てつがくカフェが盛岡であった。またしても参加できなかったが、自分の考えている事を書いたのを送っておいた。どう使われたかは解らない。とりあえず全文出しておく。理論の飛躍が多いので、駄文だと思う。
ただ、なんかこの2週間の苦しみが訳の分からない文章になっているのは、確かだ。311の一年目という事で、本当に辛かった。突然現れた恐怖と、確実に来る日付の恐怖との違いと言うべきだろうか。
哲学カフェ「故郷」
用語の再定義をする必要があると思います。
まず「故郷・こきょう」と「古里・ふるさと」を分けて考える必要があります。どちらも生まれ育った場所をさす言葉です。ただ重要なのは距離感だと思います。故郷は距離も時間も遠いのです。古里は帰れる範囲もしくは時間を近く感じさせます。次に故郷は、国と変換できます。「お国はどちらで」と出来ます。古里の場合、国よりは狭い範囲になります。なんとか村のなんとか集落になります。これと逆に字面通り古い里、田舎をさす事も出来ます。なのでお土産屋には「ふるさとの味」とか書かれる事になります。
これは漢字の問題であります。故郷の「故」は失われたという意味もあります。 故郷の「郷」は、「白川郷」などありますが元々は村全域とかそういった広さがある言葉です 。古里の「古」は単純にふるい、もしくは田舎という意味合いがあります。「里」は距離の単位でもあります。田舎と言った場合にはとても広い定義になりますし、里の単位は子供の遊ぶ範囲みたいなイメージになると思います。あやふやな感じがします。
このせいか、「故郷」からはメランコリーやセンチメンタルを感じさせます。「古里」にはノスタルジーがあるように思います。
画数の違いか、 「故郷」は青年期の思いででしょうか。「古里」となると少年期でしょうか。イメージが変わると思います。
さて重要なのは、この二つの言葉は使う場所が違うという事です。「故郷」は遠い場所で使われる言葉だと思います。東京で岩手の話しをするといったイメージです。古里は逆に解る人の範囲でしか使えません。細かくなるからです。盛岡だとしても、「故郷はどこ」という場合は大雑把に答えれますが、「古里はどこ」となると難しくなります。逆にアバウトなイメージで使うのが最適となっていると思います。まずもって、会話では使わない、抽象化された言葉になっていると思います。
故郷からはなれて別な所で生活する人が使う言葉、だと思います。
その上で、東京生まれの東京育ちは両方の言葉を使いません。なぜなら二つの言葉は、地方を指すからです。「浅草の生まれ」とか「荻窪で育った」とかになります。東京には田舎が無い事になっているからです。故郷も古里も、田舎と置き換える事が出来るためです。
転勤族の子弟のふるさと感というものもあります。彼らから見れば、ふるさと=地というイメージがあるようです。土地に根ざしたものを持っている人がふるさとを持っている。転勤して土地を点々とした彼らは、あえて言えばという前置きで、地方で少し長くいた土地で、楽しい思い出があった所となるようです。アイディンティティの形成に強く影響した土地をさす場合もあります。
その転勤族の親が「第2の故郷」という場合があります。これはその土地のコミュニティに受け入れられ、同化したと思っているという事です。それがやむを得ず離れてしまった時に使われると思います。
さて「故郷」と書いて「ふるさと」と読ませる場合はどうでしょうか。この言葉は良いとこ取りをします。距離を不明にしてしまうのです。故郷は遠いのです。帰っても受け入れて貰えない可能性があります。ふるさとはどこか近いのです。コミュニケーションが出来る可能性を持っています。
更にセンチメンタルがノルタルジックになって、あたかも良い事ばかりあったように見えてきます。
このルビの振り方はどうも児童唱歌の「故郷」からのようです。うさぎおいし、かのやま、です。このイメージが都合の良い言葉として、ふるさと創世資金などに使われるようになったと思います。
さてどちらにしても離れた所から使う言葉です。生まれ育って、そこで暮らしている人の使う言葉ではないと思います。「都合のいい言葉」であって、本質は違います。
暮らしている限り、私の街であり私の村であるはずです。
さてあっさりと言い切りましたが、古里の抽象化は変な話しです。単純に古俗を守っている里で十分な話しです。これは多分なのですが、近代化が進む里というのが現実にあって、古いというイメージがなじまなくなり、古里→ふるさとに変わったのではないのかと根拠もなしに思います。その上児童唱歌が抽象イメージとして残ったのではないのかと思います。自然が一杯あるというのが、基本になりそうです。
