花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市を襲ったコロナ禍とペスト禍

2021年02月28日 | レモン色の町

幕末から明治期になると国際交流も進み、新しい文化と共に伝染病も持ち込まれるようになりました。コレラ・天然痘・麻疹(はしか)・流行性感冒などの流行です。医学も漢方から西洋医学を取り入れ、明治期の公衆衛生は主に法定伝染病の予防でしたが、一般には種痘の接種とトラホームの検診と治療が主におこなわれました。

近代医学の確立が不十分であった当時、三重県では、明治10年から28年にかけて5度のコレラ禍に見舞われています。明治12年のコレラ禍の時は、特に朝明と三重郡に発症が多く、下水設備がなかった当時、排泄物の処理や洗濯による河川水汚染の禁止が県から発令されました。また、四日市港からの出航時には感染予防の為10日間の待機期間を設けています。この年の7月から3か月間の朝明郡・三重郡での感染者数は総数138人(内男77人・女子61人)その中での死亡者が107人。なんと、死亡率77%、当時の人には恐怖だったでしょう。

明治初期の四日市には小さな個人病院のみで、伝染病に対応していませんでした。そこで明治12年、浜一色に四日市伝染病院が建てられたのです。その後、建物の老朽化と大正5年のペスト流行で建て替えが迫られ大正11年に新しい病院が竣工しました。後の四日市市立四日市病院です(三滝川の右側中央に市立病院が確認される)。

大正11年

さて、ペストですが、大正5年10月、東洋紡績に勤務する沖仲士(海運労働者)の子供(尋常小学校6年生)が患者第1号でした。当時、小学5年生だった三栗谷さんは当時を思い出して『旧四日市を語る』に投稿してみえます。

原因は、インド綿に付着していたペスト菌。患者は日ごとに増える一方で、感染すると数時間の寿命とのうわさが流れ、住民は恐怖のどん底でした。日が経つにつれ街は火が消えたも同然で、すべての機能がストップしたかと思われる状態が続いたのです。

亜鉛版で囲い消毒され衣類が焼かれた

第6小学校(納屋小学校 訂正:第6小学校は 北条町の三滝川沿いにあった学校)は、周囲をトタン板で囲われ臨時隔離所となったため一時休校となり、全校児童は分散されて他校へ通うようになりました。しかし、行く先の学校では「ペスト学校、ペスト学校」と敬遠され八分にされた悲しい思い出があるそうです。防疫班は患者発生家屋の消毒や関係地域に殺鼠剤を散布するなどで大わらわでした。

隔離所の様子

一方、内務省では事の重大さを考慮して伝染病の権威である北里柴三郎博士を首班とする医師団を派遣しました。ペスト菌媒介の元凶が鼠ということで捕獲を奨励、1匹2銭の報奨金が25銭に跳ね上がったのです。これを悪用し市外や県外から持ち込んで金儲けをした不届き者も出る始末で悪用する人はいつの時代もいるものです。こうして、防疫班の必死の活動が効を奏し、発症者63名のうち53名の死者を出した悲惨なペスト禍も翌年の大正6年には下火となり、4月には終息宣言が出されました。

当時、ペスト最盛期の四日市市街は、ゴーストタウンそのものだったそうです。

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四日市復興まつりのこと③

2021年02月24日 | レモン色の町

『四日市復興まつり』に関する資料は少ない。復興まつりを前に、伊勢新聞から10月11日の企画段階の記事を見てみよう。

袋町の手作り練り

市役所前?の鯨船は南納屋か?

