花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

稲葉湊の完成

2023年12月31日 | レモン色の町

明治17年5月5日、高砂町荷上場前の広場で落成式が挙行され、当時の四日市の知名人を含む数百名が集まった。明治3年10月悲願を起こしてより、17年5月までの15年間、しかもその間、真に工事に没頭できたのは5年余に過ぎなかった。総工費20万円、昭和30年当時のお金に換算しても5億3千500万円が投入されたのである。帰宅後、家族関係者を前に、三右衛門はしみじみと語った、

四日市湊開墾図 左に燈台がみえるのにご注目 明治7年頃までは存在していたのでございます

「みなさん有難う、本当に有難う。今日の事あるはみんな皆さんのお陰や、私のようなものをよう助けて下された。三右衛門からお礼を申します。明日は、得願時(稲葉家の菩提寺)と法泉寺(川原町 兄 、山中伝四郎の墓)へお参りして、先代様と兄さんに報告をしたうえ、その足で高須(三右衛門の実家)へまいります。これで私も日本晴れの気持ちや。何もないが、心ばかりのお祝いをやりましょう。」

四日市湊風景

その後も、三右衛門は補足工事や、債務工事に1年余没頭している。三右衛門は、明治14年から借地料を徴収、半分は債務の返済に回して一切の残務を済ませた。三右衛門の手に残ったのは、中納屋の家と屋敷だけで、稲場町、高砂町両町の土地も蔵町の倉庫も人手に渡っていた。膨大な資金を擁し、先のみえない築港事業を、個人の事業としては限界があることを身に沁みていただろう。そして、自分なりの築港事業を終えた。明治21年、稲葉三右衛門は藍綬褒章を受ける。

稲葉三右衛門翁の湊図

“郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史”の著者 大島重敬氏は、最後をこう締めくくっている。『為に一家の資財を傾くるに至る』の一句は、真情を知る者の肺肝を衝(つ)き、以って後人の範とするに足るであろう。

稲葉三右衛門翁


築港工事着工

2023年12月30日 | レモン色の町

稲葉三右衛門は、何人とも手をつけることのなかった難工事を、個人で設計から見積り、湊を生業としている人々への説得等を行い、明治4年1月13日、田中武右衛門(後に離脱)と共に県庁を訪れ、岩村定高参事に面会事業の説明をしているが、素人がやる事業ではないと、冷たい返事が返ってきた。

参事 岩村定高の背後には船会社の黒川彦右衛門らがいる。彼らは、三右衛門が波止場を築いて埠頭を独占し、港を私物扱いにされては困ると考えていた。

明治7年元旦、「新年おめでとう。去年はいろいろ骨折りをかけて済まなんだ。今年は波止場工事にかかる。一層苦労を掛けるが四日市の為と思うて頑張ってほしい。そこで、新年の席に町の名前を付けたいと思う。北側の寅高入新田は、ご先祖様のおかげやから“稲葉町”、南側の己高入新田は、横浜の歓楽街高島町と家内の“おたか”の名を記念して“高砂町”、橋の名前に、新浜橋は 橋が港を繁盛させるよう“開栄橋”、掘割に新しく架けた新大橋は繁華街へ行く目出度い橋やから、高砂町の名にふさわしく“蓬莱橋”と付けたい。」

しかし、波止場工事の資金繰りは厳しい状態が続いた。


稲葉翁の決断

2023年12月29日 | レモン色の町

GGシニアさんで 稲葉三右衛門を取り上げていただき アップいたしました

なかなかむつかしい取り組みでしたが、うまくまとめていただきました 一度 ご覧ください

四日市築港と荒神山の出入りの意外な関係」 (youtube.com)