ここで、「故郷・ふるさと」というのは実際はどうゆうものなのかと、考えます。まず単純に現在100歳から0歳までの間でイメージしますと、恐ろしく多様な事が解ります。用例は出すまでもないでしょう。日本全体の変貌が凄まじすぎるからです。
更に個人差があります。同じ地域で生まれ育ってもスポーツマンとオタクでは違うはずです。基本的に同じ生まれ育ちでも、「あなたのふるさとは、私のふるさとと同じではない」となるでしょう。
実はこういった所で、ふるさとは変わらない山や川などの自然としているようです。これを基本に、変わっていない所を探しつつ、それぞれのふるさとを定義していると思います。
更に生まれついてそこで暮らしてきた人と、離れた人とでは意味が変わります。
それが、住んでいる人にはふるさとというのは、おかしいという私の発言になります。ただ離れた人にとっても、住んでいる人にとっても繁栄というのはうれしい事です。
ここで考えたい事があります。田舎を故郷という言葉を使う場合です。最近増えているようにも感じています。地方発信の番組なんかでたまに出ていました。コマーシャリズムを感じるのですが、そういった使い方もあります。
実は復興に際して、「ふるさと」という言葉が出ている例が多いように思います。しかも住んでいる被災者がいっているという事です。「ふるさとが居住禁止になった」みたいな発言です。もちろんここで「失われた郷」であるならば正しい言葉です。しかし使われているのはふるさとという遠いイメージであって、誰に向けての言葉なのかよくわからない所があります。
故郷の言葉にはもう一つ、嫌らしい意味があります。それは東京などに人を送った歴史です。現在でもこれは続いています。優秀な人間を輩出して、故郷に錦を飾ってもらうという歴史が戦前ありました。現在もあります。しかし今うまくいっていない、というのが状況だと思います。ふるさとはがんばって育てたのにと思っているかもしれません。育てられた人は、東京で競争が激しすぎてがんばってもがんばっても、何も出来ない。社長になってふるさとに工場を造りたくとも、グローバル経済ではムリとなっています。
ふるさと納税は、言葉の意味でも、この隙間でうまく回ってゆければ面白い制度だと思います。
ふるさとと言う言葉をなぜ地方が、しかも住民が言わなければ行けないのか。本質的な問題だと思います。生まれ育った土地から遠くはなれた時に、ふるさとは生まれるのです。この言葉は、土地を抽象化しなければ現住者が話せない言葉です。確かに津波で「故郷」になってしまいましたが、それでも住むと言うならばそこは故郷ではないのです。生活の場なのです。
私にとっては、違和感のある使われ方をされている言葉は滅多にありません。そもそもふるさとは各個人で違うものです。記憶の問題です。元々住んでいる人に取っては些細な変化でも、出て行った人に取っては大きな事だったりもします。世代間のさもあります。
震災はその意味でも、すべてを消し去りました。残っているのは、ガレキだけではなく、住んでいる人も離れた人も、思い出だけを残して消えました。そこに「ふるさと」が立ち現れていると感じます。
被災者がふるさとという場合には2重の意味が込められているように思います。
まず一つは、自分たちの土地をなんと呼んでいいのか解らなくなっている、という事です。例えば山田町といって良いのか、街と言っていいのか。無くなっているのですから。
それでは、田舎と呼び変えても良いのですが何ともしっくり来ません。そこで「故郷・ふるさと」に落ち着いたのかと考えられます。特に外部から来たボランティアやメディアに対しては使いやすい言葉だと思います。
次が、今現在離れて行った人たちへの期待かもしれません。戻ってきて欲しい。その気持ちが本来使われない言葉に出ていると思います。
もしかすると、東京へ出て行って帰ってこない子弟たちへの呼びかけなども含んでいると思います。
今回は行政による、「ふるさと」の移転が問題なのだとは思います。強制移住なのかどうかという事です。財産権の問題もあります。ここで天災による移住が、人権として正しいのかが議論されるべき問題です。
次にふるさとから土地を切り離して、コミュニティが残っているかどうかという問題もあります。多くの犠牲者を出し、生活のために土地を離れて行った人も多数います。この状態で、高台に移転して新しく生まれ変わったとしても、そこは「ふるさと」と言い切れるのかどうか解らないという事です。
毎年季節ごとに帰省していた家族が、来なくなる可能性もあります。
大変な事例としては、福島県の場合です。子供のために家族で避難した先で仕事を見つけてがんばっているのに、コミュニティからは逃げたと言われてしまって帰れなくなっている状況も起きているようです。この場合、故郷を2重に喪失している事になります。家屋の被災・コミュニティからの拒絶です。これを避けるために我慢する人も現れていると聞きます。