「繰り展ぐ(?)多彩な催し 四日市復興祭」貿易再開を記念して祝う四日市復興まつりは11月1日から3日間行われるが、12万市民の盛り上がる前触れ人気は全市に沸き立ち、早くも思い思いの行事によりをかけている。主催者側の市及び商工会議所では市内各新聞社、各種団体の積極的な協賛を得、準備委員のもとで準備プランを練っているが、目下のところ大体次の各部門にわたる豪華プログラムを拡張、地区市民各団体、会社、工場を中心として展開することに決定、まつり前奏曲の火ぶたは切られている。

・祝賀式典 第2小学校

・農業まつり 農機具展、競馬(於・三滝川)

・水産まつり 水産加工品展示会

・大漁まつり 富田及び南納屋の鯨船の練り

・貿易まつり 貿易再開後援会・四日市港宣伝紹介放送(名古屋放送局)

・商工まつり 市内各商店の大売り出し・工場商店訪問縦走

・文化まつり 学童作品展・青年雄弁大会・工芸品展・工場商店芸能大会

・体育まつり 庭球、野球、卓球、相撲、マラソン大会

・市民祭り 各町工場商店による仮装行列・少年みこし

比丘尼町の大名行列

北町の紅葉狩りを似せて作られた練りか?

蔵町の岩戸山を復活?

西八幡町の手作り練り

※ 貴重な写真は、前田憲司さんの「四日市祭」から拝借しました。物の乏しい時代にもかかわらず、市民全体が工夫した手作り品で楽しむ様子が伝わってきます。

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四日市復興まつりのこと②

2021年02月22日 | レモン色の町

昭和22年11月4日付 伊勢新聞より

『千万円の豪華絵巻 四日市復興まつり閉幕』歓喜と希望を爆発させて1日から盛大に挙行された四日市復興まつりは3日その華やかな幕を閉じたが、最終日の3日は三重軍政部ヴァーン隊長、ウイルソン副隊長両夫妻が市役所の復興まつり本部へ臨席、本部広場へ朝から続々と練り込む各町の山車や練り物を興味深く観覧、大名行列などを愛用のカメラに収めて大満悦。

一方街はこの日も1,2日をしのぐほどの雑踏ぶりで3日間の人出は30万人を遥かに上回るものとみられる。特に2日、省線四日市駅(国鉄四日市西駅)では、乗降客1万1674名、近鉄四日市駅が2万6052名、同諏訪駅が1万4001名で平日のいずれも2倍半から3倍の数字を示した。また、3日間に市当局、各町内、一般家庭などで消費された費用は1千万円を超えるものと推定されインフレ時代にふさわしい豪華版だった。

  • このほか、新聞に掲載されなかった行事に

・貿易見本品即売会(於・第3小学校 現在の納屋プラザ)

・ミシン展示会(於・第5小学校 現在の中央小学校)

・民族玩具展覧会(於・富田 伊藤吉兵衛氏宅)

・輸入食品調理講習(於・諏訪公園)

・市民美術展(於・日永公民館)

・職場芸能大会(於・海山道劇場 富田小学校)

・宗教平和展(四日市警察署・現在の本町プラザ)

尚、祭りの実施計画書には、“実施目標”として「戦災、終戦以来行き詰まり感のある物心両面の生活に対し、明朗闊達の息吹を与え、復興意欲の躍動に資すること」とあった。

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四日市復興まつりのこと

2021年02月21日 | レモン色の町

昭和22年11月2日付の伊勢新聞に、“第1回 四日市復興まつり”(11月1日~3日)開催の記事が載っていた。昭和22年は、戦争の災禍からようやく立ち直りを見せて、前途に明るい光が見え始めた頃である。コロナ禍に苦しむ現在であるが、近日中には“現代版 復興祭”の訪れる日はやってくる。

前田憲司氏著「四日市祭」より

『神輿にどよめく群衆 四日市復興まつりの幕開く』

樽の神輿に野菊が揺れて 澄んだ碧空に煙火が響く 爆発する12万市民の歓喜の中に 四日市復興まつりは11月1日華やかに開催された。名物の大名行列、鯨舟をはじめ、山車、神輿、屋台、はやしなど思い思いの趣向を凝らしてどっと繰り出し、一方諏訪公園では呼び物の夕刊三重主催 ミス四日市発表会が人気を沸かせ、この日街は10万近い人出を見せた。日曜日は明治節と休日が続く2,3両日に賑わいはさらに素晴らしいものと予想され、お祭り気分はいよいよ高まって郷土復興への新しいスタートを切った。港都は興奮と祝賀の一色に塗りつぶされている。