安政元年6月15日丑の上刻(午前1時)、四日市に大地を揺るがす大地震が襲った。稲葉家の被害は無く避難だけで済んだが、浜辺一帯の地盤が約2尺(60センチ)も沈下したので、内海護岸のかさ上げを急いだ。一旦治まったかに思えた11月4日再び地震に襲われ、この時は野寿田新田(昌栄新田)の堤防が大破し、土砂は水路を塞ぎ、四日市湊は、小回船すら航行し得ない状況だった。昭和31年11月3日発行「港の出来るまで」大鳥重敬著

築港前の四日市湊

明治3年12月31日の暮れ六つ(日没の18時頃)、稲葉家では親族眷属が集まり祝いの膳につくのが恒例の行事だった。その席で、いよいよ取り掛かろうとしている築港工事の話がされている。寅高新田の埋め立てには百姓衆から苦情が出ないか、昌栄新田の水路はどうか、浜地で地引網をしている漁夫たちへの説得と心配事は尽きなかった。夜も更け不動寺か得願寺あたりで除夜の鐘が鳴った。

稲葉三右衛門・ラ・ソージュ14号より

明けて明治4年1月元旦。冬晴れの良い日和であった。店の四方を拝した三右衛門は神仏にお灯明を入れ、家族揃ってお屠蘇にお雑煮の膳を囲んだ。元旦は菩提寺に参拝するのが常で、妻おたかと長男 甲太郎を伴って、中納屋の自宅を出、丸池筋から新丁を横切り下新町の曲がり角にあった得願寺の門をくぐった。現在の得願寺は、戦災で一切が灰燼と帰したため戦後復興都市計画事業の区画整理で墓地を泊山霊園に移しているが、当時は、本堂南側に約300坪の霊園があった。墓前に額ずき三右衛門は、嘉永4年11月に没した先代にむかって、事業が滞りなく進むようお願いをした。

大正期の蔵町

この後、諏訪神社へ向かいここでも決心の程を祈念している。当時の諏訪神社は、巨木が生い繁り社殿も立派で荘厳を極めていた。此処で妻子を家へ帰し、その足で南町の伝馬町に黒川彦右衛門を訪ね、北町の福生裕作方から、陣屋跡の渡会県庁四日市支庁、竪町、中町、蔵町の関係筋を回り、蔵町の船会所で新年の挨拶をして戻ったのは昼過ぎであった。


阿瀬知川の改修大工事

2023年12月28日 | レモン色の町

三瀧川から離れ、うねるように伊勢湾に流れ出ていた阿瀬知川は、多くの土砂を川口に押し出していました。江戸末期になると南に伊勢湾に流れる川筋がつくられたので流れは細くなり納屋運河として港の役割を果たしてきました。ここで大改修が二度にわたって行われます。

改修前

こうして新しく作られた水路の先に、稲葉三右衛門さんの挑戦した四日市湊になるのです。浚渫工事は大変だったと想像できます。

改修後

修築前の“四日市湊絵図”の左上に燈明台が描かれています。

左が北


江戸時代末期の四日市湊

2023年12月27日 | レモン色の町

江戸時代末期の耕地地図を編さん室で書き直されたものです。

「四日市耕地字図」四日市史編さん室

不動寺前の阿瀬知川は細い流れとなり、新田が開発されました。阿瀬知川が直線で海へつながり、別ルートになったため(バイパス化)です。そして、三瀧川へは流れ込まず、蔵町と納屋町を迂回するように大きくターンして伊勢湾へ流れ出ています。十里の渡しへは、札の辻からは、浜往還を東へ、思案橋を通り、現在の開栄橋を渡って船着き場へ向かいました。

東海道分間延絵図より

江戸時代末期にかかれた『東海道分間延絵図』(寛政12年・1800年着手―文化3年・1806年完成)の湊の部分です。右から大橋(思案橋)を渡り、左の渡し場へと繋がっています。

大原呑舟「四日市湊之図」伊達貫一郎氏蔵

さて、この図には、港の燈明台がないことを学芸員である広瀬 毅氏が指摘されています。天保4年(1833年)に支払い終了となっている燈明台の資金を広瀬氏は、さかのぼる3年前の“おかげ参り”で集められたお金が使われたのではないかと書いてみえます。燈台としての役目の他に、“大神宮常夜奉灯”として伊勢神宮への献灯の意味も込められていました。