極端で目立つ事例ですが、こういった事が岩手県沿岸でもあるのかどうか。福島ほどではないが、あると考えています。
ここに違う側面もあるのではないのか。この言葉は、同調圧のシンボルとして使われていないか、という事です。かつて「日本男児だろう!」と言われていたのと「ふるさとの復興!」というのは似たような美学を感じるからです。
「ふるさと」という言葉の美しさは解ります。ただこれを連発すると、本来の生活の場を復興させる、妨げになる可能性を感じます。
自家中毒に陥る可能性を秘めているからです。「ふるさとを守り・育てる」といったキャッチコピーが、逆を生む事の方が多いのは誰もが承知している事です。
これが今回は「ふるさとの復興」です。これ以上の曖昧さは無い訳です。
最後になりましたが、自然の大枠さえ残っていれば、大体の所ふるさとなんです。コミュニティがまとまっていていれば尚良いのです。それが出て行った人間の意見です。全く違う姿に変わっても、文句は言えません。むしろ後世に残る意義のある町作りをした方が、自慢できます。
ふるさとというのは、自然だけではありません。自慢できる、ここを忘れちゃいけません。
極端な所、巨大防潮堤に住居があったら?上は道路だという発想が良くない。巨大防潮堤が太陽光発電施設だったら?防潮堤の傾斜角を計算して、風が通りやすくして風力発電もしたらどうか?防潮堤の上は飲食街で海を眺めながらのだったら?すっごい近未来感が出ている。緊急時には防潮堤のシェルターに潜り込めば3日は大丈夫だったら?防潮堤の海側にウオータースライダーを付ければ日本最大落差のウオータスライダーになるかもしれない。漁師は海からはなれるのを嫌がっているが、ここなら海は近い。
逆に全部地下だったら?
無い町を作ってしまうのも考えられる事です。自然には最適でしょう。
ふるさとという言葉は、考える自由も奪う可能性があります。
最後の例だが、実際法令等で出来るはずが無いアイディアだ。だけどこれくらい極端なアイディアを出さないと、変な方向に行ってしまいそうな気がする。
少し付け加えます。日本の民謡は各地域でドメスティックなものだったと思います。それがラジオなどで広がり広域化しました。例えば東京出身者が津軽三味線を弾くとか、九州出身者が東北の民謡を歌うとかなりました。
それがどうかと思われるかもしれませんが、こういったこともふるさとを考える起点にはなりそうです。
ただ、なんかこの2週間の苦しみが訳の分からない文章になっているのは、確かだ。311の一年目という事で、本当に辛かった。突然現れた恐怖と、確実に来る日付の恐怖との違いと言うべきだろうか。
哲学カフェ「故郷」
用語の再定義をする必要があると思います。
まず「故郷・こきょう」と「古里・ふるさと」を分けて考える必要があります。どちらも生まれ育った場所をさす言葉です。ただ重要なのは距離感だと思います。故郷は距離も時間も遠いのです。古里は帰れる範囲もしくは時間を近く感じさせます。次に故郷は、国と変換できます。「お国はどちらで」と出来ます。古里の場合、国よりは狭い範囲になります。なんとか村のなんとか集落になります。これと逆に字面通り古い里、田舎をさす事も出来ます。なのでお土産屋には「ふるさとの味」とか書かれる事になります。
これは漢字の問題であります。故郷の「故」は失われたという意味もあります。 故郷の「郷」は、「白川郷」などありますが元々は村全域とかそういった広さがある言葉です 。古里の「古」は単純にふるい、もしくは田舎という意味合いがあります。「里」は距離の単位でもあります。田舎と言った場合にはとても広い定義になりますし、里の単位は子供の遊ぶ範囲みたいなイメージになると思います。あやふやな感じがします。
このせいか、「故郷」からはメランコリーやセンチメンタルを感じさせます。「古里」にはノスタルジーがあるように思います。
画数の違いか、 「故郷」は青年期の思いででしょうか。「古里」となると少年期でしょうか。イメージが変わると思います。
さて重要なのは、この二つの言葉は使う場所が違うという事です。「故郷」は遠い場所で使われる言葉だと思います。東京で岩手の話しをするといったイメージです。古里は逆に解る人の範囲でしか使えません。細かくなるからです。盛岡だとしても、「故郷はどこ」という場合は大雑把に答えれますが、「古里はどこ」となると難しくなります。逆にアバウトなイメージで使うのが最適となっていると思います。まずもって、会話では使わない、抽象化された言葉になっていると思います。
故郷からはなれて別な所で生活する人が使う言葉、だと思います。