《盛大な四日市戦災死没者追弔会》伊勢新聞主催、四日市復興まつり委員会協賛の戦災死没者追弔会は、1日午前9時から、浜田東漸寺で盛大に執行、四日市仏教会の僧侶参列、堂を震わす読経の中に遺族及び民間代表、一般市民の焼香が続き、一昨年夏業火の犠牲になって死没した八百余名の霊に対しその冥福を祈ると共に郷土の復興促進を誓った。

『全市民歓喜に沸く 四日市復興まつり最高潮』

爆発する歓喜のなかに第2日を迎えた四日市復興まつりは、前日に劣らぬ素晴らしい人出をみせ、色とりどりの山車や練り物が街の人気を沸かせたが、各所で開かれた展覧会、芸能大会、スポーツ大会などいずれも超満員。午後は諏訪公園で呼び物の本社主催仮装コンクールが爆笑を巻き起こし、進駐軍のジープも人波にもまれるなど、市内は未曽有の雑踏ぶり。夜に入ると共に街は明るい灯の海と化し、華やかな鐘と太鼓が更ける夜空に谺(こだま)して お祭り気分はいよいよ高まった。この日の人出は遂に諏訪神社大祭当日の記録を破って20万人近くといわれ、戦前に劣らぬ凄い賑わいぶりを呈した。

仮装コンクール

“目で見る四日市の100年”では、22年の11月には市市営50周年記念事業として「復興祭り」が開催され、バラックに街並みに大名行列やくじら船などが繰出した。集まった10万人近い市民は、久しぶりの祭り気分を味わうと同時に、復興へ向けて本格的なスタートを切ったのである。とあった。大入道の気配がないのは いまだに阿倉川に疎開中だったのか?

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はりき(訂正:ほりき)駅のこと

2021年02月17日 | レモン色の町

平成元年11月、岡野繁松氏を中心に“旧四日市を語る”の第1週が刊行されている。戦前、諏訪駅の次の駅が“堀木”だった。ここに斎場があった。中部中学校の校舎から煙突が望めた。

諏訪駅(戦前は旧東海道筋にあった)から西へ延びた3本の線路、参宮線?(近畿日本鉄道)は右へカーブして桑名・名古屋へ、左へカーブした三重鉄道(現・あすなろ鉄道)は、内部八王子方面へ、そして真ん中の三重鉄道(湯の山線)は、火葬場の“ほりき駅”へと伸びていた。“旧四日市を語る”にこんな記載がある。(平成18年1月の再掲載)

昭和15年

火葬場は常盤村久保田にあり、当時(昭和十年ころ)の四日市の西端にあった。周辺はほとんど田圃で、西には芝田、久保田、北には堀木の集落が田圃の向こうにひっそりと点在していてその向こうには西の山が大きく連なっていた。火葬場はその田圃の中にポッンと建っていた。すぐ南を三重鉄道の湯の山行きの電車が通り小さなホームと掘立小屋のような待合室が建っていた。

田畑の中に建つ、のどかな無人駅のような建物が想像される。きっと春の日の午後は、一面が菜の花の黄色と臭いでいっぱいだったろう。

家や寺で葬儀が済むと死者を納めた棺を霊柩車に乗せ火葬場へと向かった。この葬式の列は、殆どが西町を西へ行くか、弥生館前(柳通り)を通る道を西にとった。弥生館から西新地の狭い通りを抜けると田圃が目の前に広がり路は農道と思われる荒れた道になる。雨上がりは車の輪がくい込み、乾けば埃っぽく轍が深く残っている。この道を西へ行って、伊勢電の変電所を横に見ながら踏切を渡ると火葬場が田圃の間に見える。さらに西へ進むと、農道そのものになる。道はいっそう狭くなる。ここを三昧道とも言った。(焼き場のことを“さんまい”と言った)狭くなる手前を南へ直角にまがるとすぐ火葬場の門に突き当たる。朽ちかかった門柱と堀に囲まれた中に火葬場はあった。

