花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

国民禮法

2021年07月18日 | レモン色の町

『国民禮法 初等科五學年』という古い本をお客様から頂戴した。

40ページの薄い本である。昭和17年3月10日発行。菊のご紋章の扱い方をはじめ、近所付き合いや公衆衛生の心得等、戦時下におけるエチケットやマナーなどを5年生児童に向かって“こうしなさい!”調で書いてある。“第八 貯蓄報国”の項にこうあった。

1.日常生活に直接なくとも済むような無用なものは、なるべく買わないで、出来るだけ貯蓄報国致しましょう。

2.家にあるもので間に合うものは、あり合わせですましましょう。

3.一度使ったものでも、更に工夫すればまた何らかの役に立つものであるから、みだりに物を捨てないようにしましょう。

4.学用品その他の持ち物は、大切に取り扱い、長持ちさせましょう。

5.ぜいたくは敵である」私たちは平生なるべく衣食の費用を節約して、不時に備え、虚飾は戒めるようにしましょう。

6.人がどんなに美衣をまとい、美食におごるとも、これに目をくれず、決して人のものを羨ましがらぬことにしましょう。

喜怒哀楽のない顔!

国民は隠れるようにして、おいしいものを食べたり、おしゃれを楽しんでいたのだろうか。悪いことをしているように・・・。

7.スーパーはお酒を売ってもかまいませんが、酒屋は飲食店にお酒を卸してはなりません。とは記してありませんでした。


聖武天皇社

2021年07月17日 | レモン色の町

松原町北ジャスコの西側にある“聖武天皇社”に寄った。毎年7月16日は松原の大祭(松原石取祭)が行われており、幟も残ったままの後片付けの日に伺った。

「続日本紀」によると、天平12年(740)の藤原広嗣の乱の際、聖武天皇は伊勢に行幸した。この時に朝明郡衙(朝明郡の役所)に泊まったという。

境内に建つ聖武天皇の万葉集にもある歌碑(佐々木信綱 筆)に「妹(いも)に恋い吾(あが)の松原見渡せば潮干の潟(かた)に鶴(たづ)鳴き渡る」(いとしい人に焦がれて自分が逢うことを待っているという名の松原を見渡すと、潮の引いた遠浅の海に鶴が鳴いてずっと飛んでいくことだ)とあり、この松原を今の松原町の聖武天皇社付近と解釈する説がある。当時松原村は海岸であって、富田一色村は砂浜であった。(四日市市のホームページより)

 伝承では天皇社は、朝明頓宮(とんぐう)の跡に鎌倉時代の安貞元年(1227)に創建されたと伝えられているので、最終的に海岸沿いの松原町に落ち着いたことになる。氏子数800軒。前には公園があり、地元の人々に大切にされている印象を受けた。

天皇個人をまつる神社は全国的にも珍しく、桑名の天武天皇社、富田地区の日本武尊由来の鳥出神社と、香川県に安徳天皇社がある。(ウィキペディアより)


残された最後の海岸

2021年07月16日 | レモン色の町

礒津の内部川河口から吉崎海岸を回ってみた。今の季節、礒津の海岸はすっかり草でおおわれていた。

吉崎海岸は、ウミガメの産卵場所として有名である。砂州を探し求めてやってきた動植物が、猫の額ほどの砂浜に生息地を見出している。産業振興の結果、四日市ぜんそくに象徴されるように、その分だけ自然や生活が破壊されてきたのである。

大正2年〜8年頃の吉崎海岸

 

吉崎海岸は、市内に残る貴重な自然海岸で、アオウミガメやシロチドリをはじめ、浜辺の動物にとって大切な場所となります。また浜辺という厳しい環境で育つ海浜植物も数多く見られ、ハマヒルガオを代表とする花々が春から夏にかけて見頃を迎えます。恵み豊かな自然を将来の世代に引き継いでいけるよう、海岸の環境をみんなで守っていきましょう。 四日市市環境保全課