その上で、東京生まれの東京育ちは両方の言葉を使いません。なぜなら二つの言葉は、地方を指すからです。「浅草の生まれ」とか「荻窪で育った」とかになります。東京には田舎が無い事になっているからです。故郷も古里も、田舎と置き換える事が出来るためです。
転勤族の子弟のふるさと感というものもあります。彼らから見れば、ふるさと=地というイメージがあるようです。土地に根ざしたものを持っている人がふるさとを持っている。転勤して土地を点々とした彼らは、あえて言えばという前置きで、地方で少し長くいた土地で、楽しい思い出があった所となるようです。アイディンティティの形成に強く影響した土地をさす場合もあります。
その転勤族の親が「第2の故郷」という場合があります。これはその土地のコミュニティに受け入れられ、同化したと思っているという事です。それがやむを得ず離れてしまった時に使われると思います。
さて「故郷」と書いて「ふるさと」と読ませる場合はどうでしょうか。この言葉は良いとこ取りをします。距離を不明にしてしまうのです。故郷は遠いのです。帰っても受け入れて貰えない可能性があります。ふるさとはどこか近いのです。コミュニケーションが出来る可能性を持っています。
更にセンチメンタルがノルタルジックになって、あたかも良い事ばかりあったように見えてきます。
このルビの振り方はどうも児童唱歌の「故郷」からのようです。うさぎおいし、かのやま、です。このイメージが都合の良い言葉として、ふるさと創世資金などに使われるようになったと思います。
さてどちらにしても離れた所から使う言葉です。生まれ育って、そこで暮らしている人の使う言葉ではないと思います。「都合のいい言葉」であって、本質は違います。
暮らしている限り、私の街であり私の村であるはずです。
さてあっさりと言い切りましたが、古里の抽象化は変な話しです。単純に古俗を守っている里で十分な話しです。これは多分なのですが、近代化が進む里というのが現実にあって、古いというイメージがなじまなくなり、古里→ふるさとに変わったのではないのかと根拠もなしに思います。その上児童唱歌が抽象イメージとして残ったのではないのかと思います。自然が一杯あるというのが、基本になりそうです。
ここで、「故郷・ふるさと」というのは実際はどうゆうものなのかと、考えます。まず単純に現在100歳から0歳までの間でイメージしますと、恐ろしく多様な事が解ります。用例は出すまでもないでしょう。日本全体の変貌が凄まじすぎるからです。
更に個人差があります。同じ地域で生まれ育ってもスポーツマンとオタクでは違うはずです。基本的に同じ生まれ育ちでも、「あなたのふるさとは、私のふるさとと同じではない」となるでしょう。
実はこういった所で、ふるさとは変わらない山や川などの自然としているようです。これを基本に、変わっていない所を探しつつ、それぞれのふるさとを定義していると思います。
更に生まれついてそこで暮らしてきた人と、離れた人とでは意味が変わります。
それが、住んでいる人にはふるさとというのは、おかしいという私の発言になります。ただ離れた人にとっても、住んでいる人にとっても繁栄というのはうれしい事です。
ここで考えたい事があります。田舎を故郷という言葉を使う場合です。最近増えているようにも感じています。地方発信の番組なんかでたまに出ていました。コマーシャリズムを感じるのですが、そういった使い方もあります。
実は復興に際して、「ふるさと」という言葉が出ている例が多いように思います。しかも住んでいる被災者がいっているという事です。「ふるさとが居住禁止になった」みたいな発言です。もちろんここで「失われた郷」であるならば正しい言葉です。しかし使われているのはふるさとという遠いイメージであって、誰に向けての言葉なのかよくわからない所があります。
故郷の言葉にはもう一つ、嫌らしい意味があります。それは東京などに人を送った歴史です。現在でもこれは続いています。優秀な人間を輩出して、故郷に錦を飾ってもらうという歴史が戦前ありました。現在もあります。しかし今うまくいっていない、というのが状況だと思います。ふるさとはがんばって育てたのにと思っているかもしれません。育てられた人は、東京で競争が激しすぎてがんばってもがんばっても、何も出来ない。社長になってふるさとに工場を造りたくとも、グローバル経済ではムリとなっています。
ふるさと納税は、言葉の意味でも、この隙間でうまく回ってゆければ面白い制度だと思います。
ふるさとと言う言葉をなぜ地方が、しかも住民が言わなければ行けないのか。本質的な問題だと思います。生まれ育った土地から遠くはなれた時に、ふるさとは生まれるのです。この言葉は、土地を抽象化しなければ現住者が話せない言葉です。確かに津波で「故郷」になってしまいましたが、それでも住むと言うならばそこは故郷ではないのです。生活の場なのです。