現在の市立図書館が建っている場所が火葬場の跡地である。現在の図書館から北へ行くと湯の山街道との交差点がある。この交差点がやや曲がっているのは直角にまがった道を大きく改造した名残である。その当時、火葬場へ行くことを“ほおりき”へ行くといった。

昭和47年6月に図書館起工式が行われているから、この時に斎場は松本に移転されている。

図書館といえば、某市議グループさんが、移転先の候補に“じばさん”はどうかと提案されている。何よりお金がかからないのはいいが、真ん中の吹き抜けを改造しないと現状では狭すぎる。駐車場をどうするか?中心市街地の活性化につながるか?文化的建物として市民に魅力的なものになるか?現在の“じばさん”を他所へ移転させる(移転の説得)等をクリアする必要がある。

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近鉄四日市駅西口のこと

2021年02月15日 | レモン色の町

前田憲司さんからお借りした昭和32年の週刊朝日。浦松佐美太郎氏の“新日本拝見 四日市”に、昭和31年に完成した近鉄四日市駅の空撮が載っていた。

下の方に西口が見える。

樹林者刊“四日市の今昔”より

これが当時(昭和37年)の西口である。入口に電話ボックスが立つ。正面口と異なり、工業高校を背に ひっそりと静まり返っていた。その奥に出来たばかりの近鉄百貨店が建つ。

昭和43年のマップ

駅の南に線路をくぐる地下道があり、その南を線路を横断する阿瀬知川が流れる。現在西側では道路の真ん中を通っているが、当時は天理教教会の方からきていたように見える。駅の東の阿瀬知川は、今でも健在である。

昭和32年頃?近鉄駅前は未整備だ。

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四日市西駅のこと 再掲載

2021年02月14日 | レモン色の町

大正11年に建った四日市西駅舎内の様子が「旧四日市を語る 第1集」に書かれていました。岡野繁松先生お許しください。注・再掲載です

昭和7年頃の四日市西駅

西駅は省線(国有鉄道明治40年)の関西線になってから、大正11年に四ッ谷町に開設された。外壁は白亜、屋根がスレートぶきの西駅舎は、東駅の古びた駅舎に比べるとスマートであった。駅舎は東駅と同じ北向きで前には広場があった。駅舎の右(西)には売店と便所があり、左には欧風を思わせる桟の多い電話ボックスがあった。駅舎の中に入ると両側は待合室になっていて天井にはプロペラ型の扇風機が吊るしてあり、木製の長椅子がいくつかあった。右側には切符売り場、左には小荷物受け渡しの窓口があり、大きな秤が置いてあった。正面が改札口で、右に折れると参宮急行(電車)、左には関西線(汽車)の乗り場へとつながっていた。汽車に乗るには左へ階段を登り陸橋を渡ってプラットホームへ降りた(東口からも陸橋へ上がれた)。陸橋を渡るとき汽車の煙がもくもくと上がってきて咽たりした。そのうえ、汽笛が真下で鳴って驚かされた。

右に善光寺 正面に合同駅が見える 昭和初期とある

出口専用の改札口が駅舎の東側にあり、ホームから陸橋を渡って階段を下りると、この改札口に出た。待合室の東寄りに腰掛けて窓から見ていると降客がよく分かった。迎えに行ったときなどは此処で待った。改札口は汽車、電車ともに共通であった。電車に乗るときには、線路が複線になっていたのでどうしても一方の線路を渡らなくてはならなかった。駅員が転轍している様子がよく見えたし、阿瀬知川の南側(昌栄町)にあった操車場で機関車の向きを変えているのを飽きずに眺めていたことを思い出す。

