グッドデザインエキスポ。無事に終えました。(と、29日にこのブログを書いています。)
多くの友人たちに来場いただき、また、多くの人たちに支えられて展示することができました。
この場をかりて御礼いたします。ありがとうございました。
できるだけ会場にいるようにしたのですが、会えなかった方々、ごめんなさい。
また折を見て、お会いできれば幸いです。
展示した資料を会場に置いていましたが、全てなくなる勢いに驚きました。
たくさんの人に見ていただけたようで、ほんとうに嬉しい限りです。
さて、今回、自分も出展する機会を頂いて他の方の展示を見て思ったのは、建築に対する建築家の捉え方(スタンス)について。
ざっくりと言えば建築を敷地の中だけで捉えている(ように思える)人と敷地とその周辺も含めて捉えている(ように思える)人。二項対立というわけではないのですが、建築が建築だけで建っているというスタンスに、私はどうしても違和感を感じます。
昔から感じている違和感。
建築をどのようにつくるかという問題に対して、その建築のおかれた環境がどうなっているのか。どんな環境にその建築が接するのかというのは、与条件あるいは、制約条件として大切にしたいと私は考えています。
建築が建築たるゆえんは、まわりの環境があってこそなのだと私は思います。
だからこそ、もっと環境に寄り添いたい。形態だけでなく、建築を周辺環境と馴染ませたいと思います。
そして、その建築に求められる建築としての機能を満たすこと。
例えば、それが住宅ならば、快適に「住まう」ということ。
快適に住まうとは、安心して心を許せるということ。
セキュア・ベース。
物理的な安心感も、見た目の安心感も、建築には両方大切だと私は思います。
誤解を恐れずに言うなら、それらを無視したような形ありきの(ように思える)、独りよがりの(ように思える)建築は、建築というよりはアートに近いと感じます。
語源は一緒でも、私は、アートと建築は区別したい。(アートも好きですが。。)
そんな、「建築の在り方」そのものをきちんと考えたい。
「建築が置かれることで、自然が、風景がさらに引き立つようなものをつくりたい。」と言ったのは、建築史家で建築家の藤森輝信さんですが、言いえて妙だと心から思います。
最近、グラフィックデザイナーの原研哉さんのつぶやきに以下のようなものがありました。
以下、引用
「棍棒系」のデザインと「器系」のデザイン。人間が直立歩行をするときに手に入れた二つの道具の始源。武器としての「棍棒」と、両の手を合わせてできる「器」。世界を加工変容させていく身体拡張系の道具と、何かを守り保持する道具。建築や書物、箱にときめくのは器系デザインへの志向かな。 9:43 AM Aug 10th
この例えは、建築にも当てはまると思います。
「棍棒系の建築」と「器系の建築」。
ひと昔前に言われた「大文字の建築」と「小文字の建築」のように、どちらが正しいということではありませんが、これからの建築の在り方を考えるときのヒントになりそうです。