると芸子さんらが競って頼朝さんを抱いたそうです。ご利益があるということで・・・。(子供デヨカッタ・・・)

久六町の大名行列 頼朝さんがみえます

明治44年頃の町割り

竪町の小山“唐子遊び”は、「仏壇山」とも呼ばれ、天井の屋根を持つ一風変わった練りでした。下段では唐子が遊ぶさまを現したからくり人形が付きました。

竪町の通称 仏壇山

東中町の釣り物“謡曲人形”は、6基の人形屋台が担いで練られました。内容は、「橋弁慶(義経と弁慶が京都五条の橋で出会う)」「田村(坂上田村麻呂の化身が清水寺を訪れる)」「浦島(天皇の使いが丹後の浦島神社に詣でると明神から不死の薬を受ける)」「高砂(夫婦愛と長寿を愛でる)」「熊野(平宗盛に使える熊野が、母を見舞うため遠江の国に帰る)」「猩々(しょうじょう)(猿に似たけだものが、酒に酔って舞いを披露する)」でした。明治26年に200円(今だと400万円くらいか?)をかけて修理されました。(前田憲司氏談)

東中町の“釣り物”

西中町の小山“司馬温公の甕破り”は、現在も“四日市商店連合会”で復元されています。中国、宗の時代学者 司馬温公が高価な甕を割って、中に落ちた子供を助ける故事にちなんだからくり人形です。当初は、唐船山車だったのが、明治28年にからくり人形山車としてお披露目されています。「教育の為には ま ええやろ」ということで造られたそうです。

西中町の甕破り山車

復元された 四日市商店連合会の甕破り山車(2015年10月4日)

<またまた 浜田小学校のこと>下総人さんからコメントがあり、昭和20年6月18日の空襲時に、浜田小学校は東南の校舎が被災を免れたらしいとの情報をいただきました。空撮から見ると、どうやら残っているようです。(中央を南北に東海道が通ります。左 鵜の森公園)運動場に付く碁盤の目は、畑か?

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四日市祭り その8今昔話⑤

2022年08月19日 | レモン色の町

寛文年間

札ノ辻を中心に、北町組の小山は、“紅葉狩り(露天からくり人形山車)”です。平維盛が山中で、女に化けた鬼から紅葉狩りに誘われ、命を狙われますが、男山八幡の助けで鬼を退治するという謡曲をからくりにしたものです。貴女が鬼女に早変わりしました。北町には芸子衆が多く、山車の後ろに鳴り物を囃す(長唄)底抜け屋台(枠だけで 歩いて続いた)がついていました。同種のからくりが名古屋の中村区花車 神明社にあるそうです。(前田憲司氏談)

北町の小山“紅葉狩り”(提供:前田憲司氏)

辻の南側は南町組の小山で“八岐大蛇退治(露店からくり人形出車)”。スサノオノミコトが大蛇退治でクシナダヒメを救う人形で、舌を出す恐ろしい大蛇の姿が評判でした。明治34年の記録では、天岩戸であった記録がありますが、浦島太郎や三番叟の人形のときもありました。火災によるものかその年によって変わっていたようです。(前田憲司氏談)

北町、南町ともお囃子が良かったようで、宿場のにぎわいが伝わってくるようです。

南町の小山“八岐大蛇退治”(提供:水谷宜夫氏)

上新町の“上代(大昔)人形”は、昔の故事にちなんだ人形屋台のことで、担いで行列をしました(釣り物)。神武天皇などの四神のほか、スサノウノミコトの大蛇退治や神功皇后の三韓征伐、仁徳天皇などの人形が作られたそうです。

上新町の釣り物“上代人形”(提供:水谷宜夫氏)

<浜田小学校のこと>明治8年に第二小学校として浜田村に開設⇒明治20年4月1日 浜田簡易科授業所として25年8月まで併置⇒明治30年8月1日 四日市市浜田尋常小学校⇒明治41年4月 四日市市第二尋常小学校⇒大正14年4月 四日市市第二尋常高等小学校 とありました

明治44年の地図

地図の十七軒町とある文字のあたりから北側を撮りました。右に崇顕寺さんが建ちますので、この路地は当時のままかもしれません。

昭和36年当時の浜田小学校

現在の浜田小学校

 

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四日市祭り その7 今昔話 ④

2022年08月17日 | レモン色の町

大名行列は、久六町と比丘尼町にあって、内容は異にしていました。

寛文年間

久六町(人練り)は、江戸へ向かうのぼりの行列。行列の最後尾に「頼朝さん」と称する馬上の少年が加わって居ました。行列は、片方の足を大きく上げて進むことで“早く行きたい”という気持ちを現したそうです。(なぜ、源頼朝が最後尾にいるのでしょうか?)