踏切から西に見た本町商店街 昭和11年

夜汽車の汽笛が当時は家(八幡町)にまでよく聞こえた。哀愁を帯びた音であった。おそらくは、そのころはさえぎる大きな建物が少なかったからではないだろうか。

西駅から北を見た夜景 昭和11年

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新日本拝見 四日市 成長する町②

2021年02月13日 | レモン色の町

昭和32年発刊の週刊朝日。浦松佐美太郎著の日本拝見・四日市の投稿の最後は、こう締めくくってありました。

丹羽文雄が小説家になることを決心して生家の寺(崇顕寺)を家出したのは、昭和7年のことである。その時のことを彼はこう書いている。

「4月10日の夜10時ごろ、それまで用意しておいた行李(こうり)を持って、こっそり家を出た。菜の花が一面に咲いている畑の間を通って駅へ運んだ。そして翌日の汽車で家出をしてしまった」

その寺は、彼の言うところによれば「四日市の南のはずれにある」ということになっている。だが現在(昭和32年)では、近鉄駅前の70メートル道路のすぐわきなのだ。国鉄の駅に行く間に、一面の菜の花まで見られようわけもない。家、家、家のつながりであり、その間を貫いているものは、中心街になることを予想されている大道路である。

丹羽さんは、春の夜10時頃寺を出て、戦後拡幅される中央通りに沿って国鉄四日市駅へ向かったものと推定される。これはそれより10年ほど前の大正11年の地図であるが、当時、両脇は一面の菜畑だった。花が終わり油を取るための実が採れた後、田植えの準備にかかった。人目を避けて諏訪駅へ行かず、田圃道を国鉄四日市駅へ進む。やがて新四ツ谷町に入ると、人家が並ぶところへと入る。丹羽さんその夜は、駅の待合室で朝の汽車を待ったのだろう。

昭和11年の国鉄四日市西口駅前

(戦後)25年の間に、四日市はこれだけの変化をとげたのだ。

これだけの変わりようを示した町は、そうたくさんはあるまい。これから先の25年の変化は、もっと大きく、もっとテンポが早いことだろう。将来の大工業都市四日市は、このようにして成長しようとしているのである。日本の希望を背負って、つつがなく、たくましく育って欲しいと祈っておきたい。

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合同駅はいつまであったの?

2021年02月10日 | レモン色の町

安芸の宮島様から、2018年7月7日付稚拙ブログにコメントが届いております。

諏訪栄町界隈の生き字引でいらっしゃる当ブログ、いつも拝見しています。
四日市に参りましてはや5年、街の発展や人々の軌跡を学ばせていただいております。
さて、本文には新四日市駅(西駅の開業当初の駅名)が三重軌道の駅であるかのように記述されておりますが、本文中にある大正11年当時の西駅は伊勢鉄道(大正15年に伊勢電気鉄道に改称)の終着駅であり、三重軌道とは接続していなかったようです。
三重軌道諏訪-四日市間の廃止が昭和2年、四日市鉄道諏訪-四日市間の廃止が昭和3年とのことなので、その頃まで合同駅は存在したと思われます。
合同駅が取り壊されるきっかけは、大正14年の熊沢一衛氏の伊勢鉄道社長就任でしょうか。四日市-津間の7/短絡という目的を果たした後、名古屋・伊勢神宮への延伸という事業は熊沢氏の力に拠るものが大きいでしょう。氏以外にこの短期間で四日市-諏訪間の軌道譲渡(しかも2社から)を成立させるのは不可能ですから。
また、上記伊勢鉄道四日市-津間の開業は大正13年のようですが、開業当時は「新四日市駅」の名称だったようです。(合同駅は「四日市市駅」)その後「四日市駅」に変更されたようです。
「西駅」は線路の東側に駅舎がある国鉄の四日市駅に対しての呼び名であり、国鉄四日市駅の西出口では無い点にもご留意いただきたく存じます。

