花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

富田立場は間の宿

2023年09月30日 | レモン色の町

GGシニアさんにアップしていただきました。今回は日活劇場の巻でゴザイマス。ご覧ください!

(2) 「四日市の映画館巡り/四日市日活劇場」 - YouTube

“立場”とは、宿場と宿場の間の休憩所のこと、人足が杖を立てて休むことから言われた。

富田南町の料理旅館“四日市屋”(昭和48年現在)

徳川家康の命により東海道が生まれたのは慶長6年(1601)のことである。道の両側には松を植え、宿に入ると道路を曲げて街並みを多く作って密集させ、産業と文化の発展をはかり、また交通の要所とした。

特に宿場には本陣・脇本陣を置いて大名の旅宿とし、また問屋があって、大名の荷物を中継輸送していた。当時の運搬や道行は、肩によるか、馬か、駕籠で、その賃金も平地、山路と異なり、適当に定められていたが、宿駅の札場には掲示され、かたく守らせていた。

西富田 三幸毛糸紡績富田工場前に残っていた東海道の松

東海道五十三駅のうち勢州内には、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂下の七駅を置き、富田は“立場(建場)”と云い、桑名二里十七町、四日市へ一里八町の中間に位置して「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれていた。街道筋は旅籠が軒を並べ、店頭では名物の焼蛤を売っていた。

富田には商家や旅籠が軒を連ねていて、“間の宿”の性格上茶店の役目も果たしていた。そして、名物が必要とされていたのだ。安倍川(静岡県)の「安倍川餅」、鞠子(静岡県)の「とろろ汁」、草津(滋賀県)の「うばが餅」などが現在にも残されているが、富田立場は、北伊勢の特産品である蛤を登場させることとなった。当時は漁獲量も多く、桑名の時雨蛤と共に富田の焼蛤は、美味なことは日本一と云われ、軒を並べた旅籠の店頭では客を呼ぶ声と蛤を焼く芳香が特有の雰囲気をつくっていた。

焼蛤は、炭火の上に松(訂正:松笠)を乗せ、その上に目を切った蛤を並べ団扇でパタパタ煽って(あおって)焼く。この蛤は桑名から富田方面の海岸線で多く獲れた。

「富田をさぐる」より 生川益也 筆

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田村泰次郎と豊富川

2023年09月29日 | レモン色の町

『わたしのふるさと 海の消えた町・富田 田村泰次郎』“家庭全科”昭和51年3月号より抜粋でゴザイマス

図書館でお借りしました おもしろい!

田村泰次郎(明治44年〜昭和59年)は小説家で、戦後“肉体の門”が映画化されている。富田村の生まれで、富田中学校(現 四日市高校)の初代校長を務めてお見えです。とは知らなかった!田村泰次郎のおとっつさんが校長せんせでした。アチコチさんに教えていただきました。陳謝!

嘗てこの川沿いに酒吉へと通じる辻があった善兵衛の橋 ここでうどんをいただきました

 私の郷里は、三重県の富田である。海岸の町で伊勢湾に臨んでいる。富田に来て何より驚かせたのは、海岸の波打ち際に高い堰堤が造られていて、海との交流がすっかり断ち切られてしまったことであった。この堰堤は、名古屋と四日市を結ぶ名四国道と呼ばれる高速道路で、そこにはいつも沢山の車が、轟音をまき散らしながら走っている。

富田の鎮守様は鳥出神社である。(中略)この神社は私の生まれた宮町にあって、神社の庭は子供の絶好の遊び場所で、本堂の裏などは、ウッソウと巨木が茂っていて、昼までも薄暗かった。子どもたちは、よくその本堂の周りを一まわりして、肝試し(きもだめし)をした。「をしろんどをまわってくる」といった。つまり「うしろ堂をまわってくる」ということである。

大晦日の日暮れから、この庭では、大焚火が燃やされ町のひとびとは、この時神社にお詣りして、この焚火にあたると、つぎの1年間は、息災無事を約束されると信じている。焚火は夜が明けるまで燃え、初詣の人達を待つのである。

この神社へのまちのひとたちの信仰は厚く、まだ私の子供のときなど、浜が大漁でにぎわうと、その漁獲の一部が必ず神前に奉納され、本殿で打ち鳴らされる神官の神楽太鼓の音が勇ましく、私の家へもひびいてきたのを、いまもよく覚えている。

