ヘルベルト・フォン・カラヤンは、1908年生まれ。ナチ党員疑惑があったが、1946年40歳の時にウイーンフィルの首席指揮者。41歳でウイーン楽友協会の音楽監督、47歳でベルリンフィルの終身首席指揮者兼芸術監督、48歳でウイーン国立歌劇場芸術監督、ザルツブルグの3つの音楽祭の芸術監督と、まあ帝王と言われるだけのポストであった。ウイーンフィルとは59年まで、楽友協会とは64年まで関係は続いたが、それでもザルツブルグ音楽歳での関係は続く。
帝王と言われた所以は、彼が芸術監督である限り彼に好まれなければ、そのオケや芸術祭から決して呼ばれることがないということだ。そういった音楽祭などで名前を挙げながらファンを増やして行かなければいけない。そして世界中から実力を認められなければいけない。そしてカラヤンはその一番の舞台を握っていたということだ。
もちろん例外はある。欲のない人たちだ。例えばサイモン・ラトルはバーミンガム交響楽団を立て直して、そこから離れようとしない。デュトワもそういった傾向にある。ラファエル・クーベリックもそうだろう。だが欲がないというより、「帝王」の後釜になるのが嫌だったといいうだけかもしれない。そしてそういった生き方が嫌いだっただけなのだろう。彼らは「帝王」がいかに嫌なことでもやらなければいけなかったのか見ていた。カラヤンのディスコグラフィーはまさにそれだった。
ここから始まる指揮者は、全部ポスト・カラヤンになれた人たちなのだ。この年代より上はカラヤンに年代が近すぎて、当時としては失格だった。ベルリンは大幅な若返りを狙っていた。そしてラトルの世代は若すぎた。そしてカラヤンは病弱ながらも死にそうにはなかった。
それが1983年のクラリネット首席奏者にサビーネ・マイヤーを抜擢しようとして、ベルリンフィルともめたのだ。ベルリンフィルは男性のみが伝統である、そしてマイヤーの音質は伝統と合わないと楽団員から反発をくらったのだ。そこには多忙すぎてベルリンフィルとの時間を取れないカラヤンへの反発もあっただろう。84年にマイヤーの辞任で丸く収まったが、ベルリンフィルとの関係は悪化したままだった。1989年にベルリンフィルを辞任する。
なおカラヤンが抜擢した人は全員がスターに成っている。どんなカラヤン嫌いでもそれだけは認めないといけない。
さてなぜかこのシリーズは、ただ、という言葉がつく。全てが一流で、最高の演奏なのにだ。
ロリン・マゼール1930年生まれ。44歳の録音だ。8歳での華々しいデビューとストコフスキーとトスカニーニに認められる。ところがウイーン国立歌劇場の首席監督を1982年から始めるがトラブル続きで84年に辞任。どうも性格の不一致としか言えない。その前にマゼールは天才すぎたのだ。昔から傲慢と言われていた。そして性格も強すぎるようだ。
実はマゼールを、ハンガリー人の項目に入れていた。血の1/3はハンガリー人だからだ。とは言ってもユダヤ人だからといって同じ傾向があるわけではない。しかしどこからこの発想が出てきたのかわかりにくいのもマゼールだ。斬新な解釈は素晴らしいの一言なのだが、だががつく。
彼ほど熱くベルリンのポストを明快にした人もいない。有力候補のリッカルド・ムーティーは戦線離脱した。だがそれでも結果はイタリア人にゆく。
クラウディオ・アバドは1933年生まれ。42歳の録音だ。輝かしい経歴とちょっと偏屈な録音歴で有名だ。ちょっと知られていないけどいい曲を発掘して録音するのが、アバドのいいところだった。それがなんでベルリンフィルの首席指揮者になったのかといえばナゾです。デビューでカラヤンから抜擢されたというのはあるのですが、録音に癖があるということはお金にならない指揮者とも言えます。
それでもアバドしかいなかったのは事実かもしれません。これだけのスターを候補にしてありうる可能性がなかった結果だと思っています。
1935年生まれです。44歳の録音です。えっとですね、こういったグラフの傾向のある演奏はモサッリした感じがあるのですよ。一点だけ突出した速さがあるという物です。何かを伝えたいのですが、それがなんなのかは未だもってわかりません。この曲ではそういった一点突破は難しいような気がします。
ただわかっているのは小沢征爾はカラヤンに私淑していたということでしょうか。
ベルリンフィル候補と、日本国内ではそういった報道もあったと記憶しています。
ジェームズ・レヴァインは1943年生まれだから、49歳の録音だ。ベルリンフィル騒動とは関係がない。
少し軽い音質と、巨漢すぎるというのは大きい。見た目の良さも、ベルリンには必要だった。カラヤンがそうだったように。
ズービン・メータ1936年生まれです。33歳の録音です。インドのゾロアスター教の家に生まれました。ウイーンで、ハンス・スワロフスキーに指揮法を学んで指揮者コンクールでデビューという経歴です。その後まさしく一流オーケストラで客演して、ニューヨークフィルの音楽監督というのが目立つ経歴です。
ただその前に、インド人ならではの音感の鋭さというのがありまして、1/8を聞き分けられるほどです。しかしここでは、多分なのですがそれが仇となったのかもしれません。ウニャっとしたところがあります。バーンスタインのネロッ感より私は素直に聞けるのですが、嫌な人はいるだろうな。
そのうちメータのマーラーを探してみよう。きっといい物だろう。
リッカルド・シャイー、イタリア人ですね。1953年生まれ。天才の一人です。ただオペラ好きで、なんで春の祭典を振るのかはよくわかりません。32歳の録音です。
演奏は素晴らしいです。ラインスドルフもそうでしたが、オペラが得意な指揮者というのは、客のツボを心得ています。でも何かがひっかかります。
まずベルリンフィル騒動前に、この世代の指揮者たちは悩みすぎている感じがあります。ブーレーズショックは前世代の叩き上げの指揮者たちより、むしろ正当な教育を受けた人たちのほうが深刻だったと思います。ドラティなんてブーレーズの影響なんて微塵もありません。
そして録音が多い時代になると当然比較もされます。様々あったと思います。プロデューサーからショルティと比較されたり売り上げとかを言われたりしていたかもしれません。でもそれでも、何かしっくりしないのはカラヤンの演奏があるからです。その影響がどこかしらにあるような気がします。
そして完璧であろうと努力すればするほど春の祭典は遠ざかって行く、不思議な曲のようです。
チューリッヒ・ダダの中にハンス・リヒターという芸術家がいたのですが、後年「ダダ」というダダイズムを総括するような評伝を書いています。その最後に、ダダイストとは名乗ってはいないがダダイストだと思うというリストに、ストラヴィンスキーの名前も出ています。そう思ってストラヴィンスキーの初期を見れば、火の鳥、本当は春の祭典になる筈だっがペトルーシカ、そして春の祭典。うぐいす、兵士の歌。新古典主義の大作群、そして12音階技法と宗教曲。一貫性のないのが一貫性という特徴が見えてきます。そして改訂癖。春の祭典67年版でも修正がかかっているということは、初演から54年たっても徹底する気のなかったストラヴンスキーの、不真面目さが伺えます。これはアメリカでの著作権の問題もあるようです。アメリカ時代のストラヴィンスキーは元貴族としては貧乏だったようで、そのため必死だったようですが、ダダイストだったとすれば全ては納得できるわけです。