私にとっては、違和感のある使われ方をされている言葉は滅多にありません。そもそもふるさとは各個人で違うものです。記憶の問題です。元々住んでいる人に取っては些細な変化でも、出て行った人に取っては大きな事だったりもします。世代間のさもあります。
震災はその意味でも、すべてを消し去りました。残っているのは、ガレキだけではなく、住んでいる人も離れた人も、思い出だけを残して消えました。そこに「ふるさと」が立ち現れていると感じます。
被災者がふるさとという場合には2重の意味が込められているように思います。
まず一つは、自分たちの土地をなんと呼んでいいのか解らなくなっている、という事です。例えば山田町といって良いのか、街と言っていいのか。無くなっているのですから。
それでは、田舎と呼び変えても良いのですが何ともしっくり来ません。そこで「故郷・ふるさと」に落ち着いたのかと考えられます。特に外部から来たボランティアやメディアに対しては使いやすい言葉だと思います。
次が、今現在離れて行った人たちへの期待かもしれません。戻ってきて欲しい。その気持ちが本来使われない言葉に出ていると思います。
もしかすると、東京へ出て行って帰ってこない子弟たちへの呼びかけなども含んでいると思います。
今回は行政による、「ふるさと」の移転が問題なのだとは思います。強制移住なのかどうかという事です。財産権の問題もあります。ここで天災による移住が、人権として正しいのかが議論されるべき問題です。
次にふるさとから土地を切り離して、コミュニティが残っているかどうかという問題もあります。多くの犠牲者を出し、生活のために土地を離れて行った人も多数います。この状態で、高台に移転して新しく生まれ変わったとしても、そこは「ふるさと」と言い切れるのかどうか解らないという事です。
毎年季節ごとに帰省していた家族が、来なくなる可能性もあります。
大変な事例としては、福島県の場合です。子供のために家族で避難した先で仕事を見つけてがんばっているのに、コミュニティからは逃げたと言われてしまって帰れなくなっている状況も起きているようです。この場合、故郷を2重に喪失している事になります。家屋の被災・コミュニティからの拒絶です。これを避けるために我慢する人も現れていると聞きます。
極端で目立つ事例ですが、こういった事が岩手県沿岸でもあるのかどうか。福島ほどではないが、あると考えています。
ここに違う側面もあるのではないのか。この言葉は、同調圧のシンボルとして使われていないか、という事です。かつて「日本男児だろう!」と言われていたのと「ふるさとの復興!」というのは似たような美学を感じるからです。
「ふるさと」という言葉の美しさは解ります。ただこれを連発すると、本来の生活の場を復興させる、妨げになる可能性を感じます。
自家中毒に陥る可能性を秘めているからです。「ふるさとを守り・育てる」といったキャッチコピーが、逆を生む事の方が多いのは誰もが承知している事です。
これが今回は「ふるさとの復興」です。これ以上の曖昧さは無い訳です。
最後になりましたが、自然の大枠さえ残っていれば、大体の所ふるさとなんです。コミュニティがまとまっていていれば尚良いのです。それが出て行った人間の意見です。全く違う姿に変わっても、文句は言えません。むしろ後世に残る意義のある町作りをした方が、自慢できます。
ふるさとというのは、自然だけではありません。自慢できる、ここを忘れちゃいけません。
極端な所、巨大防潮堤に住居があったら?上は道路だという発想が良くない。巨大防潮堤が太陽光発電施設だったら?防潮堤の傾斜角を計算して、風が通りやすくして風力発電もしたらどうか?防潮堤の上は飲食街で海を眺めながらのだったら?すっごい近未来感が出ている。緊急時には防潮堤のシェルターに潜り込めば3日は大丈夫だったら?防潮堤の海側にウオータースライダーを付ければ日本最大落差のウオータスライダーになるかもしれない。漁師は海からはなれるのを嫌がっているが、ここなら海は近い。
逆に全部地下だったら?
無い町を作ってしまうのも考えられる事です。自然には最適でしょう。
ふるさとという言葉は、考える自由も奪う可能性があります。
最後の例だが、実際法令等で出来るはずが無いアイディアだ。だけどこれくらい極端なアイディアを出さないと、変な方向に行ってしまいそうな気がする。
少し付け加えます。日本の民謡は各地域でドメスティックなものだったと思います。それがラジオなどで広がり広域化しました。例えば東京出身者が津軽三味線を弾くとか、九州出身者が東北の民謡を歌うとかなりました。
それがどうかと思われるかもしれませんが、こういったこともふるさとを考える起点にはなりそうです。