国土1号線沿いに片方だけ残る豊富川の標柱

宮町には、かなりの大きな川に見えた川(中央通りの下を流れ酒吉の後ろを流れている豊富川)が走っていたその川の両側はまだ堤で囲まれていて、外側は水田がひろがっていた。その水田には海からあがってきたイナ(ボラ)が沢山いた。イナをつかまえるために、子供たちは泥んこになって、水田のなかを走りまわるのであった。

酒吉の裏を流れる豊富川

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新図書館の進捗状況

2023年09月29日 | レモン色の町

昨日の中日新聞から

市民がつくった、市民の図書館にしてほしいと、思っていたところ。民間委託にするとのこと、市民で魅力ある提案を作り上げ委託業務に応募していただきたいと思います。只、駐車場が心配です。

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閑話休題 運動会

2023年09月27日 | レモン色の町

運動会のシーズンですねぇ。昭和35年の伊勢湾台風で大きな被害を受けた納屋小学校の生徒さんが、浜田小学校へ来て一緒に勉強をしておりました。この時(昭和55年か56年?→訂正:昭和35年か36年)の運動会での騎馬戦は、学校対抗となり大盛り上がりでゴザイマシタ。今も記憶に残っています。

運動会は大きなイベントでした。この日はトレパン(短パン?)と赤帽での登校です。赤帽は、裏返すと白組になりまして、浜田小学校東隣の大原文具店で販売していました。各家庭では早朝から校庭にゴザを敷く人が居ます。準備を終えて、校庭に立ちますと、遠くで「たけちゃん!ここ、ここ!」と呼ぶおばちゃんの声が聞こえます。

寺本校長先生への宣誓 校舎の様子が面白いです

「おー、俺は忙しいんじゃ」と真ん中で、やや得意満面で照れ笑いをします。でも、お昼になると間違いなくそこへ行かねばなりません。親戚一同がゴザの上で、巻きずしや稲荷ずし、ミカンを食べるのです。

三重交通の社宅が南にありました

嫌だったのが、個々でトラックを1周する競技でした。確か、徒歩競争と言っていた気がするのですが、それは競歩のことですよね。スタートのピストルの音が嫌いで、一旦驚いてからのスタートでした。しかし、3等までに入賞すると、優しいお姉さんが引っ張りに来ます。余計に疲れた顔をしたくなるのでした。

中断の右が私で上には堀木君が立ちました

午後は、町内リレーがあります。6年生の時はあったのか?記憶にないのですが、これがまた盛り上がりました。運動会は、年間行事の中の楽しい1ページだったのです。

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四日市の映画館 四日市日活③

2023年09月18日 | レモン色の町

戦後立ち上げられた“ラジオ劇場”は、演芸中心だったが、久保仁氏著の『ローカル映画館史』によると<経営者がベテランを欠いていた>とあって、昭和31年に日活直営の『四日市日活劇場』となる。当時、日活は青春路線で上昇気流に乗る時だった。どうやら昭和43年の住宅地図に、あえて“四日市経営”と書かれていたあたりに何かありそうな気がする。とにかく日活は30年代に急成長を遂げる。石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、吉永小百合、浜田光男、宍戸錠等有名スターを輩出する黄金時代を迎える。

日活発行の本に昭和31年のニューフェイスが公開されている。が、ここで分かるのは、二谷英明と小林旭くらいかな?選ばれても狭き門だったようだ。

しかし、映画界もテレビの普及等で昭和40年代になると徐々に下降線をたどり始め、任侠路線からやくざ路線やポルノ路線へと移行していった。

注:続編のポスターです 悪しからず

昭和46年 日活ロマンポルノ第1作白川和子主演の“団地妻 昼下がりの情事”と小川節子の“色暦大奥秘話”を公開。昭和63年 ロッポニカのブランド名に変更した。昭和56年11月になると四日市日活は閉館して,大鯛ビル4階へ移転、63年7月に『ロッポニカ・四日市』に改称された。この時、風祭ゆきが舞台挨拶に来四している。平成元年 ロッポニカは映画製作を終了するが、四日市の劇場は現在も存在している。

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四日市の映画館 四日市日活②

2023年09月17日 | レモン色の町

「四日市の映画館巡り/四日市シネマ/上映映画解説付」 - YouTube

四日市シネマ編 楽しんで作らせていただきました ありがとうございます 是非 お楽しみください

昭和30年代、当店横には市内映画館の看板がズラリ並んでいた(但し新丁の四日市東宝以外)。ある日、糊の缶を下げたおじさんが自転車でやってくる。上映中のポスターの上に糊を塗りつけると、刷毛を口にくわえ荷台から新しいポスターをすっと抜いて刷毛でサーッと塗り込む。新しいポスターを貼った上にまた糊をつけるのが不思議だった。終わるとポケットから映画のビラ下券(招待券)を取り出し、横で眺めていた自分に手渡し次へと行った。古いポスターは、だんだんと分厚くなっていくので、一定期間を置いてすべてを剥がし、新しく貼り換えられた。その月のビラ下券は、兄によって管理された。