大正13年 足を前に挙げている 久六町の行列

最後尾の源 頼朝公

  • “四日市祭”のP.106<久六町 には~江戸へ向かう~>とあり、P.119 <明治42年の案内記では 久六町 ~引き行列と唱え~>とあります。記載に矛盾があるようです。因みに、明治の案内記に“比丘尼町”のことは“復元が立派である”ことしか触れていません。

比丘尼町(人練り)の大名行列は、江戸から下ってくる江戸幕府時代の行列を模したものです。行列には駕籠が加わり“傘飛ばし”の芸が披露されます。片方の膝を曲げて、もう一方の足を後ろに挙げてから進むことで“江戸が名残惜しい”という気持ちを表しました。時代の復元が正確で風俗研究の好材料となっていました。“横濱五十年祭”で大喝采を得たとあります。<この練りは復興されています>(前田憲司氏談)

神社鳥居をくぐって練り込む行列。写真提供:前田憲司氏

諏訪神社の紋 立梶の葉がみえます

久六町の行列には、謎が多いようです。9月24日には、秋のお祭りの実行委員会があるので、お聞きできそうです。

浜田小学校(第二小学校)昭和36年卒業アルバムです。

東北の正門から、職員室を撮ってあります。真ん中から入ると東西の廊下で、戸を開けると職員室。その左は宿直室と2階ホールへと上がる階段、右は渡り廊下で、わかくさ教室(訂正:わかくさ学級)の棟へと繋がっていました。

左(東)の棟は教室が並んでいて、突き当り南側には、給食室と2階建ての教室がありました。

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四日市祭り その6 今昔話③

2022年08月16日 | レモン色の町

続いて、南浜田は?

山路良次氏談「大山は、浜田・西町・北町・新田町にあった。浜田の大山は、北浜田でと南浜田(南浜田・橋南・中組・十七軒町)で持っていて、北と南が交代で大山の当番に当たった。

浜田の大山が、旧道を曳航する貴重な写真。その昔、浜田の大山の先端が、塩浜の海岸から見えたという。両脇の人家と比べその巨大さに驚かされます。(前田憲司氏談)

当初、町中を曳いていた大山も、電線が引かれてからは巡航できなくなり、神社の前で組み立てたと聞いている。大山の時は、獅子舞や山番があるので“富士の牧狩り”とは札入れをしてどちらかを行った。“富士の牧狩り”は経費が掛かり、子供の練子と獅子をかぶる青年の確保に苦慮した。当日は町内の者が揃って四日市の町中を練った。源頼朝が、富士の裾野において巻狩りをした様を練りに再現したものです。

「旧四日市を語る」には、源頼朝・北条時政・大将役・方役・槍役・獅子・兎・猿役と格式が決まっていて、組役や町役が主役でした。一般は張り子の獅子や兎役ということに決まっていました。(封建的だったんですねェ)

“四日市祭”より 富士の牧狩りは現在に至っている。

“富士の牧狩り”は、“小山”や“釣り物”に対して“人練り”といいました。

明治40年

明治44年

さて、下総人さんにご指摘いただいた、浜田の“第二小学校(現:浜田小学校)移動の謎の続きでゴザイマス。

大正11年

明治8年に四日市学校(現 中部西小学校)より、浜田小学校として分離創立したとあります。

昭和5年 岡野繁松氏筆

明治40年5月発刊の“四日市案内”には、『濵田尋常小学校・・・濵田に在り。五学級、二百五十八名の生徒を有す。校長 小林?(王ヘンに三本川のような漢字)以下 職員五名。』とありました。第二小学校として旧東海道沿いに開設されたのは、「濵田にも小学校が必要だよね」というところから、比較的規模の小さい“分校”のようなものが造られたのではと想像できます。

昭和35年 門脇敦氏撮影

※ 下総人さんからご指摘をいただいたので、昭和36年当時の卒業アルバムを見たところ、右の鉄筋の校舎は36年以降の物でした。訂正いたします。

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