『海』

海は広いな大きいな 月がのぼるし日が沈む

海は大波青い波 揺れてどこまで続くやら

海にお船を浮かばして 行ってみたいなよその国

『海』

松原遠く 消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ

干し網 浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ

見よ昼の海 見よ昼の海

鳥山 闇に著(しる)きあたり 漁火(いさりび)光 淡し

寄る波 岸に緩くして 浦風 軽(かろ)く沙(いさご)吹く

見よ夜の海 見よ夜の海

追記:前に富洲原小学校を過ごされた方が、学校からすぐ東に浜辺が広がっていた事を話された。これは大正2年〜8年のマップである。住吉町をまたがないことには海には出られない。

 


戦時下の四日市海水浴場

2021年07月14日 | レモン色の町

昭和12年にはじまった日中戦争後、年を追って戦争体制が強化され、夏の海水浴については、国民の体力づくりが重視されるようになり、それまでの保養・娯楽やスポーツという精神は没却されてしまった。そのため身体の鍛錬に重きを置き、戦闘のための訓練になっていった。富田・富洲原の海岸は遠浅の白砂青松の景勝地の海水浴場として知られていたが、昭和になると、霞ケ浦、富田浜の北方の松ヶ浦(富田一色)・須賀浦海岸にも新しい海水浴場を開設して、県内外の一般人はもとより、児童・生徒の水泳訓練や海浜学校の受け入れを図った。

皇居遥拝で始まる一日(四日市市午起海岸・昭和12年)

保養所の朝は、職員、生徒ともにこの深々とした礼拝をすることから始まり、朝礼、軽い体操と続いた。(目で見る四日市の100年より)

昭和37年の松ヶ浦・須賀浦海水浴場調査報告書によってもこのころすでに相当な施設が整備され、盛況であったことが分かる。このように富洲原地区の発展に合わせて、海水浴場の管理運営の中核として、四日市富洲原保勝会を作っている。富洲原保勝会では昭和39年と40年の二回にわたって富洲原地区に簡易保険無料健康相談所の開設を請願、設置されている。また、須賀浦海水浴場にラジオ体操を行う際のラジオ受信機貸与申請書も出し、市民の健康増進のために活動している。県内の学校のみならず名古屋や関西方面の学校が必須科目の水泳訓練として、遠泳や海浜(林間)学校を取り入れていた。 四日市史より 

午起海岸の起工式場(四日市市午起・昭和18年5月)

海水浴場石段脇で浦賀ドック四日市造船所の起工式が行われた。ここでは主に木造船を製造していたので、空襲の際には、火だるまになった船の形が、まるで仕掛花火のように見えたという。(目で見る四日市の100年より)

戦時体制下へと組み込まれていく海水浴場。つまらない時代になっていったと想像できます。


郷愁の午起停留場

2021年07月13日 | レモン色の町

昭和13年のマップに午起驛がある

三岐鉄道は昭和27年12月から30年(訂正:昭和39年)10月まで、国鉄関西本線 富田~四日市間の直通乗り入れ運転を行い、富田浜~四日市間に三岐鉄道の列車のみ停車する三岐鉄道午起停留場を開設した。(四日市市の今昔 樹林者刊より)

右、午起海岸

昭和30年8月、私(伊勢生まれの下総人さん)が小学3年生の時だった。午起海岸で海水浴を楽しんだ後、友人と私は、午起停留場から四日市行三岐ガソリンカーに(進行方向に向かって左側から)乗り込んだ。この年の2月、私は昌栄町へ引っ越してきたばかりだったので、新しい友人と出かけたのだった。二人でガソリンカーの荷台に乗り込み、四日市までのつかの間、涼感に満ちたショートツアーを満喫した。

昭和36年11月、関西本線東側に並行して三岐鉄道四日市新線工事が始まったが(午起停留場を取り壊して線路が敷かれた)、開業することなく昭和43年12月に廃された。

現在、関西本線がここを利用して複線化されている。午起停留場は跡形もない。

追記:三岐鉄道の国鉄関西本線直通乗り入れ列車(昭和29年)

三岐鉄道は昭和27年から、富田~国鉄四日市駅までディーゼル客車で直通乗り入れ運転を行っていた。昭和35年12月に三岐鉄道の全旅客列車が電車化されたが、関西本線の乗り入れ列車のみディーゼル客車で運行されていた為、富田駅での乗り換えが必要だった。昭和39年8月には山城駅~国鉄四日市駅間で、三岐鉄道乗り合いバスの運行が始まり、国鉄乗り入れ運転は昭和39年10月に廃止された。(写真提供=高井薫平氏 四日市市の今昔より)