大正元年設立の“日本活動写真株式会社”は、戦後、昭和20年“日活株式会社”を立ち上げる。第1作は昭和29年の“国定忠治”。昭和31年 『太陽の季節』『狂った果実』が大ヒットして太陽族映画ブームとなる。

又この年、『ビルマの竪琴』がベネチア国際映画祭で賞を受ける。

昭和32年には ”おいらは ドラマ やくざな ドラマ~”の石原裕次郎『嵐を呼ぶ男』が大ヒット、昭和34年 小林旭の“渡り鳥シリーズ”と日活青春路線の黄金期を迎える。

赤木圭一郎の拳銃無頼帖シリーズ『電光石火の男』が四日市ロケで決行 公開されたのは昭和35年のことである。

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四日市の映画館 四日市日活①

2023年09月16日 | レモン色の町

終戦後間もない昭和22年、新田町(今の諏訪町)に“ラジオ劇場”という実演劇場が出来た。昭和20年の空襲を経てきた日本は映画をつくれる状態ではなかった。従って、役者は地方へ流れ出た。地方の田舎へ行けば食べるものにもありつけたし歓迎もしてくれた。

昭和30年公開 浅丘ルリ子の初デビュー作 日活初めてのカラー作品だった

そして当時情報伝達と娯楽に大きなウエイトを占めていたラジオ放送にあやかり実演を主にした“ラジオ劇場”という名前でスタートした。800人収容の大劇場である。

マップ左側 昭和43年 日活映劇 四日市経営(研)となっている どういう意味か?西に四日市松映が建つ

日活前、西に建つ四日市松竹横とは雨よけの屋根がついていて薄暗い雰囲気だった。中央から入って右に二階へ上がる階段があり、その下に売店があった。そこで売っているおまけ付きのキャラメルが街では買えなかったので、もぎりのお姉さんに断わって劇場に入り、買い求めたことがある。

マップ右 昭和53年 四日市松竹は三重劇経営者による四日市宝塚劇場に変わっている 日活映劇隣の自転車預かり所は健在

劇場の北、呉服町寄りに自転車置き場があった。自転車が並ぶ奥は畳敷きの上がり框になっていて、映画館の大将がでんと鎮座していた。幼少の私は、お客さんに連れられて行き、そこでお饅頭をいただいた。甘くておいしかった。昭和29年頃のことだ。当時の映画館の勢いが感じられる思い出の風景だった。

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四日市の映画館 シネマとグランド④

2023年09月12日 | レモン色の町

現在のジェームス・ボンドは、ダニエル・クレイグさんで、令和3年には 第25作ノータイム トゥダイに至っていますが、過去の出来事にさかのぼったりして、やや難解になっております。

高校生の頃は、007シリーズの話題で持ち切りでした。イアン・フレミング原作で、早川書房から本が出ていました。第1作の“ドクター・ノオ”はあまり話題になりませんでしたが,ヒットしたのは昭和37年公開の第2作“007危機一髪”ですが、昭和47年再上映の時に“ロシアより愛をこめて”と題名が変更になっています。

当然ジェームス・ボンドにはショーン・コネリーです。カツラをかぶっていると聞いて話題騒然でした。まず、ベリーダンスで踊る女体にスタッフの文字が映し出されます。そして、なんと007が殺されるシーンで始まるのです。トルコはイスタンプールが舞台です。偵察に地下水道をボートで出かけますが、臭かったと思います。まずは、秘密兵器がすごかった。秘密兵器のアタッシュケース、小銭やナイフが出てきます。キーを回しておくと開けたとたんにガスが噴出。これはあらかじめ他人が開けることが予測されていたのでしょうナ。小銭が欲しくなってアタッシュケースを開けたら爆発したのでやむなくナイフを振り回して逃げた、なんてのも想定できます。愛車のアストンマーチンにも仕掛けがありました。ガスが出るわ撒菱(まきびし)が出るわ、油がこぼれるわで、これでは車検には通らないでしょう。スペクター側のおばさんの靴からナイフが飛び出すといった仕掛けもありました。別にわざわざ靴から出さなくても良さそうなものですが。