うみてらす14からの眺め

2023年12月25日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

22日金曜日 四日市港ポートビル うみテラスからの工場夜景を眺めに行きました。(四日市観光協会・コンビ―ナート 夜景クルーズ)19時50分 バスで一気にポートタワーへ。寒い夜でしたが 空気が澄んで 知多半島もくっきりと見えました。

南 四日市の街方向(室内の照明が写り込んでしまいました)

そこからやや港(左)方向 工場夜景が素晴らしい 目線にたなびいているのは水蒸気です

3年ほど前の写真です 少しずれがございますが お楽しみくださいマせ

北の川越方面です

西の富田浜方向 戦前 海水浴場があって賑わっていました

ムム 必死でシャッターを切りましたが、やはり360度眺めの現場に立ってみて・・・ この迫力は体感しない限り 感動は伝わらないと思います スミマセン 

今回のクルーズ 夏と冬の2回開催されたそうで チャンスを見て是非・・・


江戸時代中期の四日市湊

2023年12月23日 | レモン色の町

11月18日開催されたB-1グランプリの、1番街ステージで中央通り誕生秘話?をお話させていただきました。久しぶりにとんまトリオが揃っております。是非ご覧ください

「四日市町歩きたけちゃん、ステージに登場!/中央通りは生きている。」 (youtube.com)

三瀧川に、田のあぜを流れてきたあせち川が合流。不動寺前の入り江が湊になった。これが江戸前期。ラ・ソージュ(四日市文化展望)14号より

湊の先端部分に十里の渡しがありました

この二枚の江戸中期の地図を比べると、阿瀬知川は三瀧川から離れ、Uターンしていく様子が分かります。湊も、阿瀬知川から流れてきた土砂と埋め立てられ整備が進む納屋町の東に移ってきたようです。

地図中央の橋が思案橋で 下の橋が後の開栄橋になります と思います

埋ま立てられた土地は、堤防で囲まれ新田が開発されていきます。そして、東海道から伸びる浜往還の先には蔵が建ち並び藏町が形成され始めました。


江戸時代初期の四日市湊 

2023年12月22日 | レモン色の町

三瀧川に阿瀬知川が流れ込んでいる様子がはっきりとわかります(四日市市立博物館蔵)

文化展望四日市が13号(平成8年)から新しく生まれ変わっています。特集は“東海道発見”。そして、14号は“海・うみ・産み”がテーマでした。文明5年(1473)に書かれた『文明五年宮司引付』に四日市庭浦が登場します。比較的船が小さかった当時の湊は、海岸線ではなく大きな川から少し遡った(さかのぼった)ところに造られました。流れ出す土砂の心配がなかったからです。

舟場 は十里の渡しになるのでしょうか?

江戸時代初期の『大日本五道中図屏風』(四日市市立博物館蔵)と

錨のマークが湊でした

『寛文年代地図』をご覧いただくと、三瀧川へ阿瀬知川が合流しているのが分かります。四日市湊は、阿瀬知川へ遡ったところにありました。新丁にあった不動寺の一本松には灯篭が掲げられ、帰る船の目印になりました。この入り江が第一の湊です。この不動寺の明かりを頼りに、潮が満ちる時を狙って多くの漁船が湊に着岸される風景が想像できます。つづく


新図書館市民の意見を提言

2023年12月20日 | レモン色の町

12月19日付中日新聞にこんな記事がありましたので、紹介いたします

エリア・プラットホーム事業でも、駅前エリアさんが新図書館に関して討議を重ねてみえます。いろんなところからいろんな提言をするよりも、連絡し合って一本化して申し出た方が効果があるかな?と思います。市も多くの意見を振り落とす作業があるわけですからね。

それよりなにより 注目したのが、下段の4行目です。「駐車場不足を指摘する意見もあった」