須賀浦海水浴場 椙山 満

2021年07月12日 | レモン色の町

民宿もあった須賀浦の海 椙山 満

平次郎橋や海運橋をくぐってきた運河(堀川)が海に注ぐ川口に構える富洲原港。それから北にはまた翠(みどり)深き磯馴松という松原と遠浅の白砂の美しい海岸が延々とつづく。この天カ須賀の海岸は須賀浦と呼ばれる海水浴場で、上水道の噴水塔、貸舟、貸ボート、売店、無料休憩所など軒を並べ、遠浅で女子供にも安全で、愛知県下の小中学生の宿泊団体までやって来て夏中賑わっていた。

中には汐とり(汐湯治)さんといって、長期間宿泊して海水浴する人々もあって。その最盛期には天カ須賀の民家の百五十軒位がこれを受け入れていた。また特にこの浦の名を高くしたのは、遠浅の海で取れる蛤の潮干狩りと、須賀浦海水浴場近くにある入江の碧水に、常盤の翠録を垂れ映し、うっ蒼として空を覆い、千鳥の啼く音を交えて海風に天楽を奏し、一味の涼気と一脈の仙風を以って遊覧客を迎えてくれる樹齢三百年の老松「住吉の松」で、この松は須賀浦の誰もが語る名勝でありシンボルであった。

   (椙山医院院長・四日市郷土史研究会会長)

昨日、富洲原小学校へ通っていたお客さんと話が弾んだ。海水着で学校からはすぐ海ということだった。住吉町を通って須賀浦海水浴場へ出たようだ。

 


人気を呼んだ富田浜 椙山 満

2021年07月11日 | レモン色の町

四日市市史研究 第14号より“人気を呼んだ富田浜 椙山 満”

省線富田浜駅からまっすぐ海に出ると、ここが富田浜海水浴場。ここも水のきれいな白砂の海岸で、隣の霞ケ浦に負けじとこしらえた人口の岩山から大瀧が落下していて、海水浴後の水浴びに大人気を博していた。

この浜の特徴は旅館や別荘が多かったことと、天然の好環境に恵まれて保養(サナトリウム)の性格を持つ富田浜病院や飯田病院が海岸通りに並んでいたことである。

富田浜病院

三藤旅館

飯田病院の東は入江になった松原で、近くの一本松と並んで、富田の名所絵葉書になったほど詩情と風光にあふれていた。この入江の北半分は、十四川の川口でもあり、帆柱の並ぶ富田の漁港になっていた。

ここから北に続くは富田一色の海岸で、舟が砂浜に引き上げられ、海産物が砂浜一杯に干されてあるので海水浴はできないが、その北半分は松ヶ浦海水浴場と名付けられ、飛び込み台やボートが浮かび、富田中学(旧制)のヨット部が訓練に勤しんでいた。

昭和30年頃の空撮。午起周辺が写っている。国道23号線(名四国道)は未完成だ。慈善橋も以前の位置にある(その後、西に移動)。この時(昭和30年)は三岐鉄道は午起停車場への乗り入れが出来ていた(昭和27年12月~昭和39年10月・富田浜~四日市間)。昭和13年のマップには、確かに午起駅は存在しているが、省線(国鉄)は停まらなかったのだろうか?


午起駅跡を行く

2021年07月10日 | レモン色の町

三岐鉄道のみ停車する午起停留場跡はどうなっているのか?

