明治維新に活躍した偉人たちの子孫(勝海舟、榎本武揚、大久保利通、川路利良、山本権兵衛)を呼んで語らうシンポジウムを聴いてきた。
コロナ禍のために2回延期されての開催にこぎつけた。
勝海舟の子孫の高山みな子氏がコーディネーターを務めたのは、時代が移っても主導する役割をになったパネルディスカッションだった。
榎本武揚は若いころに北海道を回遊した経験から、一時的に北海道で榎本を総裁とする独立国の新政権樹立を宣言した。
新政府から徳川藩の禄高を減らされてしまい、家臣を養っていけぬために北海道を下検分して資源が十分にあり開拓の余地があることから、函館に立てこもったのが経緯だという。
島津家は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であった。
江戸時代に、薩摩藩では日ごろから鉄砲撃ちを鍛錬していて、戦いに向けての素地があった。
鹿児島市加治屋町には、西郷隆盛や大久保利通に東郷平八郎や山本権兵衛が生まれ育った。
冷徹な大久保利通は、家に帰ると子供たちが駆け寄ってくるほど慕われ、子煩悩であったとは意外な一面だった。
川路利良は、西郷隆盛が可愛がった。もとより、島津斉彬が目を掛けていた優等生だった。
後に、西郷が欧州に留学させてポリス制度を学んで帰り、日本に警察制度を根づかせた。
山本権兵衛は、西郷隆盛からの推薦状を携えて勝海舟を訪問するも、会ってもらえずに山本の本気度を確かめられ海軍操練所の入門を許された。
軍人としての印象が強いが、2度総理大臣を務め、関東大震災で荒れた地を復興した。
シンポジウムのラストの各人の締めくくりに、榎本隆充氏と大久保 利泰氏は70年来の親友と打ち明けた。
コロナ禍のために2回延期されての開催にこぎつけた。
勝海舟の子孫の高山みな子氏がコーディネーターを務めたのは、時代が移っても主導する役割をになったパネルディスカッションだった。
榎本武揚は若いころに北海道を回遊した経験から、一時的に北海道で榎本を総裁とする独立国の新政権樹立を宣言した。
新政府から徳川藩の禄高を減らされてしまい、家臣を養っていけぬために北海道を下検分して資源が十分にあり開拓の余地があることから、函館に立てこもったのが経緯だという。
島津家は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であった。
江戸時代に、薩摩藩では日ごろから鉄砲撃ちを鍛錬していて、戦いに向けての素地があった。
鹿児島市加治屋町には、西郷隆盛や大久保利通に東郷平八郎や山本権兵衛が生まれ育った。
冷徹な大久保利通は、家に帰ると子供たちが駆け寄ってくるほど慕われ、子煩悩であったとは意外な一面だった。
川路利良は、西郷隆盛が可愛がった。もとより、島津斉彬が目を掛けていた優等生だった。
後に、西郷が欧州に留学させてポリス制度を学んで帰り、日本に警察制度を根づかせた。
山本権兵衛は、西郷隆盛からの推薦状を携えて勝海舟を訪問するも、会ってもらえずに山本の本気度を確かめられ海軍操練所の入門を許された。
軍人としての印象が強いが、2度総理大臣を務め、関東大震災で荒れた地を復興した。
シンポジウムのラストの各人の締めくくりに、榎本隆充氏と大久保 利泰氏は70年来の親友と打ち明けた。
滅多に聴けない貴重なシンポジウムでしたね。
iina様はいろいろな講演会などに興味を持ってお出かけになっているので博学なのですね。
素晴らしいです。
>「新手のヤミ金」、いろんな悪知恵を働かせるものです。困った人たちです。
悪知恵でなく、それを良い方に働かせたらよい人生が送れるのに、残念な人たちですね。
「小春」は、春前のちっちゃな春みたいな「小」なのに、旧暦10月の異称なのがおもしろいです。たしかに、コスモスは秋ですね。
> 日本人は「春」の暖かさをイメージするのに対し、外国人は「夏」の暑さをイメージするようです。
そんな印象ですね( ^ω^)・・・
> 日本の近代化に貢献した人たちの子孫の皆様による歴史の隠れた事実が聴かれたことと思います。
興味深いシンポジウムでした。
とはいえ、またコロナ第8波がやってきたようで、このような講演は、また自粛に追い込まれそうです。
>当時これからの人づくり町づくりをどのように考えたのか?
本当にすごいメンバーですね
一般庶民としも興味ありますが・・
現在の 総理や閣僚、政治家の皆さんに
是非参加して欲しいものですね
用作公園の 心字池で撮影された美しい女性でした ^^
勝海舟と榎本武揚は江戸生まれで、他の大久保利通、川路利良、山本権兵衛は薩摩生まれで日本の幕末に活躍しました。
講演した原口 泉も鹿児島生まれですから、薩摩人の凄さを語りました。宮崎県のお隣の県ですね ^^
西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、山本権兵衛が生まれ育った加治屋町は、実際は非常に狭い町で、この4人の家はみんな隣近所という感じでした。
歴史上の偉人が、こんなに狭い地域に密集していたというのには、ホントに驚きました!
九月中旬に歩いたのであれば、まだ暑かったでしょうから渓谷の涼しさに癒されたことでしょう・・・。
「等々力」を「とどろき」と読ますのを「ふとどき」にも」知らなかったですが、社会人になってのころに、ドライブして教えられました。
竹林の日本庭園など、滝があったりと楽しそうです。
鹿児島の非常に狭い加治屋町に生まれた人が幕末-維新にかかわっています。長州も三角州の小さな町の萩からも逸材を出しています。城下町でした(;^_^A