最後は、美人のダニエラビアンキと列車に乗り込み、刺客ロバート・ショウとの対決になります。ここでアタッシュケースが役に立つわけです。列車内の決闘が無かったら、アタッシュケースはそのままゴミ箱行きだったでしょう。

007シリーズで昭和40年公開の“サンダーボール作戦”は、劇場内が満員でスクリーンのすぐ横で立ったまま鑑賞しました。シリーズも回を重ねるうち奇想天外な仕掛けになっていくなぁと思いつつ、せっせと劇場に通いました。

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四日市の映画館 シネマとグランド③

2023年09月11日 | レモン色の町

またまたGGシニアさんに アップしていただきました 今回は四日市グランドと 当時の忘れ難い作品を 涙をこらえてお話させていただきました 是非ご覧ください

(8) 「四日市の映画館巡り/四日市グランド/上映映画解説付」 - YouTube

素敵なジェシカは、昭和37年のイタリア、アメリカ、フランスの合作のエロチックコメディ。中学校の時に四日市シネマで観たことになります。おマセでした。主人公のアンジー・ディキンソンの水浴シーンが冒頭にあるというので観に出かけました。遥か遠方の森の池に立つ裸体のアンジー・ディキンソンは、それが本人であると信じて喜んでおりました。

ベンハーは、チャールトン・ヘストン主演、ウイリアム ワイラー監督の超大作です。四日市シネマでは昭和37年上映で、中学校から授業の一環として観に行きました。後半初めに展開する迫力ある戦車の競争シーン、全体に流れるキリストの生涯、それよりなにより印象に残ったのは、ベン・ハーの母親と妹が罹ったらいびょうの恐ろしさでした。不治の病として谷底での生活を強いられる母と妹を見つけ逢いに行きます。そんなことしたらチャールトン・ヘストン、うつるやないかとやきもきして観ておりました。最後はキリストさんの光で治ってしまうのです。この時ばかりは、仏壇屋の分際で、キリスト教に入ろうと思ったくらいです。

当時、アメリカは巨大でした。次々に大作をつくりました。ドクトルジバゴは、昭和40年の作品で、可愛いジュリークリスティがロッド・スタイガーおじさんにおもちゃにされるのです。これには頭に来ました。当時の大作は、大きな出来事に翻弄される主人公という設定が多かったようです。ドクトルジバゴも、ロシア革命がバックにありました。主題曲ララのテーマもヒットしました。

言い忘れてならないのは007シリーズです。

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四日市の映画館 シネマとグランド②

2023年09月08日 | レモン色の町

昭和36年9月16日9時過ぎ、四国の室戸岬西方に上陸した第二室戸台風は、午後1時過ぎ兵庫県に再上陸、午後6時には能登半島を通過して、北海道西海上を進んだ。死者194名、行方不明者8名、123000棟の床上浸水を出した大きな台風だった。

昭和36年

四日市シネマとグランドの写真。前回ご紹介した樹林舎刊“四日市の今昔”からお借りしたもので、昭和36年撮影とある。よく見ると看板が曲がっていて、昭和43年の同位置からの写真と比べると、左のスチール写真のガラスケースは閉じられ、劇場前の写真の展示が出されていない。つまり台風対策がなされている。

昭和43年

昭和42年 ベンハーの上映中 グランドでは 長靴をはいた猫 が始まっている 子供がかわいい 入場券の販売は一カ所だった

柱巻きの“釈迦”の看板がみえるが、36年11月1日公開なので事前の宣伝と思われる。ということで9月16日の午後に撮影されたのだろう。

昭和43年

昭和43年の住宅地図。おかざき傘店から西へ入ると、醍醐へ上がる階段があった。少し進むと左に丸甚とかめ天、右側からうどんの角源の湯気が出ていた。その向こうにシネマとグランドがあって駅前の通りに出た。スターアイランドの時もここは通路があった。

この路地は新図書館が出来ると無くなるのか?という意見が出されているが、個人の所有ということだ。その“個人”さんに、通路の確保を願いたい。出ないと行き止まりが出来て、袋小路になったところが死んでしまう。

昭和53年 マップが途切れて 継ぎ足しになったが シネマとグランドの間(角源とかめ天)には道があった

昭和53年になると、グランドの南に“ニューパーラ―“と”喫茶ニューグランド“が、近鉄興業によって併設されている。当時街中は喫茶店の花盛りでした。

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