平成29年の樹林舎さんの写真 そして今日の写真①

昭和13年

少し北の踏切から撮った。①列車が通過する

①そしてJR四日市方向へ

三滝川北の四日市東洋紡績跡は現在 三滝公園でテニス場がある。②広い!広い

午起バス停前③ 右奥に堤防の跡が残っていて 東には中部電力火力発電所が建つ 面影はまったく無くなってしまっている

三滝川の北沿いの堤防は改めて行くことにした。南対岸から三滝公園方向を見る④

ガード下は往時の面影が残る 身近なところに、少し道を外れるとこんな場所が残っている

 

 


椙山先生の霞ケ浦海岸

2021年07月09日 | レモン色の町

霞ケ浦遊楽園も登場 椙山 満著(四日市市史研究 第4号”より)

堀切川を境に北側の小松原は、大正12年から開発された高級住宅地。いわゆる霞ケ浦の別荘地帯(現在の競輪場の北)。その隣が有名な霞ケ浦遊楽園という海水浴場(ここは有料)だった。

夏の日を好めるさがとなりにけり

   かすみが浦を知りそめしより (楚歌)

風光明媚な霞ケ浦は、白砂遠く連なり青松その間に点綴していて、東は駿河の山岳を望み、知多半島は呼べば応えんとして内海鏡のごとく白帆の去来する様は一幅の画面に似たりと名所案内に記されているように、霞ケ浦は海岸遠浅で波静かなるのみならず、海水清澄にして夕陽を受けず(東向きの意)、ここには十二間四面二百二十坪の千人風呂という大浴場があって、塩水と淡水の二槽から常に清澄な水が溢れていた。

また海岸の砂上に数百坪の池があり、海水の噴水が吹き上げ、いろんな運動器具の備えられた児童遊泳場があって、子供たちの人気を集めていたし、居ながらにして伊勢湾の風光を賞味できる大食堂、大広告塔の夜景など、北勢第一の娯楽場付きの海水浴場であった。また、ここのゲートから演芸館に至る松原はシドロ松と呼ばれていたが、これは志氏(幣)の松のなまったものと言われ、霞ケ浦と隣の富田浜の間を志氏ケ岬(天武天皇の御旧跡)と呼んだ頃もあり、羽津地区と志氏の地名は不可分な間柄にあることがわかる。

昭和30年 遊楽園

 遅れにし人を思はく志氏が岬

     ゆふとりしでて住まむとぞ思ふ(萬葉集)

昭和の初めころ

追記:国鉄の午起駅が昭和13年のマップにあった。午起バス停のすぐ西である。出かけてみようと思ったが、13時30分頃、四日市は土砂降りの雨になった。運転していても、前がよく見えないほどで、何もする気がしなくなり、急いで帰った。今思い出すとうそのようである。


午起海岸点描

2021年07月07日 | レモン色の町

「知られざる 四日市の面影」四日市市立博物館刊より

四日市十二景 水谷百碩画 “午起之綱引”

現在、第二コンビナートが立ち並ぶ午起は、昭和30年頃までは海水浴場として親しまれていました。この絵は漁師が地引網をしているところで、画面右上には白い灯台と稲場町から伸びる四日市の防波堤が描かれています。網を引く人の外に、手に網を持った赤ちゃんを背負った女性や子供の姿が見えます。

泗水十二景 出口對石画 “馬越(うまおこし)の青嵐”

馬越(午起のこと)の田植えが終わったばかりの水田から東の方向を描いています。水田の先、土塁の向こうには見えていませんが砂浜があり、その先に伊勢湾が広がっています。稲の苗と松原の緑と伊勢湾の青、海上の白い帆をはらませた船、わきたつ入道雲に初夏の風情が感じられます。埋め立てられるまでは白砂青松の美しい海水浴場としても有名でした。

“四日市市の今昔”樹林舎刊より

三岐鉄道は昭和27年12月から30年(訂正:昭和39年)10月まで、国鉄関西本線~富田四日市間の直通乗り入れ運転を行い、富田浜~四日市間に三岐鉄道の列車のみ停車する三岐鉄道午起停留場を開設した。昭和36年11月には関西本線東側に並行して三岐鉄道四日市新線工事が始まったが、開業することなく昭和43年12月に廃された。現在、関西本線がここを利用して複線化されている。午起駅は跡形もない。

遥か右(東方向)に松並木が見える

追記:前回ご紹介した午起バス停の二階家の航空写真がありました。ちょうど中央の角がバス停前の食堂でゴザイマス

2012年11月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

この後、南北に新しく名四国道ができます。右上に並ぶのが午起3丁目の住宅。名四国道が出来て不便になり、現在はすっかり姿を消しました。