善光寺カーブを曲がって諏訪駅へ向かう伊勢電鉄。昭和5年にはすでに合同駅はなくなっている

確かに“合同駅が取り壊され西駅が完成”と、恰も合同駅の代わりに新しく西駅ができたような書き方でした。ええかげんでスンマセン。Webサイト「幻の北勢軽便王国物語」には、合同駅が大正5年3月から昭和3年まであったと記してありました。確かに安芸の宮島さんのおっしゃる通りです。西駅完成は大正11年ですから、7,8年間は二つの駅が存在したことになります。

昭和3年に、伊勢電鉄の熊澤一衛氏が四日市〜諏訪駅間を買収、三重鉄道と四日市鉄道は諏訪駅が始発になった、従って合同駅もなくなったということでしょうか?この時、西駅は関西線(国鉄)と伊勢電鉄(後の近鉄線)の合同駅舎になっています。

それと、東の四日市駅に対して、西駅は別の駅として捉えられていたのでしょうか?継ぎ足して建てられたり壊されたりする四日市駅の歴史が垣間見えるようです。

<追記> 下総人様 昭和47年 四日市公害裁判結審の日の空撮です。下総人様の屋敷跡は見られるか?微妙なところでゴザイマス

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新日本拝見 四日市 成長する町

2021年02月09日 | レモン色の町

このように大きく発展していく工業の力は、四日市の町そのものを大きく変化させている。外資による火力発電所が港の埋立地に建設されている(中部電力三重火力発電所 昭和29年2月着工→昭和33年6月完成)。増大する工業の要求に追いつかなくなった電力を補給するためである。道路も現在(昭和32年現在)の幅の狭い東海道1本では、もはやトラックがさばききれない状態である。これと並行して名古屋との間に、もう1本自動車道路をつくろうという計画がすすめられている(名四国道 昭和35年6月着工→昭和38年2月完成)

町そのものがどのように発展していくか、その将来を見極めての計画がないのだから、どんな変化が起こるのか誰にも予想がつくまい。

計画らしいものに基づいてやられたただ一つの仕事は、大阪と名古屋を結ぶ2本の鉄道である国鉄の関西線と近畿鉄道線を分離したことであろう。従来は国鉄の四日市駅で連絡するためには近鉄線は街の中をぐるりと迂回して走っていたのであるが、それを分離して直線の軌道になおし、近鉄の駅は、国鉄の駅からはるか離れたところに新築された(近畿日本鉄道四日市駅完成 昭和31年9月)。その為に、昔の近鉄の線路の跡は道路となり、ここにも新しい繁華街が出来ようとしている。駅舎は屋上に電光ニュースの設備を持った堂々たる建物である。

左に市役所と公会堂が建つ。講和記念博覧会跡地だから昭和28年頃だろう。下総人さんの家が、裁判所予定地の西に建っているのではないでしょうか?

国鉄四日市駅と近鉄駅を結ぶ70メートル道路を歩きながら不思議なことを発見した。それは、全部が舗装され緑樹地帯が作られ、市役所の前にはロータリーまで設けられているのだが、その道路の片側には舗装もされず長々と口を開けているものがある。下水の溝なのだ。

新しい駅舎2階から東を望む。左に川が見える。昭和32年

地面が低くて満潮時には水はけの悪い四日市では、よほどの整備をしないと、下水管を埋設することができないのである。それで二つの駅を結ぶ中心道路を作り、大都市にふさわしい設計もしたのであったが、この下水の溝だけはどうにもならなかったというわけである。発展していく速度に追いつけず、ナリもフリもかまわずただガムシャラに駆け出している四日市の姿が、この溝に何よりも良く象徴されているように思われた。

これだけの変わりようを示した町は、そうたくさんはあるまい。これから先の二十五年の変化は、もっと大きく、もっとテンポが早いことだろう。将来の大工業都市四日市は、このように成長しようとしているのである。日本の希望を背負って、つつがなく、たくましく育ってほしいと祈っておきたい。

写真“四日市の今昔”樹林者刊 前田憲司さん 資料提供ありがとうございました

 

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